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ダークヒーローが僕らを守ってくれている!  作者: 重源上人
VS.アイドル魔法少女キューティクルズ編
38/76

第六話 高鳴る心臓! とどろく絶叫! 殺意に満ちた殺人鬼のポルカ!

 パジャマ姿のキューティクルズは、全力で逃走していた。


 月のない夜のショッピングモールは闇が深く(よど)んでいる。非常口を案内する常夜灯だけがまばらに足元を照らし、現在キューティクルズが走っている専門店街は奥行きが見えないほど闇が深い。


 背後から迫ってくる黒いロングコートの男は、焦ることなく早歩きで近づいてきていた。


 キューティクルズが道を曲がり、シルバーアクセサリーの屋台や大きな柱などで黒いロングコートの男が視界から消えると、三十秒ほどしてから突然正面右奥の飲食店街区画から姿を現してくる。


 キューティクルズが道をジグザグに曲がり、規則性の無いよう行動していたつもりでも、全ての行動を予測され先回りされていた。


 そんな瞬間移動じみた先回りはこれで三回目だった。キューティクルズは迷宮に迷い込み、ただやみくもに体力を消耗させていた。


 入り組んだ道が逆効果であることと気付くのにそれほどの時間はかからなかった。


 キューティクルズは吹き抜けの遊歩道に戻ってくると、なるべく黒いロングコートの男を視界から外さないよう真っすぐな道だけを選んで走った。


「どこに逃げればいいの!? 事務所なんてどこにもないよ!」

「無理だっ! 建物の中にいたら捕まっちゃう! ひとまず外に出よう!」

「アオバ! 外に行ってどうするの!」

「どうもしない! でもこのままここにいたらいつか追い込まれる! どこか人のいる所に逃げなきゃだめだ! 警察署でも病院でも何でもいいから!」


 アカネとアオバが走りながら喋る。その声色は緊張と疲労で呼吸と共に荒くなっていた。


「西側の出口が見えてきましたわ!」


 ミドリが正面を指差した。さほど大きくない自動ドアだ。右隣にエレベーターが設置されているくらいで、さして特筆する点の無い出入り口である。


「ライトで破壊するよ! みんな! 真っすぐ走って!」


 アオバが手に持った懐中電灯を正面に向けた。懐中電灯の光が一瞬だけ強く輝き、照射範囲の空気が衝撃波を放つ。


 だが、その衝撃波はガラス窓を僅かに揺らしただけですり抜けていってしまった。


「あっ! しまった! ガラスは透明だからすり抜けちゃう!」


 三人は自動ドアの手前で急ブレーキをかける。

 通電していない自動ドアは三人を前にしても感知せず、無情にも沈黙していた。


 背後からは黒いロングコートの男が赤い瞳を揺らして迫って来ている。立ち止まっている猶予などほとんどない状況だった。


「仕方ありませんわ! 二人ともエレベーターにっ!」

「ごめん! わかった!」


 ミドリがエスカレーターを指差し、三人は即座に踵を返す。


 だがいざエスカレーターを駆け上がっていくと、ミドリだけが一階の道を走っていく。


「ミドリ!」


 アカネが驚いて叫んだ。


 ミドリは後ろ向きで走りながら、二階に上っていったアカネとアオバに向けて叫び返してくる。


「ここは別々に行動しましょう! わたくしは一階で事務所を探しますわ! お二人も各階で電源を探して下さいまし! 電気さえ付ければわたくしたちの勝ちですわ!」


 その時、黒いロングコートの男もエスカレーターを駆け上がってくるところだった。


 二階に上った二人が再び一階に戻るという選択肢は無くなり、自然とミドリの提案を受け入れざるをえなくなる。


「もうっ! ミドリってばリスキーな作戦ばかり考えないでよ! 僕は三階に行くよ!」

「お願いアオバ! 私は二階をっ……、って、こっち来たぁぁぁぁぁぁぁ!


 黒いロングコートの男はエスカレーターを駆け上がっていくアオバを無視して、アカネの背中を追ってきていた。


 理由は単純。アカネが一番、足が遅いからである。


「アカネ!」


 三階の手すり越しにアオバが叫んだ。


「お願い! はやく電気付けてぇぇぇ!」


 アカネは絶叫しながら涙目で走る。


 不運にもおとり役となってしまったアカネは、背後をこまめに振り返りながら専門店街への道へ曲がっていった。


 振り返るたびに、火傷の潰瘍で凹凸だらけの殺人鬼の形相がアカネの視界に入った。赤い目が濃い暗闇の中に残滓を残し、血色の光が空中にラインを描く。その表情は怒気に満ちて(いるような気がして)、捕まったら最後、アカネの体にはスプラッターホラー的な血しぶき演出が噴き出すことになるだろう。

 

 アカネは泣きながらも100メートル走自己ベストを超える速さでそのまま専門店街を駆け抜けると、衣料品コーナーの端に位置する、大型女性用下着売り場に飛び込んでいく。


「うわぁぁぁぁぁぁ!」


 足の速さに自信の無いアカネは遮蔽物に頼った。


 五体一列で並ぶ裸のマネキンを相手に両手でラリアットを決めて横倒しにすると、陳列棚と陳列棚の隙間に簡易的なバリケードを作ってみせた。


「ムゥッ!」 


 怪人はその場で立ち止まり、大きな息を吐き出して呼吸を整えた。


 飛び越えるには少し厳しいマネキンのバリケードだ。偶然とはいえ出来が良く、無理に通るより迂回した方が早くなる代物である。


 アカネはそのまま女性用下着の密林の中にしゃがんでもぐりこみ、背を低くして隠れ潜んでいく。



        ▼       ▼



「ふ~。やっと来たか。黒幕の癖に行動の遅い連中だ」


 イエローは噴水に突っ込んだままのスポーツカーの後部トランクに座り、暇つぶしにいじっていたリボルバーをミリタリージャケットの内ポケットにしまった。


 イエローの視線の先には砕かれた正面玄関の自動ドア。

 そしてその向こうに見えるのは、駐車場を疾走してくる二人乗りの真っ赤なスーパーカー。


 イエローはその赤いスーパーカーが正面から飛び込んでこようとするのを見ると、即座に内ポケットに一度しまったリボルバーを再び取り出し、笑顔で三発の弾丸をフロントガラスに打ち込んだ。


 スーパーカーは緊急回避しようと自動ドア手前で急カーブ。

 だが入り口手前の段差で運悪く跳躍し、玄関右側のガラスとショッピングカートを弾き飛ばしながら横転して入店してきた。赤い塗装のフレームパーツを巻き散らかし、三回転ほどしてから逆さまの状態で静止する。


 スーパーカーが完全に沈黙してから二十秒ほどの時間が過ぎると、運転席側のドアが開いた。


 最初に見えたのはウエーブのかかった赤毛のポニーテール。額から血を流した端正な顔。バスローブの上にダッフルコートを羽織るという謎な服装。


 それはニューヨーカー・ファッショナブル・キューティクルズのローズだった。


「うっ! ……くぅっ!」


 ローズはうめいた。


 イエローは這い出てくるローズを満足そうに眺めていた。


「レッドローズか。……お前が黒幕か?」

「うっ……。あなたは、だれ!?」


 ローズはイエローを睨み、尋ねた。


 だがイエローはその問いかけをを澄ました様子で聞き流す。


「いや助手席にもう一人いるな……。おいっ! 出てこい! 私の隙を窺っているようなら無駄だ! もう気付いているぞ!」


 イエローは再びスーパーカーのフロントガラスにリボルバーの銃口を向けた。


 その瞬間、スーパーカーの真下から、地面を高速で這う黒い影が飛び出してくる。


 影は蛇行しながらイエローを目指して移動し、毒蛇の狩りを思わせる速さで近づいてきた。


 イエローはその蛇行する影を見て、またも嘲笑するような笑みを浮かべた。


 影は足元にたどり着くと一瞬だけ静止。

 次の瞬間、飛び出すように真っ黒なアイドル姿の少女がアッパーカットを繰り出してくる。


 イエローは一歩だけ後退、その小さなこぶしの昇竜拳を顎先にこすれさせるギリギリで回避した。


「やはりいたか! ブラック・キューティクル!」

「はぁぁぁぁっ!」


 ブラックは空中で反転すると、アイドル的チュチュスカートを大きくひるがえし薙ぐような回し蹴りを放つ。


 しかしイエローは後方に向けて大きく飛び、ヒーローショーアクターのような前転受け身を見せて回避する。


 ブラックは着地と同時に大きくステップする。

 隙を与えないつもりか、間髪入れずにイエローを追撃する。


「ふっ! ふっ! ……はぁっ!」


 ワンツーパンチ、そこから顎を狙う突き上げ蹴りへとつなぐ。


 イエローは手の甲でワンツーを逸らし、突き上げ蹴りはクロスガードの構えを取って防御した。


「ぐっ!」


 だがその突き上げ蹴りの威力はすさまじかった。

 イエローは蹴りの衝撃で体が浮き、三メートル後方のエスカレーターの壁に背中を打ちつけた。エスカレーターの壁は一部のパネルの破片を落とし、イエローはややよろめいて着地する。


「……ふははっ! なかなかいいパワーじゃねえか! この暗闇はお前の独壇場ってやつか!?」

「ええそうです。なにが目的で停電を引き起こしたのかは知りませんが、すべてが計画通りに行くと思わないことです」


 漆黒のアイドル衣装の少女、ブラック。

 彼女は足のふくらはぎまで伸びた長髪をなびかせ、四本の爪痕が残る顔の目元に精悍な闘志を見せると、テコンドー的な構えをとって見せた。


「町中が停電しているこの暗闇では、私のダーク・キューティクルの力は倍増する。闇がキューティクルズの弱点などと……思わないことです!」


 ブラックは大きく跳躍し、空中で足を引いて飛び蹴りの構えをとった。

 それはいわゆるライダーキックの形に近い。現実においても蹴り技の中で最も威力のある技の一つである。


 しかし。


「弱点? 誰がそんなものを狙う? お前らを倒すのに弱点なんて必要ない!」


 イエローはブラックのライダーキックを、たやすく手のひらで受け止めた。


「えっ!?」


 ブラックは驚愕した。岩すら砕ける足技を片手で受け止められ、さらに足の裏を掴まれた状態で空中で静止していた。


 次の瞬間、イエローの右前腕部が勢いよく黒い靄を吹きあげて、漆黒の鎧小手へと変貌する。

 そしてその漆黒の鎧小手は即座に勢いよく振るわれた。


「うらぁっ!」

「きゃっ!? うぁッ!?」


 ブラックは掴まれた足を引き寄せられ、エスカレーターの壁に背中を打ちつけられる。

 壁のパネルが盛大にはじけ飛び、中の建材を曲げて窪みを作った。


 さらにイエローはブラックに力を加え、地面に落ちる寸前に持ち上げてたやすく投げ飛ばしてみせた。


「うぁぁぁぁぁ!?」


 ブラックは空中で弧を描き、壊れたスポーツカーの後部ドアに背中を打ちつける。フレームが衝撃で大きくへこみ、ブラックは車に背中をつけたまま尻もちをついた。


「……はんっ! 所詮は魔法少女! この程度か!」


 イエローはブラックを放り投げた体勢からゆっくりと身を戻すと、体をやや斜めに構え、胸を張って言った。


「実力はあるようだが、たった一人で勝てるほどラスボスは弱くない! その力への過信、後悔するがいい!」


 イエローの目はサングラスでも隠しきれないほど黄色いネオンの光を溢れださせていた。一部だけ変身した怪人王の鎧小手徐々に巨大化していき、刺々しい装飾も成長するかのように追って生えてくる。


「ウソでしょ! 一部だけの変身なのになんてパワー! どうしてヒーロー戦隊の怪人王がこんなところにいるのよ!」


 地面から身を起こし、よろめきながらも立ちあがったローズが言った。


「ああそうだ! 私こそが怪人王イエロー! ブラックがいるということはビンゴなんだろ! 貴様らが今回の件の黒幕だな!」

「黒幕!? いったいなにをっ!」

「とぼけるな! あらかた貴様らの狙いは予想が付いている! とはいえお前の登場は意外だったぜレッドローズ! お前まで一枚噛んでいるということならば根っこは相当深いようだな! だが一手遅い! 私は他のキューティクルズの不審な動きもすでに察知しているぞ!」

「なっ!? まさか!」

「ああそうだ! ほぼすべてのキューティクルズをこの街に集めておいて気付かれないとでも思っていたのか!? どこまでお前らが本気か知らんが、正義の味方に喧嘩を売ったからには後悔してもらう! 覚悟しろ!」


 イエローの右手がさらに巨大化し、膨れ上がった装甲の隙間から黄色いネオンの光が漏れだす。ネオンの光はひび割れるようにイエローの腕を駆け上がっていき、黒い靄を吐き出しながらさらなる装甲を具現化していった。


 ネオンの光のひび割れが全身に広がると、身を包むほどの黒い靄が噴き出し、明瞭に視認できなくなるほどの闇の渦の中でイエローの体躯が巨大化していく。


 やがて現れる、黒い靄の中でネオンの光に(ふち)取られた三メートル級の巨体に、ブラックとローズは思わず後退していた。


「くっ、ブラック! こんなの相手にするなんてさすがに予定に入れて無いわよね!」

「もちろんです! ここは退却しましょう!」

「えっ!? アカネさんたちはどうするの!?」

「この場は諦めます! ここは無理をしてまで助ける必要はありません! ひとまず彼女たちは怪人王にくれてやりましょう!」

「ちょっと待って! あなたはそれでもいいの! みんな、あなたの仲間じゃないの!?」

「ローズさんこそ、今回の目的を見失わないでください! 予定を早めてシナリオを組み立て直します! 作戦変更です!」

「そんなっ! ……っく! わかったわ! 撤退する!」


 ローズとブラックはその場で反転し、出口に向かって駆けだした。


「ヒーローの矜持を曲げてまで撤退するか! 正義の味方の風上にも置けないクソどもめ! 逃がしやしないぞ雑魚どもがァァァァァァ!」


 三メートル級の獣大鎧の怪人が、闇の中から飛び出してきた。



        ▼       ▼



 アカネは下着売り場で姿勢を低くして潜んでいた。地域最大級の女性用下着売り場は広く、身を隠す衣装棚は数多く並んでいる。さらには非常灯の明かりも遠く、陳列棚の影はアカネの赤いパジャマすら色を隠してしまえるほど暗い。


 アカネはそんな下着売り場の階段棚の裏側を這って進んでいた。黒いロングコートの男の姿はこの下着売り場に入ってから見掛けていない。


 しかしいつまでも隠れられるほど隠密性に優れた空間でもないので、どうにかしてこの長い下着売り場の端にまでたどり着き、再び通路にでなければならない状況だった。


 そうして不格好な匍匐(ほふく)前進で下着売り場の中心部にたどり着いた頃、アカネはネグリジェの掛けられたハンガーラックの下から周囲を見渡した。


 展示物が多く意外と遠くまで見えない。見える範囲も足元までしかない。

 しかし、足元だけならば通路までならギリギリと見えた。もし黒いロングコートの男が歩いていたら、男の足先か、もしくはその影が見えることだろう。


 だが、それがまるで見えない。


「……、…………っ」


 緊張で音が響きそうなほど心臓が高鳴る。

 荒くなる呼吸を口を大きく開いてごまかした。


 アカネは五秒間ほどじっくりと索敵し、黒いロングコートの男が周囲にいないことを確認すると、身を潜めていたネグリジェのハンガーラックの下をくぐろうとした。


 だがその瞬間、黒く大きなブーツがアカネの眼前に現れた。


「……っ!? …………ぁっ!」


 アカネは盛大に息を吸い込み、声が出ないよう反射的に両手で口を抑えた。


 幸い、声は聞こえるほど大きくは響かなかった。


「……ムゥ」


 黒いロングコートの男の声。


 アカネの行動を予測し、先回りして来たのだ。

 偶然にも誤差的な速度の違いで見つからなかったが、周囲を黒いロングコートの男は探索している。


 黒いロングコートの男はその場から移動する様子がない。


 これ以上進めば見つかるし、迂回しても視界に入るであろう通路に出る。アカネも同じように動けなかった。


 アカネはただ怯えて、息をひそめて這ったまま後退した。

 パジャマの掛けられたハンガーラックの下をくぐり、黒いロングコートの男から通路一つ分の距離を取る。


「……はぁ、……っ、…………はぁ」


 ある程度距離を取ると再び呼吸がこぼれた。自分の呼吸が異常に大きな音に感じられた。


 たどり着いたのは試着室のコーナーだ。試着室はカーテンが掛けられており、地面に這った今の状態では非常に背の高い個室に見える。


 背後を振り返ると通ってきたハンガーラックが黒いロングコートの男の視線を遮ってくれていた。


 暗闇が濃いこともあって地面を這うアカネの姿は闇に匿われており、これを視力だけで発見するのはほぼ不可能といえる。

 光の戦士であるキューティクルズも今だけは闇に守られていた。


 いっそ試着室に隠れてしまおうかとアカネは考えたが、それでは袋小路に自ら逃げ込むようなものであったのでやめておき、試着室沿いにアカネは曲がると再びゆっくりと這って進んでいく。


 そうして三件目の試着室の前を抜けた時だった。


 試着室のカーテンの中から突然、血まみれの手が伸びてきてアカネの腕を掴んだ。


「きゃあぁぁぁぁぁぁ!?」


 アカネは目を大きく見開き、絶叫する。


 腕を反射的に引き、身をのけぞらせるが、血まみれの手はがっちりと掴んで離そうとしない。


「キューティクルズっ! た、たすけてくれぇっ!」


 試着室から飛び出してきたのは顔面も血だらけの男。両手両足を針金ハンガーで縛られていた、あの警備員の男性だった。


 アカネは気が付かなかったが、この下着売り場は警備員の向かっていた衣服屋の隣の店舗である。

 警備員は黒いロングコートの男に無力化された後、とりあえず試着室に放り込まれたのであろう。


「ヴォォォォォォォォ!」


 アカネの絶叫に気付き、黒いロングコートの男が雄たけびを上げてネグリジェのハンガーラックを横倒しに弾き飛ばして駆け寄ってくる。


「あぁぁぁぁぁぁ! 離してっ、離してぇぇぇ!」

「待ってくれっ! 置いてかないでくれぇ!」


 警備員はアカネの腕を両手で掴んで離そうとしない。


 だが、黒いロングコートの男がパジャマのハンガーラックを弾き飛ばして登場すると、警備員の視線は黒いロングコートの男に釘付けになった。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 警備員が恐怖ゆえに絶叫する。


 黒いロングコートの男の手は真っすぐに伸び、地面を這っていたアカネの片足を掴んで持ち上げた。


「きゃあぁぁぁぁぁぁ!」


 警備員の手は離れ、アカネはなす術なく黒いロングコートの男に引きずられていった。


 身をよじらせ、体を回し、周囲にあるハンガーラックを掴んでみるも、まるで効果がない。


 足で黒いロングコートの男の手を蹴飛ばしてみたが、黒いロングコートの男の腕はトラックのタイヤのように硬かった。がっちりと掴まれた男の大きな手は力強く、見る見るうちにアカネは下着売り場の外に連れ出されていく。


「いやぁぁぁぁぁぁ!」


 アカネは涙目で絶叫しながら、全身を無意味にバタつかせ周囲のハンガーラックを引き倒した。


 だが、黒いロングコートの男が廊下にまでたどり着いた瞬間。


「こっちを見ろ! バケモノ」

「ムッ!?」


 吹き抜けの回廊では、アオバが待ちかまえていた。


 アオバは通路の真ん中に立ち、使い捨てカメラを両手で構えている。


「吹っ飛べ!」

「グゴァッ!?」


 アオバがシャッターを切ると、カメラのフラッシュが爆風じみた強烈な衝撃波を生み出し、黒いロングコートの男を十メートル先の三角ブラの陳列棚にまで吹き飛ばした。


 陳列棚は黒いロングコートの男の背中を支えきれず崩壊。木材板が叩き折れ、金属棒がそこらに吹き飛んでいった。


「ア、アオバっ!」

「アカネっ! 逃げるよ!」


 アオバがアカネの手を取り、体を引っ張り上げる。アカネも何とか立ち上がり、アオバの体に抱きつくように身を寄せ合った。


「ムゥゥゥ……」


 黒いロングコートの男はゆっくりと倒壊した陳列棚から身を起こす。衝撃波のダメージに苛立ちを覚えているのか、食いしばった男の歯が格子状の頬肉の隙間から晒されて見えていた。


 アオバはアカネのもつれそうになる足を支え、肩を貸すと少しずつ後退した。


「なんだよもう! 不死身かよこのバケモノ!」

「アオバ! もう一発!」

「待って! これ、連射できないんだって!」


 アオバの手の中の使い捨てカメラは電力のチャージアップ中で、甲高い機械音を静かに鳴らしている。


 カメラ上部のランプが赤く点灯しないとフラッシュを再び焚くことができない昔ながらの代物だ。カメラ屋で拝借して袋を開けたばかりの新品である。


 黒いロングコートの男はそれが分かっているのか、立ち上がるとアオバとアカネに向けてゆっくりと歩いて近づいてきていた。


「早く! 早く!」

「待ってってば!」


 アカネがせかす。

 しかし、カメラは気を急かすことなく機械音をゆっくりと高めて電力を回復させていく。


 そうこうしているうちに、黒いロングコートの男はアカネとアオバとの距離を縮めていた。早歩きで後退するアカネたちより、一歩一歩の歩幅の大きい黒いロングコートの男の方が圧倒的に速いのだ。


 だが、あと数歩の距離にまで縮まった時、カメラのランプが赤く光った。


「よし! もう一発喰らえ!」


 アオバは再びシャッターを切った。

 だが、どういうわけかカメラはまるで反応しなかった。


「あれっ!?」

「どうしたのっ! 故障!?」

「あっ! これ、フィルム回さないとダメなやつッ!? ……きゃあっ!」


 振り払われた黒いロングコートの男の手が、アオバの手のカメラをはたき落とす。カメラは手すりを超えて吹き抜けに落ちていき、一階の床に激突して粉々に砕け散った。


「ヴォォォォォォ!」

「うわぁぁぁぁぁ!」


 黒いロングコートの男の手が、アオバの手首を掴んだ。

 アオバは声を上げ、全力で身を引こうと体を引き寄せる。


 だが、アオバの力では圧倒的なまでに力不足だった。どれほど体重を掛けて体を引こうとしても、黒いロングコートの男はよろめくどころか揺らぎもしない。


 そんな時、アカネとアオバの背後から、声が届いた。


「そこをどけて下さいまし! アオバさん!」


 ミドリの声だ。


 ミドリはアカネとアオバのはるか後方に立ち、消火栓のホースを構えて歩いて来ていた。


 すでにホースのバルブは全開であり、ミドリの背後では樹脂引きの布ホースが水圧に押されて大蛇の如くのたうちまわっていた。


「オォウッ!」


 黒いロングコートの男が驚愕する。


 消火栓のストレートノズルから水流が放射された瞬間、黒いロングコートの男はアオバを手放した。

 毎分130リットルの水圧は男の胴体に命中し、近くのインナーウェアの陳列棚に押し付けるまでの水流を生み出す。


「ミドリ! どうしてここに!」

「事務室は見つけましたが、鍵がかかっておりましたの! 全くを持って最悪ですわ!」


 アカネとアオバは水流の横を走ってミドリの近くへと駆け寄っていった。


 黒いロングコートの男は水流に押されて最初こそはよろめいていたが、陳列棚に手を掛けると、逆に水流を押し返して再び起き上がってきていた。


 だが、そんな瞬間。


「うおぉぉぉぉぉぉ!」


 背後から針金ハンガーで縛られた警備員の両手が回り込み、黒いロングコートの男の首を絞めつけた。


「警備員さん!」


 アカネが叫ぶ。


「キューティクルズっ! マスターキーはこいつに持っていかれた! だから、ホームセンターに逃げろ! あそこの配電盤だけは鍵がかかっていない! 資材館の展示コーナーには燃料の入った夜間工事用ライトもあったはずだ! なんとかそこに逃げるんだ!」

「そんなっ! 警備員さん!」


「グゥゥゥゥゥゥ!」


 黒いロングコートの男はうなり声を上げた。針金の巻かれた手首が深く首に食い込んでおり、このまま締めつけられれば常人なら数分で死に至る。


 その致死的攻撃に火傷でただれた顔が怒りの表情を見せ、深い皺を作っていた。


 警備員が完全に拘束していることを確認するとミドリはバルブを回して水流を止める。


「二人とも! いきますわよ!」

「ミドリ! 警備員さんが殺されちゃうよ!」

「どちらにしても変身していないわたくしたちではどうにもできませんわ!」


 ミドリが真っ先に後退を始めた。


「ガァァァァァァ!」


 黒いロングコートの男はポケットからボールペンを抜き取り、警備員の腕に突き刺す。


「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!」


 警備員は絶叫した。

 腕に突き刺したボールペンは肉をえぐって引き寄せられ、警備員はたまらずに首を絞めた腕を緩めてしまう。


「オォォッ!」

「うがっ!?」


 黒いロングコートの男は警備員の腕をすり抜けると、ボールペンを握った手を振り上げ、顎下に強烈な右フックを叩きこんだ。

 警備員の口から唾液が吹き飛び、脳震盪を起こして気絶する。


「ダメだ! いそいでホームセンターに行こう!」


 アオバも背を向けて走り出した。


「ヴォォォォォォォォ!」


 黒いロングコートの男は即座に駆け出し、キューティクルズを追いかける。


 その様子を確認すると、アカネも逃げることに戸惑う必要はなくなっていた。


 キューティクルズはホームセンターに続く連絡通路に向けて、より闇の深い道へと入り込んでいく。

 黒いロングコートの男の目は怒りを積み重ね、恐ろしいまでの殺意に満ちて(いるように)見えた。

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