第十一話 夜明けが幕を引いていく 沈む闇夜と無邪気なあかつきのインタールード
コンテナの中は重く沈む闇で溢れていた。
舞台演出用のドライアイスが床から粉吹くように闇は噴き出し、瞬く間に下半身を埋め尽くすほどの雲海が形成される。その闇は毒ガスのような禍々しさに反して実害は無いが、しかし触れると日陰にいるような冷たさを感じさせた。
「なに! なにをしてるのミドリ!? これはやばいって! やばいってばぁ!?」
アカネが闇を恐れるようにミドリの隣で壁に体を押し付ける。両手両足を縛られたままで足を引いて縮こまり、ミドリの肩に頭部を押しつけるようにしていた。
対してミドリは目を閉じて静かに瞑想している。アカネの言葉に一切反応を返さないまま、壁に背中をもたれ掛けさせて薄く笑みを浮かべていた。
そして数分して闇のよどみが視界を埋めつくしてしまった頃、ミドリは目を細く開き、穏やかな声で答えた。
「安心してくださいましアカネさん。わたくしの知っているあれは、襲ってくるような凶暴な相手ではありませんわ」
ミドリは正面を見据えて行った。
闇は深く、壁を覆い隠すほど厚みがあり、特にミドリが視線を向けた先は100メートル先まで奥行きがあるように見えるほどだった。
そんな濃い闇の中に、音を立てずに形を整えていく人影のような塊が現れる。
その姿はガスの塊のように不鮮明であったが、確かに人の形をしていた。
やがて色を濃くして姿を明瞭としていくと、頭部らしき場所に突然、黄金色の瞳が見開く。
「シャドウ!?」
「ええ、そうですわ。あれはわたくしのシャドウ。かつてお人形さんだったころの、わたくしですわ」
そのシャドウはドレス姿で現れた。
アイドル衣装のドレスではなく、パーティーで子供が着てくるようなリボンのついたワンピースドレスである。背格好は小学生程度で外国人的な顔鼻立ちをしており、長い髪をがっちりドリルヘアーに固めた姿は、まるで西洋人形のような無機質さだった。
今現在、髪を下ろしてパジャマ姿で縛られているミドリと対比すると、まるで別人のような気品さと清潔感があった。衣装の皺まで形成されていくと、シャドウは両手を重ね、くるぶしを合わせて凛と立ち構える。
シャドウが完全に体を形成したことを確認すると、ミドリはシャドウに対して挨拶した。
「お久しぶりですわね、わたくし」
《お久しぶりですわ、わたくし。ご機嫌麗しゅう》
シャドウはスカートの裾をつまんで丁寧なお辞儀を返す。
「シャドウが、喋った!?」
アカネが目を見開いて驚愕した。
質の悪いラジオのスピーカーから流れてくるようなかすれた声でシャドウは喋っていた。その声は空気を震わせるものではなく、意識に直接語りかけるようなテレパシーのような声だった。
ミドリはそのシャドウに対して笑みを見せ、まるで古いなじみにでも会ったかのように語りかけた。
「消えていなくて助かりましたわ。あなたを最後に見たのはいつだったかしら?」
《昨年ですわ。ですがまさかまた逢えるとは思いませんでしたわ。本日はどのようなご用件でしたの? わたくしをわざわざ呼び出して、一体いかがするおつもりです?》
「なにもしませんわ。あなたはただ座って待っていただければ結構。後はブラックがシャドウを感知する能力でわたくしたちを見つけてくれますわ」
《そうでしたの。それは、……残念ですわね》
シャドウ・ミドリはその場でスカートを広げて上品に腰をおろした。
《ですが、安心しましたわ。今のわたくしは、楽しそうに過ごせていらっしゃるようで》
「心の闇であるあなたがわたくしを肯定してよろしいのですの? 昔は散々弱音ばかり言って、わたくしの心を折ろうとしていたあなたが」
《……心の闇は、心の本音。心のまま、気のままに過ごすあなたを見て、あなたを祝福しないわけにはいきませんわ。わたくしは備品の人形であった頃のわたくし。今となっては輝くあなたを見て羨ましいという気持ちしか湧きませんのよ》
「そうですのね。確かにあの頃と比べれば、今のわたくしは理想の姿そのものですわ」
《ええ、応接室の端でなにもせず六時間座り続けたあの毎日と比べれば、今のあなたは光り輝いている。あの日アイドルに誘われた時、わたくしを心の奥底に押し込んで正解でしたわね》
「ええ、それはもう。……しかし、まさかあなたに褒めていただけるなんて思っていませんでしたわ。わたくしの心の闇は、もっと淀んでいて、わたくしのことを下品と攻めてくるものと思っていましたから」
《それは誤解ですわ。確かに自ら光り輝くあなたと、シャドウのわたくしは表裏一体。だからといって正反対の存在というわけではありません。すべての心は陰影あって形作られる。光の戦士であるキューティクルズに言うのもあれですが、シャドウは邪悪ではありません。ただ、善良な人間が心の奥に溜めこむものは邪悪な場合が多いというだけですわ。それは食欲しかり、性欲しかり、ろくでもない心の本音が溢れてくると人を襲うシャドウになる。ですが、あなたが心の奥にしまい込んだのは人形としての自制心。暴れる心配はありません》
「それは分かっておりますわ。昔のわたくしは無気力人間まっしぐらでしたものね」
《その通りでしたわね。ふふっ》
シャドウ・ミドリは口元を押さえて上品に微笑んだ。人外的な黄金色の目を持っているにもかかわらず、その人間らしさはもはや一つの生命体に見えた。
そんな様子に、呆然とアカネは口を開いていた。
「ウソでしょ。……自分の心の闇と、こんなふうに、会話できるなんて」
「わたくしは例外ですわアカネさん。長いことこの闇と付き合ってきましたから。彼女は否定できないもう一人のわたくし自身ですの」
ミドリがアカネを見ずに答えた。
シャドウ・ミドリはミドリの紹介を受けると、座ったままアカネに体を向け、丁寧な一礼をした。
《ごきげんようアカネさん。はじめまして、ではありませんわね? キューティクルズになる前の、お譲さまだったころのわたくしでしてよ? お久しぶりですわ》
「あ、はい、お久しぶりです。……じゃなくって!? ええっと、シャドウって、敵じゃなかったの!?」
《わたくしは例外ですわ。多くの人は自分の凶暴性を心の闇として閉じ込める。ですが、わたくしのように心穏やかな存在であることもありますわ》
「そう、なんだ……」
アカネは凶暴でないシャドウを物珍しそうに眺めていた。こうしてシャドウと会話することなど初めてだったので、開いた口がふさがらないといった様子だった。
《しかし久々に出てこられたのですから、わたくしは、わたくしに言っておかなければならないでしょうね?》
「わたくしに? あなたから?」
シャドウ・ミドリは再びミドリに向き直ると、自分の目を正面に見据えて言った。
《財閥の解体など、やめて下さいまし》
「っ!? なにをっ!?」
「え、ミドリ、どういうこと!?」
ミドリは目を見開いて驚愕した
隣にいたアカネは困惑した様子でミドリを見る。
《この場にはアカネさんもいます。ですから、貴方を説得する絶好の機会は今しかありません。高貴なる青き血から逃れるために、会社を倒産させることなどあってはなりません》
「黙ってくださいまし!」
《黙りません。わたくしは心の本音ですわ。多くの従業員まで巻き込んで、あの帝国を滅ぼす必要なんてありません。お母様を殺したお父様に復讐するために、そこまでする必要はありませんのよ》
「ミドリ! どういうこと!?」
アカネが驚きを隠せずミドリを見つめる。ミドリは焦った様子でシャドウ・ミドリを睨みつけていたが、手足が縛られていたのでどうすることもできない様子だった。
《アカネさんからも説得してくださいまし。わたくしは自分の財閥を滅ぼそうとしています。重役たちには解体後の会社の財産を報酬として渡し、倒産の責任をすべてお父様におしつけるつもりですわ。お父様は四日後、軟禁部屋から抜け出して社長室に忍び込んだ瞬間に、思いつく限りの会社犯罪の冤罪を着せられて牢獄に放り込まれることになりますわ》
「でたらめですわ! アカネさん! シャドウの言うことなど信じないでくださいまし!」
《真実を見つめなさい! 心の安寧の為に復讐など愚かですわ!》
「愚かっ!? なにが愚かですの! わたくしには正当な理由がありますわ!」
《お母様はお父様に殺されたわけではありませんわ! たしかにあの夜、怒ったお父様はお母様を部屋に閉じ込めました。部屋でダンスの練習をしていたお母様は足を滑らせてタンスの角で喉を切り裂いた。声の出せなくなった母は死に物狂いで扉を叩いた。確かにそれをお父様が無視しなければお母様は死ななかったかもしれません。ですが、それは人殺しではありませんわ!》
「黙りなさい! 黙れ嘘つきっ!」
《嘘つきはあなたです! さっきも子守唄を歌ってもらったことが無いなどと嘘を言って! お母様に顔向けできないからそんな嘘をつくのですわ! あなたがアイドルになれたのも歌を愛したお母様のおかげ! 社交界のパーティーでもミュージカルのように笑顔で踊りだす母を見ていたから、あなたはアイドルになることができた! お父さまははしたないと怒っていましたけど、そんなはしたないお母様のようになりたかったのでしょう!? あなたがなりたかったのは謀略にまみれた復讐者!? ミュージカルスターではありませんでしたの!?》
「黙れぇぇぇぇぇ!」
ミドリは怒り狂って、シャドウ・ミドリに噛み付こうと頭から飛びかかっていった。
《わたクシは心ノ本音! 黙リマセンワァァァァァァァ!》
その瞬間、シャドウ・ミドリに翼が生えた。
子供のようだった手には鉤爪が生え、四本の指で飛びかかってきたミドリの喉を掴んで止める。
「あがっ!?」
「ミドリ!?」
ミドリは喉を掴まれると、たやすく片手で吊るし上げられる。
気付いた時にはシャドウ・ミドリの身長は二倍ほどになっていた。全身に羽毛が生えてきて膨らんでいき、顔は鼻先から尖っていくとクチバシへと変貌していく。頭部には鳥かごの鉄格子が兜のようにかぶせられ、胴体や四肢には体を締め付ける黒革のベルトが鎧代わりに巻かれた。
《貴方ダッテ分かっテいる! 本当ハこんなコト、スべきでは無いなんテ!》
「では、誰があの男に罰を与えるのですの! あれは許されていい罪ではありませんわ!」
《罰ハ既に受け、後悔もシテいます! 後ハ貴方の許しダけ!》
「この世に許される罪なんてはありません! わたくしは未来永劫憎み続ける! お父様のような外道を!」
《やはりアナタは嘘ばかリ! ダカラ本音を心ノ奥に隠した! ワタクシを呼び出したノなら、しっかりと自分の闇と向き合ッテもらいマスワよ!》
鳥の怪人と化したシャドウ・ミドリは、片手に掴んだミドリの首を締めながら責めるように言った。
やがてミドリは小さなうめき声を上げ気絶する。それを無理やりたたき起そうと、シャドウ・ミドリは大きく息を吸い込んだ。
そんな時、コンテナの扉が何かに叩かれたかのように、ガチャン、と、音を立てて揺れる。
《なんデス!?》
「えっ誰!?」
ミドリだけでなく、アカネも扉の方向を見やる。
扉の外では、かんぬき代わりに巻かれた鎖の抜き取られる音が響いていた。数秒して音が鳴り止むとコンテナの扉が開いていく。
「アカネさん、ミドリさん、無事でしたか!?」
扉を開けたのは漆黒のアイドル衣装に身を包んだ少女、ブラック・キューティクルだった。
「大丈夫だった二人とも!」
その後ろからは、いまだバスローブ姿のままのローズも姿をみせた。
「ブラック! ローズお姐さん!」
アカネが言う。
その登場に合わせてシャドウ・ミドリは二人に体を向け、首を掴んだままのミドリを見せつけるように臨戦態勢を取った。
《コンバンハ二人とも。どうやらワタクシは間に合わナカッタようですわね》
「あなたは、……ミドリさんのシャドウですね。ええ、こんばんは」
ブラックは物静かながらも、シャドウ・ミドリを見てやや機嫌よさそうに挨拶を返した。
《ぶしつけで申シ訳ありまセンが見逃してイタダケませんか? ワタクシ、今回ばかりハ消されるわけにはイキマセンくてよ》
シャドウ・ミドリはもう片方の四本指鉤爪をブラックとローズに向ける。
だが、ブラックはそれを異にも介さず、抑揚のない声で答えた。
「ええ、それは構いませんよ? シャドウが自我を取り戻すのはいいことです。どうやら、やっと私たちにも運が巡って来たようですね」
ブラックはミドリを人質に取ったシャドウ・ミドリに敵意も見せず、背後にいるローズをチラリと見た。
「ブラック、どうするの?」
ローズが尋ねる。
「企画変更です。私がわざわざシャドウを呼び起こす必要が無くなりました。ローズさんはアカネさんを連れていってください。私はこの場でこのシャドウの手助けをします。幸いなことに、このコンテナの中は充分暗い場所のようですから」
「ええ、分かったわ」
ローズは当然のように答えると、見下ろすようにアカネを見た。
するとその瞬間に、ローズの足元の影がひとりでに動き出す。影は光源に逆らってコンテナの中に勝手に伸びていくと、意思を持つかのようにゆっくりと地面から這い出して実体化していく。
最初に出てきたのは枝分かれした角。前に長い鹿の顔。それに続いて針金のように細く恐ろしく長い人の指が伸びてきて、がりがりに痩せた胴体と腕が姿を現してきた。
「そんな!? なんであの鹿のシャドウがっ!? きゃぁぁぁぁ!」
アカネはその細く長い指に体を鷲掴みにされて持ち上げられた。
ローズの屋敷でキューティクルズを襲った鹿頭のシャドウと完全に同一の個体。悪魔崇拝の偶像のような鹿頭のシャドウは表情を見せず振り返り、手に持ったアカネを担いでローズの元へ歩いていく。
《これハ、一体、どうイウ事ですノ!?》
「シャドウ。貴方に闇の力を貸してあげましょう。光の仮面と真実の闇は一つとなり、あなたが望む本当の自分を取り戻せる。そのかわり、私の企画にも力を貸してもらいます」
《力ヲ貸す? それは内容次第デスわね!》
「イエス・ノーは関係ありません。影であるあなたは、深淵の暗闇であるこの私に逆らう術をもたないのですから。ですが安心してください、あなたの望みは叶えます。さあ、契約を行いましょう」
《ナニを勝手な!》
「ローズさん、扉を閉めてもらえますか」
「ええ、シャドウ、閉めてあげて」
ローズがそう命じると、鹿頭のシャドウが背後を振り返りもせずに扉を閉めた。
コンテナの中にはブラックと、シャドウ・ミドリと、気絶したミドリの三人だけが残った。
コンテナの隙間から闇が溢れてくる。その闇は個人の生み出す霧のような闇とは圧倒的に濃さの違う、泥濘とした重苦しい闇だった。一呼吸しただけでも生命体を窒息させるような粘度を持ち、コンテナの中を原初の混沌へと変貌させていく。
暗黒が、その夜、一人を闇に呑み込んだ。
▼ ▼
白いレースのカーテン越しに、穏やかな陽光が頬を照らしていた。冬が近くなってきたとはいえその光は温かく、人肌の体温のような愛おしさを感じさせる。
そんな光を目覚まし代わりに浴びて、アオバはウトウトと目を覚ました。
少し重いが手触りのいいウールの毛布が体を包んでいる。弱めの暖房が心地よく、遠くから鳴る鳥のさえずりが耳をくすぐる。生まれてから一度も感じた事のないほど静かな朝で、足元のベッド下にある空気清浄機がささやかに風を切る音だけが聞こえていた。
アオバは寝返りを打って大きめの枕に頬ずりをすると「んぅ~」と心地よさげな寝言をつぶやいた。
目覚まし時計の鳴らない朝。携帯端末の着信音もならない。空気はおいしいし、太陽は温かい、毛布の中は居心地がいい。
今日はなんていい日だろう。
アオバは寝ぼけまなこで目を開いた。ぼやける視界の中を探り、現代人の悲しい習性として、最初に視線を向けたのは黒ぶちの壁掛け時計だった。
焦点が合わなくて時計の針が見えない。
アオバは寝返りを打って体を戻すと、半目開きの目でぼやける時計の長針と短針を確認した。
一瞬にしてアオバの全身に鳥肌が湧き立つ。
「十時半っ!? 稽古遅刻じゃん!?」
バネ仕掛けのようにアオバは上半身を跳ね上げた。
「目覚ましっ! 目覚ましっ!?」
アオバはほぼ無意識的な動きで、ベッドサイドにあったはずの目覚まし時計を掴もうと腕を振り下ろした。
「あ痛ったぁぁぁ!?」
「オォォォ!?」
アオバはベットサイドテーブルに置かれたペン立てを掴んだ。無論ペン立てはペンが針の筵のように突き出した代物である。どのボールペンやシャープペンもノック部分が上に来ていたとはいえ、焦って振り下ろされたアオバの手のひらには剣山に突き刺さるような刺激が伝播した。
そしてアオバの絶叫を聞いてクロスがソファーベットから飛び起きる。
クロスは黒いレザーのロングコートを着たまま布団を掛けずに眠っていた。緊急時に備えて臨戦態勢であったとはいえ、寝起きに絶叫は心臓に優しいものでもなく、状況をすぐに理解できないで絶叫の鳴る方角を見やった。
クロスが敵襲に備え体を起こした時、アオバはベットの反対側にフェードアウトしていくところだった。
「きゃぁぁぁぁぁ!」
アオバはベッドから床に転がり落ちていく。ベットと窓に挟まれるようにして床に背中を打ちつけ、掴んだ毛布がその上に覆いかぶさっていった。
アオバの体は膝から上だけがベッドの上に残っており、アオバは必死に足を引っ掛けている様子だった。
しかしベットの上に足が乗っていては立ち上がることもできない。
クロスが周囲を確認して敵襲の可能性を排除するまでの間、アオバは床の上で寝ぼけた頭を覚ますこととなった。
――――二分後。
「ごめんなさい! 僕、睡眠時間こんなに取るの久しぶりで、その、寝ぼけてて!」
アオバはソファーベッドに腰掛けると勢いよく頭を下げた。寝癖のついた猫っ毛のショートヘアーが大きく揺れる。その声はいくばくか緊張した様子であった。
男物の大きなジャージの袖をまくっているので、アオバの両手両足にはピエロのようなドーナツ状の布の塊が取り付けられていた。例によってジャージの中は下着であり、頭を下げた瞬間、大きく開いた首元から水色のソフトカップ付きキャミソールが姿を覗かせる。
「ムゥ」
アオバにはブカブカすぎるジャージだ。比較的小さなサイズのジャージはユダに渡してしまったので、クロスの手持ちで比較的まともそうなジャージはこれだけである。
割と真面目に、クロスは提供用に女性用衣類の購入を検討した。
「えっと、その、朝だって言うのにこんなに騒がしくしてごめんなさい。あ、あの、迷惑掛けて、怒って、ますよね」
アオバは上目遣いでクロスのフードの中の目を覗き見た。
「ム……」
クロスは困ったような声を鳴らした。
別に怒るようなことなどなかったのだが、いまだ恐怖的な印象が抜け切れていないようでアオバの腰は引けている。フードで隠したクロスの顔に静かな怒気を感じているかのようだった。
クロスはそんな印象を払拭しようと、メモ帳を手にとって丁寧に文字をつづった。
『なにか朝食を作ってくる』
書いたメモをクロスは見せると、ソファーベットから立ち上がった。
「あ、それなら僕が作ります!」
アオバも同時に立ち上がると、キッチンに向かおうとするクロスを遮るように前に立った。
「ウ、ムゥ?」
「僕、料理が得意なんです! 僕に作らせて下さい! せめてそれくらいはしておかないと、キューティクルズとしての品位が死ぬんです! 名誉挽回のチャンスを下さい!」
アオバは両手を合わせると頼みこむようにクロスの前で頭を下げた。
クロスは小さくうなずいて許可する。
「ありがとうございます!」
アオバは即座に小走りで台所に向かう。クロスを前にしてやはり緊張しているのか、その動きはあわただしかった。
「えと、えっと、冷蔵庫の材料とか、使ってもいいですか!」
アオバが冷蔵庫に手を掛けた状態で止まっていると、クロスはすぐに小さくうなずいた。
「それ、それじゃあ、失礼します!」
アオバはカウンターテーブルの向こう側で冷蔵庫の扉を勢いよく開けた。
そのせわしない動きには隠しようもなく緊張感がにじんでいる。やはりまだクロスの人となりが理解できていないようで、食人鬼を相手にしているかのような焦り方だった。
「卵と……、ベーコン、ソーセージ、キャベツ……、あ、食パンがある。それじゃあ、エッグトースト……。いや、フレンチトースト! フレンチトーストはどうですか、クロスさん!」
クロスはうなずいた。
それと同時にクロスは立ち上がり、書いておいたメモをアオバに見せた。
『なにか手伝おう』
「あ、いえ、大丈夫ですから! どうぞ座って待ってて下さい!」
「ムゥ……」
クロスはカウンターテーブル手前で立ち止まった。
アオバは手際よく冷蔵庫から卵を取り出し、カウンターテーブルの上に砂糖と蜂蜜のビンが置かれていることを確認して、今度は調理器具を探し出した。
「えっと、ボウル、ボウル……」
アオバが腰を低くしてシンク下の戸棚を探っている時、クロスの携帯端末からメールの着信音が鳴った。
クロスは振り返り、テーブルの上に置いていた携帯端末を拾い上げる。そしてレッドから送られてきたメッセージの文面を確認した。
『おはようクロスさん。今朝になって、変電所もショッピングモールも元通りになっていたらしい。おそらくイエローの仕業だ。警備員が怪我したままであるということ以外は、全部が時間が戻ったかのように元通りになっていたという話だ』
そこまで読み終えると、その瞬間に重なるように新たにメッセージが届けられた。
『ポリスレンジャーが現場調査に行ったが、事務所の鍵が無くなっていること以外不審な点がなかったらしい。事務所の鍵はイエローが持っていったのだと思う。まだイエローはショッピングモールで何かをする可能性があるから、その周辺には近寄らないよう気をつけてくれ』
クロスはハッと気付き、自分のポケットをまさぐった。すると、右のポケットから事務所の鍵が出てきた。
「ム、ムゥ……」
うっかり事務所の鍵をそのまま持ってきてしまったようだった。どうしたものかとクロスは困った声を呟いた。
「フライパン……、フライパン……」
そんなクロスの背後では、アオバがフライパンを探していた。
そんな折、アオバは立ち上がるとキッチン上部の戸棚に手を掛ける。そのままでは取っ手に手が届かなかったので背筋をピンと伸ばし、つま先立ちになって指先を取っ手に引っかけた。
「あれ? ここの戸棚だけ、古くなって建てつけが悪くなってる」
アオバが手を掛けたのは一番奥の、一つだけ金具に錆びのある戸棚である。アオバが少し引くだけではびくともせず、力を込めると木材の擦れる音を鳴らして少しずつ開く。
「オォッ!?」
その扉を開けようとしているアオバを見たクロスは、驚愕した。
だが、クロスが静止する間もなく扉が開く。
「きゃっ!?」
中華鍋だ。
戸棚からは大きな中華鍋が落下してきた。重苦しい金属音を鳴らして床をはねると、左右に大きく揺れながらゆっくり回転する。
「びっくりした……。なに、中華鍋? うわっ、油が付いたままでカビ生えてる」
それは封印されていた中華鍋。
洗われないまま棚に仕舞いこまれたせいで、油分中のオレイン酸等の脂肪酸が白く凝固し、クラゲのようになったものが斑点状に浮かんでいた。固まった油がカビに見えているだけで実際にカビが生えていたわけではないが、とても衛生的な品物には見えなかった。
「ヴォォォォォォォ!?」
その中華鍋を見た瞬間、クロスは絶叫を上げて壁に背中を張り付けた。
「えっ!? なにっ!?」
その様子にアオバも驚く。
クロスの尋常じゃない怖がりようにアオバも振り返って中華鍋を覗くと、その中華鍋に不気味な何かを感じて本能的に後退した。
「なにっ! なにっ!? この中華鍋、何かあるの!?」
アオバも慌ててクロスの近くまで駆け寄って逃げていく。
壁に張り付いたクロスの腹部にアオバは飛びつくと、顔を押し付けながらも視線を中華鍋に向け、警戒した。
「呪われてるのっ!? 襲ってくるのっ!? 爆発するのっ!?」
アオバにクロスの恐怖が伝染する。
見れば見るほど不気味に思えてくる中華鍋に、アオバの生存本能が警鐘を鳴らす。不死身の存在がこれほど恐怖する事態がまるで理解できず、アオバの危機意識が心臓を高鳴らせた。
「に、逃げなきゃ!? クロスさん!」
「オ、オォッ!」
アオバはクロスの手を掴むと走りだした。クロスもそれに引きつられて走りだすと、ベッドの上に飛び乗り、二人はベットの影に隠れた。
そして爆発を警戒するように、アオバはそこからヒョコリと顔を出して、視線だけを中華鍋に向けた。
――――五分後
「し、死ぬほどびっくりしたぁ~。クロスさん、あの中華鍋が個人的なトラウマだったんだ……」
「ムゥ」
クロスは説明のために使ったメモ帳を懐にしまった。
アオバはベットの影から身を乗り出してキッチンに向かうと、無造作に中華鍋を拾い上げてシンクに入れ、お湯を流すと亀の子タワシで洗い始めた。
クロスはその様子をベッドの裏で隠れて見ている。
「熱々の油を頭から被ったのならそれはトラウマになるよね。でも、だからってこれを洗わないまま隠しておくなんて駄目じゃない? せめて誰かに洗ってもらおうよ。それこそ手を滑らせてしまったお母さん本人とか、あと頼めばお願い事を聞いてくれそうなヒーロー戦隊の人たちとか」
アオバは少しずつクロスに対する敬語が崩れてきていた。クロスの人間らしい怯え方を見て、ようやくクロスが恐ろしい相手ではないということが理解できてきたようだった。
「ウゥ……」
クロスはベットの後ろに隠れたまま、自身の情けない要素を突かれてションボリとうなだれる。しかし怖いものは怖い。クロスは中華鍋の存在を警戒していまだベッドの影から抜け出すことができなかった。
「よしっ! 綺麗になった! クロスさん! これは棚に戻しておけばいいですか?」
アオバは振り返り、中華鍋を持ち上げてクロスに綺麗になった鍋の内面を見せつけた。
「オォッ!」
クロスはその中華鍋が視界に入った瞬間に目を逸らし、怯えるように手を眼前に掲げて見せた。
「そんなに苦手!?」
アオバはそのクロスの驚きように驚愕した。とてもじゃないが先日の襲撃時と比べて、別人としか思えないほどの変貌ぶりである。フードで顔が見えないのをいいことに、中身が入れ替わっているのではないかと思えるほどだった。
「えっと、それじゃあ、これは棚に戻して……。…………」
アオバは反転して中華鍋を自分の体で隠すと、なぜだか突然考え込み始めた。
クロスはその静まり返ったアオバの様子を不思議そうに見やる。
アオバはしばらく中華鍋を持ったまま佇み、クロスに視線を向けずに尋ねた。
「クロスさん、これが苦手ですか?」
「……?」
アオバが静止したままで言う。
背中を向けられているのでクロスはうなずくことも出来ず、ただ不思議そうにアオバの背中を見つめていた。
「うりゃっ!」
「ヴォッ!?」
アオバは勢いよく振り返って中華鍋をクロスに向けた。
クロスは驚き、反射的な動きで身を低くする。
その様子を確認したアオバは、いたずらっ子のような意地の悪い笑みを見せた。
「ふっふっふ、クロスさん、これが苦手なんだ」
「オ、オ、オォ……」
クロスが心の底から怯えだす。
その様子が心地よいのか、アオバは中華鍋を一回転させると、キッチンから出て中華鍋の底をクロスに向けながら近付いていった。
「ほら~、どうした~!」
「オォォォォォォ!?」
クロスは飛び上がるように立ち上がり、背中と両手を窓に押し付けた。
アオバはそんなクロスを追い詰めるように、じりじりといたぶるような歩みで近付いていく。
クロスが怖がっている様子が愉快でしかたないようだった。
「昨日はよくも追いかけてくれたな! 復讐だー!」
「ヴォォォォォォォ!?」
アオバがベッドに飛び乗ると、クロスは迂回してベッドから抜け出した。壁沿いに進んでなるべく中華鍋から距離を取るようにして進み、視線をアオバから離さずに逃げた。
「うりゃうりゃ~! 待て待て~!」
「オォォォォォ!?」
クロスは壁沿いを進んでいたので常時追い詰められていたようなものだった。
笑顔のアオバがクロスを追いかける。その追走に一切の容赦はない。
アオバは最低限の距離だけ歩いてクロスに中華鍋を向けるが、しかしあえて急接近なんてしない。いつでもお前に中華鍋をくっつけさせることができるんだぞ、と恫喝的な暗示をアオバは示してクロスを怯えさせていた。
「ふはは~! どうした~!」
アオバのご機嫌は絶好調に達していた。悪役じみた台詞を棒読み的に叫び、中華鍋という圧倒的パワーを振りかざして一転攻勢に出る。これほど心地のいい展開はないとさえ思えた。
すっかりいじめっ子と化したアオバは、満足するまでクロスを追いかけまわし、中学生的な無邪気さを存分に発揮した。
アオバが満足する頃にはクロスは涙目だった。やがてクロスは台所の奥にまで追い込まれると、カウンターテーブルとシンクと壁に三方をふさがれ窮地に陥った。
「追い詰めたぞー!」
アオバは笑顔でクロスに中華鍋を向けた。壁に手足を貼り付けて怯えているクロスを満足そうに眺めると、それ以上近づこうとせず、中華鍋を体に引き寄せた。
「ふ~、満足! これでお互い恨みっこなしだよねクロスさん! 昨日は本当に怖かったんだからね! これでおあいこ!」
そうアオバは朗らかな笑顔で言うと、中華鍋を持ち上げ、棚の上に戻そうとつま先立ちになって背筋を伸ばした。
クロスは中華鍋が片づけられていく様子に胸をなでおろす。
その瞬間。
「あっ!?」
中華鍋が棚の中の隠れていた見えない二段目にぶつかり、アオバの手から離れて落下した。
「きゃぁっ!?」
「ヴォォォォッ!?」
中華鍋がアオバの眉間にぶつかりかけた瞬間、クロスの渾身の右ストレートが中華鍋を弾き飛ばす。
中華鍋は一瞬にして壁まで吹き飛び、壁に小さな穴をあけると重々しい金属音を鳴らして地面に落下した。
「あっ! わぁぁぁ!」
さらに棚の二段目に置かれていた小鍋や引き出物の鉄瓶がアオバの頭上に転がり落ちてきた。
即座にクロスはアオバを包むようにして体に隠すと、背中で落下物を受け止める。
「クロスさん!?」
アオバはクロスに包まれて視界のない状況で、騒々しく地面に落ちてくる金属音だけを聞いた。
重い鉄瓶がクロスの頭部に当たる鈍い音も聞こえてきたが、クロスの肉体の壁は揺らぐことなく全ての落下物を左右に受け流していく。
「……ムゥ」
「大丈夫ですかクロスさん!?」
クロスが立ち上がると、心配そうにアオバは尋ねた。
「ウゥゥ……」
だがクロスは痛みなどなかったかのように動き出すと、視線を中華鍋に向けて警戒する。
体の痛みよりも中華鍋の存在の方をはるかに危険視している様子でクロスは身構えていた。
中華鍋を気にしながらもちらりとアオバを見ると、冷蔵庫に張られたホワイトボードに文字をつづった。
『怪我はないだろうか?』
「僕は何ともないけど、クロスさんこそ大丈夫なんですか!?」
クロスは小さくうなずくと、再び壁に背中を押しつけた。
地面に転がっていても中華鍋は苦手らしかった。
そんなクロスの様子に、トラウマを押し付けた挙句に守ってもらったことへの申し訳なさがアオバの心に突き刺さる。自分の行動の横暴さに気付き、胸に痛みを感じるほど反省した。
「ごめんなさい! 僕、意地張ろうとしちゃって……」
クロスは頭を下げたアオバを見ると即座に首を横に振った。そして再びホワイトボードに文字をつづる。
『これでおあいこにしてもらえるなら 自分もうれしい』
クロスは控えめな姿勢でそうメモを書くと、一瞬だけちらりと中華鍋を見やり、続けて文字をつづった。
『しかしどうかもう勘弁してもらいたい できればあれの片づけをお願いしたい』
「あっ、はいっ! ごめんなさい! すぐ片づけます! 朝食もすぐ作ります!」
アオバはそう言うと即座に行動に移し、てきぱきと片付けと調理を始めた。今度はふざける様子もなく、手際のよい整理整頓と調理の下ごしらえを開始する。
アオバはクロスのために渾身の丁寧さで作業を始めた。そしていつか、謝罪と感謝の気持ちを込めて、なにか料理を作りに来ようと固く決心する。卵をかき混ぜる手にはいつも以上に力が込められた。
クロスはそんなアオバの様子を、台所で立ったまま見守っていた。
――そんな騒ぎを起こしている間、クロスの携帯端末にはこっそり新しいメッセージが着信していた。
メッセージの着信音は小さく、クロスもアオバもしばらくの間、そのメッセージには気付かない。
しかし、内容は危急の限りを尽くしている。
『大変だクロスさん! 歴代キューティクルズが、街で怪人達を襲っているぞ!』