第四話 ローズさんが消えた! 戦慄する夜! 影と黒衣のコンチェルト!
大暴露女子会から四時間が過ぎた。
アオバの作ったスープパスタは四皿すべてが空になり、テーブルの上にはポテトチップスの少し残った大皿と、シュリンプの食べ掛け、二つだけ残ったマカロンの皿、二割ほど残ったホールケーキが乱雑に散らばっていた。
「あー! お風呂あったかかった! 夜の海を見ながら入るジャグジーとかもう最高! 僕、このまま一生ローズさんの家に住んじゃおうかな」
パジャマ姿に着替えたアオバが、濡れた猫っ毛をバスタオルで揉みながら談話室への階段を下りてくる。
「いけませんわアオバさん。そんなことしてはご迷惑ですわ」
「分かっているよミドリ。ただの冗談だよ。トップアイドルになってから自分で建てることにするよ」
アオバは犬歯を見せていたずらっぽく笑った。
後ろからはカシミヤのパジャマに着替えたミドリも下りてくる。
特徴的だったドリルヘアーは解きほぐされ、肩に掛けられたバスタオルの上でウェーブのたゆたう長髪へと姿を変えていた。その髪質の変貌ぶりはドリルヘアーの原型を留めておらず、あの髪形をどうやって維持していたのか疑問に思えるほどだった。
さらにはそれに続いて、ふわふわとしたボア加工パジャマを着こんだアカネと、バスローブ姿のローズも階段を下りてくる。
「ローズお姐さん、本当にすごいんですね。四人で入れるお風呂なんてびっくりしました」
「いいえ、むしろごめんなさい。あれはジャスミンと二人で入るために設計したお風呂だったから、少し狭く感じたんじゃない?」
「そんなことないです! むしろ四人で肩を並べて入るお風呂は楽しかったです!」
「そう? ありがとう。それじゃあ私はこれからみんなの寝る場所の準備をしてくるから、少しここで髪を乾かしていてね。コンセントの場所は分かる?」
「はい! 大丈夫です!」
アカネはそう返事を返すと、手に抱えた三つのドライヤーを持って談話室のコンセントに向かっていく。
ローズはバスローブを揺らしながらそのままダイニング方向に向かっていき、談話室から姿を消した。
「うわぁー。いつの間にか十時半だよ。僕たちそんなに夢中になっておしゃべりしてたのかな?」
アオバが談話室の振り子時計を見ながら言った。
「楽しい時間ほど一瞬ですわ。ですが不思議ですわね。あれほどおしゃべりしたというのに、ベットに入ってからもまだまだおしゃべりできそうな気がしますわ」
「ああ、たしかにそうだね。どうしてあれだけ喋っても話のネタって尽きないんだろうね。男の子が相手だとすぐ話すことなくなるのにね」
「大抵中身の無い内容ですもの。なにをしゃべったかなんてもうほとんど思い出せませんわ」
「ああ、確かに中身無いね。どのアイスクリームがおいしかったとか、ちょっと学校で失敗した話とか、本当にそんなのばっかりなのにどうして楽しいんだろうね?」
「それが女の子というものなのですわね、きっと」
ミドリはそう言うと、アカネが手渡してきたドライヤーを受け取った。
「ありがとうございますわアカネさん」
「うん。ところで二人とも、明日の練習は何時くらいから始める?」
アカネは二つのドライヤーを渡し終えると、鹿革製のソファーに座って尋ねた。
「ええ、そうですね……」
ミドリが自分の唇に手を当てて考え込む。
僅かばかり考え、すぐにその結論を言おうとミドリは口を開いた。
だがそんな何気ない瞬間に。突然、電気が消えた。
「えっ!?」
「なにっ!? 停電!?」
三人は困惑する。
メインの天井照明はもちろんの事、窓から見える外のガーデン照明も消灯してしまっていた。
気がつけば暖炉の明かりだけが談話室を照らし、ダイニングに続く階段の先は完全な暗闇になってしまっている。まだ外の方が星の分だけ明るく見えるほどだった。
「どういうこと!? 電気は絶対に消えないはずじゃなかったの!?」
アカネが動揺して叫ぶ。
ミドリは手渡されたドライヤーのスイッチをカチカチと動かして電気が来ていないことを確かめると、窓の外をみて遠くの街の建物には光が灯っていることを確認した。
「停電、ではありませんね。どうやらブレーカーが切られたようですわ」
「ブレーカー!? パスロックがかかっているんじゃなかったの!?」
「ローズさんに確認してみましょう。ローズさんっ! いらっしゃいますか!?」
ミドリはダイニングの方角に向けて声を張った。
しかし、三秒ほど待っても返事は返ってこなかった。
「おかしいですわ、そんな遠くには……。ローズさん! どうかされましたか! ローズさんっ!」
ミドリはさらに声を張った。
しかしダイニングからは静寂がばかりが返ってくる。
そんな中、アオバが談話室の隅の自分の荷物から、懐中電灯を取り出していた。
アオバは懐中電灯を点けてダイニングに光を向ける。だが、光に照らされた範囲には人の姿はなかった。
「ローズさん、どこ行ったんだろ? 戻ってこないね」
アオバがつぶやく。
「どういうことですの? ローズさんはいったいどこに行ってしまわれたのですか」
「僕、地下室の様子を見てくるよ」
アオバが懐中電灯を片手にダイニングに進もうとした。
だがその手をアカネが掴んで制止する。
「だめだよ! まだ状況が分からないんだよ!」
「違うよ! ローズさんは地下室のブレーカーを見に行ったんじゃないかな? だとすれば危険なのはローズさんの方だよ!」
「危険? それはどういうこと!?」
「いくらローズさんといえども、暗闇で背後から襲われたらどうなるか分からないもの。それに相手は頭のいい怪人かもしれない。ここは僕とローズさん、アカネとミドリで別々に分かれて行動しよう」
「だったらみんなで一緒に行動するべきじゃないの!?」
「ごめん、懐中電灯は一個しかないんだ。僕一人ならともかく、みんなを守りながら暗闇を進むのは危険だと思う。幸いなことにここには暖炉の光があるから、ミドリとアカネはここで待っていてほしいんだ」
そのアオバの説明に、アカネが焦りを見せた。
「それじゃ駄目だよ! アオバだけが危険すぎる!」
「……いいえアカネさん、一理ありますわ。わたくしたちはここで待ちましょう」
「そんな、ミドリ!」
「アオバさん、危険を感じた時は迷わず大声を上げてくださいね? 別々に行動するときは互いを助け合える距離感が大切ですわ。別行動の方が時に全滅のリスクが少なくて済みますもの」
最初に理解を示したのはミドリだった。経営者的な観点からか、株取引に似たリスクマネジメントの提案をして見せる。
「ありがとうミドリ。でも僕が助けを求めても、いきなり暗闇に突撃しちゃだめだよ?」
「もちろんですわ。その時はこの家を燃やしてでも光を集めて変身しますわ」
「え……!? そ、それは、最後の手段にしてほしいな」
「ええ、もちろんです」
そういうとミドリは暖炉脇の火掻き棒を手にとり、暖炉の鉄扉を開いた。暖炉の中に横たえられた備長炭は薄い炎熱を放ち、隙間からはガスの炎が揺らめいて静かに熱量を生んでいる。
もちろんその焼けた備長炭をばら撒くだけでは家が火事になることなどあり得ない。
ゆえに、ミドリは戸惑うことなく大窓のカーテンに近づいて行った。五メートルの長さのあるシルクのカーテンはよく燃えることだろう。ミドリはためらうことなくカーテンの端を引っ張り、金具を頭の上に落としながら端から順に引きはがしていく。
その躊躇いの無い行動に、アオバは焦った。
「うわっ、ミドリ、本気!?」
「もちろんですわ、緊急時ですもの。もちろんあとで謝っておきますので、わたくしがきちんと謝れるよう必ずローズさんを必ず連れてきて下さいね」
「わかった! わかったから! 僕が帰ってくる前に絶対に家を燃やさないでよね!」
「ええ、なるべくそうしたいところですわね」
ミドリは涼しい顔で言ってのける。
アオバは正体不明の敵よりもミドリの方を恐れるように、時々ミドリの姿を振り返って見ながらダイニングに向かって歩いていった。
「まさかミドリ、本気で家を焼くつもりはないよね?」
「……こう見えてわたくし、実は火遊びが大好きですの」
「ウソっ!?」
「ウソじゃありませんわ。修繕費は全部わたくしが出しますから、敵が現れるようだったら遠慮なく燃やしてしまいますわよ」
ミドリはシルクのカーテンを手繰り寄せながら丸めていく。カーテンは一抱えくらいの布の塊に姿を変えた。
あとはこの塊を暖炉に放り込めば勢いよく燃え上がってくれることだろう。そんな危険な可燃性物質をアカネは不安そうに眺めた。
「ローズお姐さん、怒るんじゃない?」
「ローズさんは事の重大さをわかっておりますわ。いい顔はしないでしょうけれど、きっと納得はしていただけますわ」
「……なんかそれでも不安だな~」
「今は敵が出てくることの方を不安に思って下さいまし」
ミドリはそう言うと暖炉の前でしゃがみこみ、いつでもカーテンを投げ込めるよう両手で抱えた。
時間としてはアオバが消えてから三十秒も過ぎていない、そんなタイミングだった。
「アカネ、ミドリ! 逃げて! シャドウだ!」
突然、アオバの声が響く。ダイニングの奥、おそらくは廊下奥の地下への階段付近からだ。
「アオバっ!? どうし――っ!」
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
アオバの悲鳴。
完全な暗闇と化したダイニングがその乾いた悲鳴を呑み込んだ。懐中電灯の僅かな光をちらつかせて、ダイニングは再び闇の暗さを深めた。
「アオバっ!」
「いけませんわ! アカネさん!」
ミドリがアカネの腕を掴んで制止する。ミドリの抱えていたカーテンの塊は地面に落ちた。
「まずは家を燃やして変身しますわよ!」
「うっ! わかったよ!」
アカネは友達の危機を前にして迷いを見せなかった。即座にカーテンの塊に駆け寄り、両手で掴む。
ミドリもその動きに合わせて反対側を両手で掴み、二人同時に持ち上げた。
「せーので投げ入れますわ!」
「分かった!」
「では、せーのっ!」
カーテンの塊を二人は振りかぶる。
だが、いざ暖炉の中に投げ入れようとした瞬間。
「ミドリっ! 危ない!」
「きゃっ!?」
アカネがミドリを暖炉から引き離した。
暖炉の上から、鹿の頭部のはく製が額縁ごと落下してきたのだ。
重さ16キロほどある鹿の頭はカーテンの塊に鼻から突っ込んでいき、深く顔をカーテンの塊の中にうずめていった。
「はく製っ!? なんでっ!?」
アカネは暖炉の上を見た。別に壁が崩れたわけでもなく、壁かけのフックはそのまま残っている。つまり偶然落ちてきたわけではない。
「どういうことですの!? これは一体!?」
ミドリは立ち上がり、カーテンの上にのしかかっている鹿のはく製を転がそうと大きな角に手を掛ける。
その時、鹿のはく製がピクリと動き、ミドリは動きを止めた。
「えっ!?」
「ミドリっ! 離れて!」
アカネが叫ぶ。
鹿の目がギョロリとミドリの顔を見上げた。ミドリはあわてて鹿のはく製から距離を取り、アカネの傍まで後退する。
剥製の額縁が暖炉の光を遮っており、深い影が鹿のはく製を覆っていく。
黒い靄を滲み出させて鹿の頭はどんどんと黒く染まっていくと、瞳が金色の輝きを得て浮き上がり、生前のように角を左右にゆすって筋肉をほぐしていた。
「そんな! シャドウ!?」
「……いえ、違いますわ! 何か、これは別のものですわ!?」
鹿のシャドウは大きな手を伸ばして鼻先のカーテンの塊を鷲掴みにする。その手は人の胴体を掴めるほど長く、そして指は女性のように細くて鋭い。
額縁の奥から這い出して来るようにシャドウは現れて全貌を明らかにしていった。
電柱ほどの太さの痩せた胴体、針金のように細い人の手指、鹿と同様の毛深い前屈した後ろ脚、そして仙骨部から生えた短い尻尾。
「動物じゃない!? なにこのバケモノ!」
「キュルィヤァァァアァアァァァァァ!」
鹿頭のシャドウはのけぞるように体を反って甲高い咆哮を上げた。
針金のような手がカーテンの塊を投げ捨てる。細い指がまるで骨の翼のようにひるがえり、その姿はまるで悪魔のように見えた。
「キュルゥゥゥゥゥッ!」
突然、シャドウは跳躍した。
一瞬の動作でミドリと距離を詰め、その細い人の指でミドリを両腕ごと一掴みにしてしまう。
「きゃあっ!?」
「ミドリ!」
その指は今にも折れそうなほど細かったにも関わらず、まるで金属の棒を組み合わせたかのような硬さでミドリの体を締め付ける。
「このっ! ミドリを離して!」
アカネは地面に落ちていた火掻き棒を手に取ると、ミドリを傷つけないよう鉤爪状の先端を背にしてシャドウに殴りかかった。
だがシャドウはもう片手の甲でその火掻き棒の一撃を受け止めると、軽く振り払ってその火掻き棒をアカネの手から振り落とす。
火掻き棒はフローリングに転がって硬質な金属音を響かせた。
「わっ!」
「避けてっ! アカネさん!」
アカネは驚くと同時に、掴みかかってくるシャドウの手を背後に飛びのいて回避した。
ソファーの背もたれに両手をついて、焦ってシャドウを振り返る。
シャドウの手の中でミドリが叫んだ。
「アカネさん、逃げて下さいま――っ!」
「キュアァァァァァァァ!」
手の中で叫ぶミドリを遮り、鹿のシャドウは大きく踏み込んでまたもアカネを掴もうと手を伸ばしてきた。
「わぁっ!」
アカネはとっさに床に伏せる。
するとシャドウの指のうち三本がソファーの背もたれに突き刺さり、中の木材合板を貫いた。小指だけが床に突き刺さり、それがアカネのわき腹をかすった。
アカネは這ってその場から逃げると、背中をガラス窓に当ててシャドウを振り返る。
シャドウが指を抜こうとするとソファーが一緒に引き寄せられていた。折れた合板が指に引っかかっているようだった。
そんな融通の効かないソファーにシャドウは悪戦苦闘し、アカネには僅かばかり余裕ができた。
「アカネさん! 逃げて下さいまし! このシャドウには勝てませんわ!」
「そんな! ミドリを置いてはいけないよ!」
「構いませんわ! 何より、早く変身をしなければっ――!」
「キュルイァァァァァァ!」
鹿のシャドウは怒声を上げると同時に、力任せにソファーを持ち上げた。
横幅のある三人掛けのソファーは一度天井に向けて起き上がると、そのままアカネの方角に倒れ込んでいく。
「アカネさん!」
「わあ!」
アカネは何とか飛びのいて回避すると、ソファーは柱にぶつかって倒れた。怪人の指はソファーから外れていた。
「あ、ウソっ!?」
アカネの逃げ道はそのソファーに遮られていた。
ソファーを乗り越えようとすればシャドウに捕まってしまう。反対側には壁、背後には堅いガラス窓、そして正面にはシャドウ。
「に、逃げれない……」
正面にいるシャドウを見据えて、アカネは背中を強くガラス窓に押し付けた。
その状況が分かっているのか、シャドウは機敏だった動きを止め、ゆっくりとアカネに向き直った。
「あ、アカネさん……」
ミドリが絶望的な声を鳴らす。
シャドウは一歩、また一歩と近付いて、手が届く距離になるとゆっくりとその細い手を伸ばしてくる。
「ひっ!」
アカネはその手に怯えて、両手を掲げた。
その瞬間だった。
「ヴォオォォォォォォ!」
地獄から響くような低音の声。
シャドウが振り返る寸前、火掻き棒の鉤爪がシャドウの後頭部に突き刺さった。
「キュゥィィァァァァァ!?」
シャドウは甲高い悲鳴を上げて背後にのけぞった。
「えっ!?」
アカネは再び視線を上げる。
鹿のシャドウの背後に、それよりも圧倒的に凶悪そうな、フードで顔を隠した黒いロングコートの男が立っていたのだ。
その黒いロングコートの男は火掻き棒をねじ込むように引き寄せると、シャドウの体はエビ反りになって後退していった。
「キュィィィィィィ!?」
シャドウがさらなる悲鳴を上げた。後頭部からは血液のように黒い靄が噴出している。
黒いロングコートの男はいっそう力強い動きでシャドウを引き寄せていく。
シャドウの身長は180センチメートルくらいで猫背気味であったため、身長187センチある黒いロングコートの男は頭一つ分巨大に見えた。シャドウが細身の肉体であったたこともあり、その体躯の質量差は二倍ほどにも感じられた。
鹿頭のシャドウはなすすべなく後退していくと、そのまま黒いロングコートの男は暖炉に向かってシャドウを引き寄せていっていた。
「キュギッ! キュギャァァッ!」
よろめきながらシャドウは連れ去られ、ついに暖炉の前にたどり着く。
「ゴォオォォォォォォ!」
そして黒いロングコートの男が力まかせに腕を引き寄せると、シャドウはバランスを崩して暖炉の前で尻もちをつかされた。
「きゃっ!」
「ミドリっ!」
ミドリはまだシャドウに掴まれたままだった。
そんな状況を知ってか知らずか、黒いロングコートの男は立ち位置を変え、拳を振りかぶった。
「ヴォオォォォォォォ!」
「キュルギャァッ!」
黒いロングコートの左フックが鹿のシャドウの顔を捉えた。
黒い鼻を叩き潰すようにねじ込まれた拳は、シャドウの頭を暖炉の火の中に叩きこんだ。
「クギィィィィィィ!?」
暖炉の火の光にシャドウの後頭部が焼かれる。両腕で体を支えていたため、シャドウはすんでのところで暖炉から身を起こした。
だが、無情にも黒いロングコートの男の足がシャドウの喉に押し込まれ、踏みつぶすようにさらに暖炉に後頭部をねじ込ませていく。
「ギャギャァァァァァァァッ!」
シャドウは黒いロングコートの男の足にどんどんと踏み込まれ、暖炉の火で焼かれていっていた。
片手に握られたミドリもその恐怖に悲鳴を上げた。
「きゃぁぁぁっ!」
ミドリはシャドウにより強く握りしめられていく。
シャドウの後頭部は暖炉の炎熱に当てられどんどんと削られていっており、本当にギリギリのところで黒いロングコートの男の足に耐えていた。
「やめて! ミドリを離して!」
アカネがミドリを助けるために黒いロングコートの男に向けて駆け寄っていった。
しかし黒いロングコートの男がシャドウを足蹴にしたままアカネを振り返ると、その真っ赤に血走った目で威圧してくる。
「うあっ!?」
アカネは怯え、一歩だけ後退した。蛇に睨まれた蛙のように身をすくませ、近づいたら危険であると本能的に悟った。
左右を振り返り、とっさに暖炉脇の炭とり用鉄スコップを手に取り、先端を黒いロングコートの男に向ける。とはいえそんな大きさのないスコップでは勝ち目はないかのように思えた。
しかしその瞬間だった。
窓の外から、車庫のシャッターを突き破る轟音が聞こえてくる。
「えっ!」
その音にアカネは思わず外を振り返った。
窓の外ではあの赤い四人乗りスポーツカーが庭の芝生を荒らしている。強烈なドリフトを見せてスポーツカーは反転すると、ヘッドライトの光を談話室に向けた。
「アカネ! 避けて!」
窓の向こうからアオバの声が響いてくる。ガラスに遮られてその声は聞き取りにくかったが、アカネは即座にその場から飛びのいた。
「これでも食らえぇぇぇぇ!」
アオバが叫ぶ。アクセルを限界まで踏み込んだスポーツカーが窓を割って談話室に突っ込み、黒いロングコートの男目掛けて加速していく。
「オォォォォォ!?」
「キュィィィィ!」
黒いロングコートの男は突っ込んでくるスポーツカーに驚愕しながらも、ギリギリまでシャドウを踏みつけていた。
そしてスポーツカーが衝突する直前に車に向かって前転し、そのフロントガラスの上で受け身を取る。
その動きは車衝突時の受け身の取り方であった。スタントマンの理想とする計算された動きであり、スポーツカーの上で体を転がして衝撃を分散し、軽い打撲程度までダメージを抑制する。
その綺麗な轢かれ方は黒いロングコートの男が確かに車ではねられたようにしか見えなかった。
さらにスポーツカーは突き進み、暖炉に入り込んでいたシャドウをバンパーでつき飛ばした。
「うわっ!」
アオバが衝撃でうめく。エアバックが作動し、アオバはそのクッションに顔をうずめた。
「アオバ!? どうして!?」
アカネが思わず驚愕する。
「僕もシャドウに襲われたけど、バケモノ同士で殺し合ってくれてなんとか逃げる余裕ができたんだ! アカネも早く車に! ここから逃げるよ!」
アオバは鹿頭のシャドウがいまだミドリを手放していないことに気付くと、即座に運転席から降りて、手に持った懐中電灯でシャドウの顔面に光を当てた。
「ミドリを離せ! シャドウ!」
「キュルィアァァァァァァァ!」
シャドウは火と光に頭部の両面を焼かれ、光に顔を溶かされていくとついに耐えかねてミドリを手放した。
「ミドリ! 運転お願い!」
「分かりましたわ!」
自由になったミドリは即座に行動し、扉が開いたままの運転席に飛び込む。
アオバは懐中電灯でシャドウの顔を焼くことに集中していた。
「アカネも車に逃げて!」
「うん!」
アカネは後部座席に飛び乗ると、アオバもギリギリまでシャドウに光を照射してから後部座席に乗り込んだ。
「ミドリ! 出して!」
「分かりましたわ!」
ミドリはそう言うと、アクセルを強く踏み込んで車を直進させた。空転する四輪駆動がフローリングを焦がして煙を上げる。
「ミドリ! バック、バック!」
「待って下さいまし! バックはどこですの!?」
「えっ!?」
ミドリはアクセルを踏み込んだまま、やたらめったらにボタンを押したりレバーを引いたりしていた。
ワイパーが動き、ボンネットが開いて、給油口の蓋も開くと、後部トランクのロックが外れた。
「ち、違うよミドリ! そこじゃない! 真ん中のやつ!」
「ここですか!」
ミドリはラジオの電源を入れた。大音量でFMラジオが再生され、テンションの高い洋楽のガールズロックが車内に響き渡る。
「違うって! 真ん中のレバー!」
「ここですかっ!? きゃぁぁっ!」
ミドリがシフトレバーを動かすと、スポーツカーは全速でバックした。
そのまま窓を飛び出して庭に出ると、左後輪がプールに入り込み車体がガクンと揺れた。
「ミドリ!」
「大丈夫ですわ!」
なんとか車はプールに突っ込まずに制止する。空転する後輪が水しぶきを上げていた。
「キュィアァァァァァァァ!」
家の中では鹿のシャドウが前のめりに倒れ込み、暖炉から身を離して自由を得ていた。両手足をあわただしく動かして、殺意を持ってしてスポーツカーに駆け寄ってきていた。
「車! 早くだして!」
「分かってますわ!」
ミドリはシフトレバーを動かしてアクセルを踏み抜き、スポーツカーを急加速させる。
プールの段差で軽く跳躍したスポーツカーは、エメラルド色の人工芝を畑にするつもりで土くれを弾き飛ばしていっていた。
それと同時に、ギリギリのタイミングで鹿のシャドウが車の天井に飛び乗った。
「シャドウが屋根に!」
アカネが叫ぶ。
シャドウは車のルーフを引っ掻くようにしがみつき、この豪邸の正門を突き破る衝撃にも耐えて体を密着させた。
「振り落としますわ! わたくしの華麗な無免許運転をご覧あれ!」
ミドリが車体を左右にドリフトさせる。加速を緩めるつもりがないのか、後部座席のアカネとアオバは洗濯機にでも放り込まれたように左右に転がる有り様だった。
「「きゃあぁぁぁぁぁ!」」
後部座席から悲鳴が上がる。
しかし屋根からシャドウが落ちてくる気配はない。
「ミドリ! 前っ! 前っ!」
アオバが正面に見えたカーブに驚愕する。
ガードレールの向こう側には広大な海が広がる断崖絶壁の急カーブである。
そんな死のカーブにスポーツカーはスピードを緩めることなく突撃していった。
「ミドリ! ブレーキ掛けて!」
「ブレーキなんて惰弱ですわ! 車にはアクセル以外は不要!」
「えっ! ちょっ! きゃぁぁぁぁぁぁ!」
車がガードレールに突っ込む。
鋼鉄製のガードレールを捻じ曲げながら強引に車をカーブさせ、左前輪が断崖絶壁に片足を突っ込みながらもなんとか曲がり切った。
ガードレールが新品同様でなければ崖に飛びこんでお陀仏になっていたであろう、そんな危険な賭けであった。
そんな賭けの甲斐あって屋根の上にがっちりと這いついていたシャドウは左側面に転がってきていた。
片手の爪を車のルーフに突き刺してなんとかまだ張り付いているものの、地面に足を削られて黒い影で道路に線を描いていた。
「キュルィアァァァァァァ!」
サイドウインドウから絶叫に似た叫びシャドウ上げる。
「しぶといですわね!」
ミドリが苛立たしげに言う。
車は下り坂の長い直線道路に差し掛かっていた。さらに遠くには緩やかな上り坂のあるV型の坂だ。
「ご乗車ありがとうございました! さっさと降りて下さいまし!」
ミドリは車体をガードレールに押し付けた。下り坂の加速を利用してシャドウの体を削っていくが、指が深く突き刺さっているのか引きはがすことは出来なかった。
「クルギュアァァァァァァァ!?」
シャドウは叫び、背中から闇の飛沫を跳ねあげていく。
そんな時、遠くにみえる上り坂の先から大型トラックが対向車線を走って来ていた。
「あれは! わたくしいいこと思いつきましたわ!」
ミドリはそう言うとガードレールから車体を離し、右車線に進入していった。
「ミドリ! 対向車来てるよ!? 車戻して!」
後部座席で転がったままのアオバが叫んだ。
しかしミドリはそんな警告を無視して、トラックを正面に見据えてさらにアクセルを踏み込んだ。
下り坂ゆえに加速の良いスポーツカーは即座に時速160キロまでメーターの針を跳ね上げる。
右車線を走ってくるトラックもまた時速90キロくらいまで自然と加速しており、こちらが避けることを想定しているのか道路を直進してきていた。
「ミドリ! ぶつかるよ!」
「ミドリ!? ミドリ、ミドリ!? 早く避けて!?」
「そっちがどきやがれ! ……ですわぁっ!」
ミドリは正面のトラックに向けて怒声を上げた。
トラックはまだ回避するそぶりを見せない。こちらが左に避けてくれると思っているのだろう。同時に回避してはそれこそ衝突してしまうので避けるに避けれないのだ。
「きゃぁぁぁぁぁ! ぶつかる!」
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
アカネとアオバが絶叫する。
「道をあけて下さいましぃぃぃぃ!」
ミドリは最後まで加速を緩めなかった。
チキンレースに勝利したのはミドリだった。大型トラックはすんでのところでハンドルを切り、スポーツカーのヘッドライトを叩きつぶしながら左側をすり抜けていく。
その大型トラックが左側にしがみついていた鹿のシャドウを見事に弾き飛ばし、シャドウの姿がサイドウインドウから消え去った。
「フォゥゥゥゥゥ! 完っ璧でしたわ! 見事にわたくしの計算通り! 車の運転がこんなに楽しいものだったとは知りませんでしたわ!」
ミドリは目を血走らせていた。アドレナリンと脳内麻薬が溢れているのか、恐ろしいほど楽しげな笑顔を見せていた。
「お願いミドリ! もうあなたはハンドルから手を離して!」
「離してよろしいのですの? はぁいっ!」
ミドリはハンドルから両手を離し、楽しげにその場でバンザイして見せた。
アクセルは踏みこんだままで、まだ車両は時速150キロを維持している。車体は揺れて再び中央分離帯の線を乗り越えた。
「いやぁぁぁぁぁぁ! やっぱりハンドル握って!」
「かしこまりましたわ!」
ミドリは再びハンドルを握り、アクセルを緩めると次のカーブを豪快なドリフトを見せながら曲がった。
「僕、死んだかと思ったじゃないか! お願いだから無茶はしないで!」
「もう大丈夫ですわ! 後は街までの穏やかなドライブに付き合って下さいまし! 光溢れる駅前まで、ミドリ運輸のクレイジータクシーをどうぞお楽しみくださいまっ――!」
そのミドリの言葉は、街で起こった爆発に遮られた。
「なにっ! なにか爆発したっ!」
アカネが叫ぶ。
街のはずれ付近の場所で、何かの建物が火を噴きあげたのだ。
さらには僅かなタイムラグをおいて、街の建物から光が失われていく。
「停電!?」
「そんなっ! いまの爆発があった場所は変電所ですわ! ここら一帯の電気は全て消えてしまいますわよ!」
街のほとんどの建物が完全な暗闇に落ちた。一部ソーラー式の街灯を残し、光が再び灯ったのは病院くらいだけで街はまばらな光だけを残す。
「うそでしょ! 僕たちの変身を防ぐためにそこまでする!?」
「信じられないくらい大規模な作戦ですわ! こんなことは獣のシャドウにはできません! まさかすでにシャドウと怪人は手を組んでおりますの!?」
焦った叫び声が車内に響き渡る。
そんなとき、アカネが後部座席から身を乗り出して真っすぐに指を差した。
「ミドリ! このまま直進して!」
「アカネさん!? このままいったら郊外ですわよ!?」
「知ってる! まだ電気が付く場所が一つだけある! それもとびきり明るい電気が付く場所!」
「電気が付く場所!? 停電は隣町までしているはずですわよ!?」
「完全自家発電だったはずだから大丈夫! それに、今ならたくさんのスポットライトも用意されていたはずだよ!」
「スポットライト!? あっ!?」
ミドリはその言葉を聞き、ハッと気付いた。
「そう! 三日後のコンサート予定の場所! ショッピングモール! そこで変身して、返り討ちにしよう」
▼ ▼
「キュ、キュゥゥァァ……」
シャドウはいまだ、スポーツカーの後部リアバンパーに小指を引っ掛けて生き残っていた。
左半身と下半身を失い、角も片方折れていたが、それでも何とか車に引きずられていた。不死身のシャドウであるがゆえに、どこか闇の深い場所で体を再生させるつもりだったのだ。
そんなとき、スポーツカーのトランクがパカパカと開いているのが見えた。ロックが外れた弾みで開いたのだろう。そこに隠れれば深い暗闇の中で体を癒し、影の体を再生できるはずである。さらには虚を突いてキューティクルズの三人を再び襲うことができる。
そんな思考を張り巡らせ、小指しか残っていない指の関節を折り曲げて体を車に引き寄せた。
だが。
「ヴォオォォォォォ!」
「キュャッ!?」
車のトランクの中には先客がいた。
黒いロングコートの男がトランクから飛び出すと、右の拳をシャドウの鼻頭に叩きこむ。
鹿のシャドウは顔をつぶされると指が外れ、路上を転がっていった。
その攻防を車内の三人は気付くこともなかった。
高速で走行している上に、FMラジオの洋楽もかかっていたからだ。
黒いロングコートの男は再びトランクに身を隠していくと、どこかの目的地に到着するまで、ただ静かにその暗い荷物入れの中に潜んでいった。