《サイドストーリー》 クロスさんの過去 忘れられない優しい悪夢
こちらはクロスさんの過去編にあたります。
やや重い話になりますので、読み飛ばしていただいても問題ありません。
クロスは久方ぶりに昔の夢を見ていた。本当に昔の、幼稚園に入学した頃の夢だ。
当時六歳だったころの自分を、クロスは第三者の視点から見ていた。
その頃のクロスはまだ火傷を負ってはいなかった。短くまとまった髪に、平均的な身長をした。しかしサングラスをかけている、不可思議な格好の少年だった。
当時のクロスはこのサングラスの異様さに気付いてはいなかったが、十年以上ぶりに子供のころの姿を見てみるとたしかに近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
真っ赤に充血した眼を隠すためとはいえ、これだけ不釣り合いな大きさのサングラスをしていれば友達が出来ないことも当然だっただろう。
今、当時のクロスがいる場所は幼稚園だ。
広大な広さを誇る幼稚園の庭。今思い返せば500㎡にも満たない小さい庭園だったが、当時は非常に広大に思えたその庭園に、クロスは一人で土遊びしていた。
一人ぼっちでの土遊びはクロスが幼稚園の象徴とも思えるほど繰り返していた行動だった。
そこにある時、誰とも知れない一人の少年が、珍しくもクロスに声をかけてきた。
「お前、何そんなところで一人で遊んでんの? 俺たちとサッカーしようぜ、サッカー!」
「え、え……。あ、あ……」
少年がクロスの目の前にサッカーボールを差し出してきた。
当時のクロスは口ごもって何も話すことができない。その快活な少年を突然前にして戸惑うばかりで、ただ呆然としていた。
今思えば、これがクロスにとって唯一の友達をつくるチャンスだったのかもしれない。
だが突然、少年の背後から別の少年が現れた。
「おーいたかし! 何してんの? 早くサッカーやろうぜ~!」
「まてよ。今こいつもチームに入らないかって聞いて見てたんだって。こいつも入れたら四人でサッカーができるぜ!」
「あ、あの……。あの……」
クロスはまるで会話ができなかった。
今思えば、早く返事をしろと苛立ちを覚えるほど、当時のクロスは臆病だった。……現在の自分も、人のことは言えないのだが。
「あれ? こいつ、ダメなんだよ? この子はショーガイシャだから、一緒に遊んじゃダメだって、ぼくのママが言ってたよ?」
「あれ、そうなの? でも、四人でサッカーしたくね? いいからチームに入れちゃおうぜ」
「あ、チーム、僕…………」
クロスは戸惑うばかりで言葉がうまく紡げない。
積極性のない当時の自分が今の自分と何も変わっていなくて、正直見ていられなかった。
当時のクロスはどうしようかと視線をさまよわせる。
そして、その子供の頃のクロスの小さな視界の中にある長髪の女性が映り込んだ。
「お母さん!」
クロスは母の元に走っていった。
クロスが母に近付くとその不自然さにハッと気付く。母はなせか頭から足先まで水をかぶって水浸しになっており、とても悲しそうな目でクロスを見下ろしていた。
「お母さん、どうしてびちゃびちゃなの?」
「……なんでもないのよ、仁」
母は静かな声で言った。今思い出してもやさしい、慈愛に満ちた落ち着いた声だった。
「おーい! なんだよー、サッカーしないのか~!」
遠くで少年がクロスを呼ぶ。
クロスは振り返り、その少年を見た。
「…………」
「仁のお友達? 一緒に遊ばなくていいの?」
「……うん、僕、帰る。……お母さんの服、乾かさないと」
「……ありがとうね、仁」
母は幼いクロスの手を取り、幼稚園の門に向かって歩いた。クロスが再び振り返ると、さっきの少年がその少年の母親らしき人物に怒られていた。
「こらっ! たかし! あんな怖そうな子に近付いたらだめでしょ! あっちでサッカーしてきなさい」
「……ちぇ~」
少年はつまらなそうにつぶやいて、クロスに背を向けて走っていった。
その少年の母親はクロスをまるで腐った死体でも見るかのように眉をひそめ、そしてクロスが幼稚園の門を出るまで注意深く見張っていた。その手にはなぜか、水の滴るバケツが握られていた。
バケツの中身は空。小さい頃のクロスはその水の滴るバケツの意味を知らなかったが、今、思い返せば、そのバケツの持つ意味は嫌というほど分かってしまえるものだった。
その頃の日々を思い出すのは、正直辛いものがあった。
学芸会の時は、母はなぜか席の最後尾に座り、その周辺には他の父母は座っておらず、肩身を狭めて静かに佇んでいた。
運動会の時は地域ごとに昼ごはんの弁当が配られるはずだったのに、母はなぜか手作りの弁当を持参していた。クロスはその弁当を食べた。母とクロスにだけ弁当は配られなかった。
夏祭りの時は、母はなぜか片手を火傷していた。花火まつりの時に誰かの手持ち花火がぶつかってしまったらしい。クロスはその母の手に包帯を巻いてあげたことを覚えている。
思い出は美化されることなく、当時の色々なものの醜悪さを思い出させてくれる。
クロスが幼稚園に入学してから一年もしないうちに、美しかった母の顔は、無残といえるほどまで痩せこけてしまっていた。
そんな母を見ることが辛くて、クロスはせいいっぱい親孝行しようと努力した。
運動会では必ず一番を取った。ほかの園児が描くことのできないような正確に風景を描写した絵など描いてみせた。園の事務室に寄った時、会計決済済みの帳簿にミスがあったことを見つけ、先生に報告したこともあった。
ほかの園児とは明らかに次元の違う実力を見せつけて、クロスはその実力を高めていった。
母も最初のころはクロスの活躍を見て喜んでくれたものの、やがてクロスが幼稚園で異様な成果を挙げるたび苦々しい顔をするようになった。そしてついには、余計な事をしないでくれ! とひどくクロスを叱るようになり、クロスもそれに応えて目立つことはしなくなっていった。
その頃の世間でのクロスのあだ名は悪魔憑き。
五歳程度の幼児が、一般成人の能力以上の計算を行っていたのだ。普通ならば神童と呼ばれてもおかしくないものだが、クロスは不気味な赤い目というこれ以上ない欠点があった。
普段誰とも話す事のない子供が、数字の羅列で作られた帳簿の計算式を見抜き、その計算の間違いを保育士に指摘する。しかもその時、不気味な赤い目で目を覗き返されれば、それが悪魔か何かのような存在だと思わせるのには十分すぎた。
母は孤立し、やがてクロスは幼稚園には通えなくなっていた。
クロスは何年もの間、軟禁されていたといえるほど家から出してもらえなくなっていた時期があった。
だが年に数回ぐらいは母の買い物に付き添うことを許された。そういった時のクロスは何かの役に立てることが本当に嬉しくて、自主的に重い買い物袋を持つなど親孝行に励もうと頑張っていた。
クロスはワンサイズ上のブカブカのパーカーを着て、フードを目深にかぶることで赤い目を隠し、とにかく目立たぬように母の後ろを歩く。今見ると、怯えながらもつき従う、小間使いのような存在にも見えた。
母はクロスを隠すように前を歩いている。守るようにではなく、隠すように。
ある日の買い物の帰り。不気味な占い師じみた男が現れ、母の手を掴んだことがあった。
「あんた、悪魔にとり憑かれているね?」
「!!?」
母の痩せこけた頬が、さらに暗い影を作った気がした。クロスはその占い師に怯えて母の後ろに隠れた。
男は笑顔を作り、母に向けて優しく語りかけるように言う。
「悪魔を退散させる方法ならあるよ。……まだ、希望を捨てちゃだめだ」
「……どんな、方法ですか」
母の目に光が宿った気がした。それこそ本当に、希望に満ちた、と言っても過言ではないほどに。
「悪魔払いの道具を貸してあげよう。この油を熱して、あなたの家にある、もっとも不吉だと思える物に振りかけなさい」
そう言うと占い師風の男は懐から小さな小瓶を取り出し、母の手に握らせた。
「この油は太古から悪魔払いの道具として使われてきたものだ。もし、これを使って僅かなりとも悪魔を退けることができたのなら、次は私の占い小屋まで来るといい」
そう言うと男は振り返り、足早に去っていった。
「待って下さい!」
母は男を呼びとめると、男は立ち止まった。
「……どうしたのかね?」
男は静かな動きで振り返る。その動きはどこか手慣れた印象だった。
次に母がなんて言うかまでも理解している。そして、この男は次に必ず名乗りを上げるだろう。そこまで不思議と予想できる、まさに熟練の話術師だった。
だが、母の発した言葉は、その男の手口を飛び越える、意外な言葉だった。
「この油は、これしかありませんか?」
男はその言葉に目を僅かに見開いて驚いた。だが、声に出すことなく冷静に踏むべき手順を飛ばして、もっとも母の求めている答えを返した。
「……まだ一斗缶一つ分くらいは残っているよ。だが、さすがにそれはただでくれてはやれないね。ちょっとばかり値が張るが、それでも構わないかね?」
「かまいません」
母は迷わず即答した。その眼には、たしかな希望が宿っていた。
男はその眼を見て、下卑た表情を隠そうともせずに笑った。
「まいどあり。四十八万円用意して、高架下の占い小屋まで来るといいよ」
そう言って男は帰っていった。母はその男がいなくなるのを見るとクロスを一瞥もせずに家に向かって歩いていく。
その時の母の顔は、目は笑っていないのに口角だけ異様に捻じ曲げた、奇妙すぎる表情をしていた。
クロスは初めて、自分の母親に恐怖した。
家に帰った後、母はすぐに家から出ていった。
その日の晩御飯は用意されなかった。クロスは冷蔵庫の中から何かをとって食べようかと思ったが、勝手に食べてもいいものなのか判断ができなかったので空腹をこらえてリビングのソファーに寝転がり母を待った。
気がつけばクロスはすっかり寝入ってしまっていた。すっかり日が沈んでから、台所で油がはじける音が聞こえて初めてクロスはゆっくりと目を覚ましていく。そして身を起してソファーの背もたれから頭を出すと台所を見た。
台所では母が大きな中華鍋で油を熱していた。当時のクロスはまだ油で揚げてどんな料理が出来るかをよく知らず、ただ何かしらの料理を作ってくれているのだろうとしか思っていなかった。
その中華鍋の油が跳ね上がるほど熱されると、母は両手にミトンをつけてその中華鍋を持ち上げる。そしてゆっくりとこぼさないように、慎重な足取りで中華鍋をリビングまで持ってきた。
「お母さん。……それ、晩御飯?」
「…………」
母は返答しない。リビングの中は暗く、キッチンの光が逆光となって母の顔を暗闇に染めていた。
母がソファーを回り込んでくると、キッチンの光が母の顔に当てられる。はじける油の奥で歓喜の笑顔を浮かべた、不気味なほど口を捻じ曲げた母の顔が見えた。
クロスはたとえようもなく恐怖した。
非現実的なほどスローモーションな動きで、油の塊がクロスの頭の上に落ちてくる。
「死ね! 赤い目の悪魔め!」
母が叫ぶ。
信じられらなかった。
クロスの頭上に、熱された油が大きな曲線を描いて落ちてくる。
それがあまりに非現実的すぎて、その油は実はただのぬるい水なのではないかと、そう思えてしまえたほどだった。
だが、その油が決してぬるいものなどではなかったことは、実際に頭からかぶってみてすぐに理解することができた。
「ああああぁぁぁぁぁぁギィィィィィィィァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!」
頭皮、顔、胸、肩の、皮膚を引きちぎレていく。油はさらに腹から足首マで、体中の皮膚が壊死。皮が収縮。筋肉に熱気が触れ。まぶたがえぐれ、体中が縮む。
いたいとか、熱いとか、そういう感覚での苦しみをはるかに越えていた。クロスの意思を無視して全身の筋肉が硬縮し、体は自然と丸みを帯びた。
クロスは背を丸めてソファーの背もたれに両手両足を押し付ける。ほとんど無意識の防御行動だった。だが、中華鍋に半分以上残った油が、第二波としてクロスの頭部から背中とわき腹をまとめて焼き払った。
もはやクロスに火傷していない箇所などない。全身が火ぶくれを起こし、服に浸みついた油がさらに深い肉までクロスの体を蝕んでいく。
「あはは! あはははは! 悪魔が苦しんでいる! 悪魔が苦しんでいるわ!」
「おい! どうした!?」
別室から父が現れた。
クロスの視界はすでに暗闇にあり、父の声が聞こえただけだった。普段早い時間に家に帰る事のない多忙な父だったが、今日ばかりは珍しく帰って来ていたようだった。
父は焼けて苦しんでいるクロスを見つけ、そして同時に狂乱する母を見た。
母はとにかく笑っていた。それも心底嬉しそうに、クロスを油で焼いたことを自慢するかのようにクロスに指をつきつけて、父に対して笑って言った。
「ねえ、あなた見て! 悪魔を殺したわ! これでやっと、普通の家族が出来るわよ!?」
「な、何を言っているんだ! やめろ! やめるんだ!」
母が中華鍋をクロスに向けて振り下ろそうとしている姿を見て、父はあわてて母を取り押さえた。
母は少しばかり抵抗したが、すぐに中華鍋を投げ捨てると父に抱きついた。抱きついた母は、突然異様なほどの涙を流していた。
「やっと、やっと本当の家族に会える……。仁、待っててね。必ず、今度こそ、幸せに育ててあげるからね」
「い、いったい、何を言っているんだ? どうしたんだ、おい! おい!」
父は母を抱いたままその体を揺さぶった。泣きむせぶ母はそれ以上何も答えなかった。
クロスはそのままソファーで小刻みに震えながら痛みに耐えていた。丸めた体をそれ以上動かすことができず、ただ全力で生きるために呼吸だけをくりかえしていた。
その後のことはなにも覚えていない。救急車に運ばれた記憶もない。
奇跡的に一命を取り留めた後、クロスはその後、両親と会う機会は一度もなかった。
今となっては毎月償いのように送られてくる30万円の送金だけが両親との唯一のつながりだった。もはや夢の中でも両親と会う機会は少ない。
いつ見ても思い出は悪夢だ。全ての悪夢を一通り見終わったところで、クロスは夢から目覚めていった。