第二十話 終焉 そして新たなる幕開け
強制変身解除装置が世界を白く染めていた。
その白さが晴れ上がるまで、いったいどれだけの時間が流れたのかもわからない。
やがて光はゆっくりと時間をかけて光量を落としていく。
ぼやける視界の中で誰もが最初に気がつくことは、自分たちが今、地面に倒れ伏しているということだった。
周囲はまだやや白いが、視界の確保できる程度の光の世界に戻ってくると、一人、また一人と、両手をついて身を起していった。
全身にどことなく痛みを感じ、しかし外傷等はなく、代わりに胸の奥の何か押し込まれているような胸苦しさをその光は与えていた。
最初に声を発したのはレッドだった。
「……イエローは!」
レッドは視線をせわしなく動かし、周囲を探り見た。
目に入ったのは広大な地下シェルターの灰色の壁。ところどころにひびの入ったウレタンコーティングのコンクリート床に、千切れて転がるドラム缶の破片。
どこを見渡しても、獣大鎧の怪人王の姿はない。
だが、見つけた。
ジャスティスイエローの姿を見つけた。
怪人王が最後にいたであろう場所にイエローは大の字になって寝そべっていた。
そしてイエローは動かない。まるで死んだかのように動かない。
イエローの着ていたファーコートはもはや原型をとどめないほどボロボロだった。左腕には黒く変色した爪痕に噛み傷が残っている。満身創痍なのか両手両足はピクリとも動かず、死んではいないが呼吸音すら聞こえない。潰されたはずの両目は健在だったが、その目の周りには大量の血の涙を流したかのように黒い跡が何本も作られていた。
そのイエローが起き上がろうとする様子はなく、力無く横たえられた手足がもうこれ以上動く気配もない。
遠目から見ても分かるほど、イエローの体には活力がなかった。
静まりかえった空間。
だが、大勢の中で先頭に立ったレッドが、ゆっくりと噛み締めるように、しかし叫ぶように言った。
「イエロー……。俺たちの……、俺たちの、勝ちだ!」
その瞬間、レッドの背後で、爆発するかのような大きな歓声が響いた。
「いよぉっしゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「勝った! 勝てたぞ!」
「やぁったぁぁぁぁぁぁぁ!」
「やったでござるよ! やり遂げたでござるよっ!」
「いえぇぇぇぇぇぇぇぇぇい!」
ひび割れんばかりの勝ち鬨が空気を震わせる。
ぬれた体から水飛沫をまきちらかしながら、あちこちで飛び上がるようにはしゃぐ姿が見受けられた。
女子中学生とモリスが飛び跳ねながら握手をした。忍者と自衛官がハイタッチを決める。花屋の店員とキャバ嬢が抱き合い。相撲取りはその場で手刀を切った。
もはやかつての敵味方を気にする者などいなかった。むしろ、そのことに気付くものすらいなかった。
今この場にいる全員は完全に仲間だった。
それは正義と悪の仮面の無くなった真実の世界。ヒーローショーは終焉し、誰もが互いの素顔を認め合う、人間の世界へと姿を変えた。
正義の味方と怪人の抱き合う姿を見て、誰もがハッピーエンドを予感していた。
「まだだっ!」
だが、ジャスティスイエローは叫んだ。
その真実の素顔の世界で、イエローだけがそのハッピーエンドを信じなかった。
イエローは力を全て消耗した体に鞭打ち、上半身を跳ね上げて身を起した。
「ぐっ、うおおおおおおおおお!」
もはや叫ばねば身を起こすこともできないほどの衰弱。
だが、それでもイエローは凶暴な叫びを上げながら前のめりに立ち上がると、四つん這いになって体を支え、再び二本の足で力まかせに立ち上がろうと意気込んだ。
「イエロー!? やめろ! その状態で無理をすれば死ぬぞ!?」
レッドが叫ぶ。
しかしイエローはレッドを睨み返し、そして吐き捨てるように叫んだ。
「私が死ぬことはない! 正義の味方は不死身だ!」
イエローは威勢よく叫ぶが、反動で体がよろめき、片膝をついて体を支えた。
相当な疲労があるのかイエローは再び足を持ち上げることが出来ず、歯噛みをして苦しそうに荒い呼吸だけを繰り返していた。
「もう戦いは終わった! 終わったんだ! 負けを認めろイエロー!」
「まだ終わっていない! 私が死なない限り、この戦いは終わらない! 何も知らない癖に、甘ったれたことばかり言うんじゃねぇ!」
イエローはレッドに対して苛立ちを見せた。
レッドはイエローに一歩近づき、そして説得するように言う。
「ああ! たしかに俺は何も知らなかった! 何も知らないバカな男だった! でも、それならば教えてくれ! 俺もお前と同じ世界で戦いたいんだ! お前と同じだけの重みを、俺にも背負わせてくれ!」
「私と同じ重みだと! お前ごときが背負えるものか!」
「確かに俺一人だけだったら押し潰されるかもしれない! でも、今の俺たちには仲間がいる! 怪人も、ヒーロー戦隊も、みんなが仲間なんだ! 仲間と一緒なら、どんなことだって受け止められるはずだ!」
「仲間だと!? それこそ勘違いも甚だしい! お前たちには誰一人として仲間なんていない! そんなに真実を知りたいのなら、そこのフューチャーブルーあたりに聞いてみろ! この戦いの真実を!」
「フューチャーブルー!?」
そのイエローの叫びを聞いて、レッドは辺りを見渡した。
振り返ったレッドの視線を受けて、フューチャーブルーらしき藍色の高級スーツを着た男がたじろいだ。
「どういうことだフューチャーブルー!」
「そ、それは……」
高級スーツの男は口ごもり、レッドとイエローを交互に見て、何か逃げ道がないかと冷や汗をかきながらも思案している様子だった。
その煮え切らない態度にイエローが苛立ち、代わりに話し出す。
「言えないようなら私が言ってやろうか! まずは私の中にある怪人のコア! こいつを一年以内に破壊しないと、お前らは相当困ったことになるんだろ! 私は全てを知っているぞ! なんなら私が全部説明してやろうじゃないか!」
「ま、まて! やめてくれジャスティスイエロー!」
高級スーツの男はあわてて制止した。
その何か訳知りな様子に、その場の全員の追及は高級スーツの男に集まった。
「待って! コアが破壊されたら、私たちも死んじゃうじゃない!」
「そうでござるよ! ヒーロー戦隊の目的はコアの破壊であるとはいえ、我々にもう戦う理由がないのでござる! どうか、コアの破壊だけは考え直していただけぬでござるか!?」
モリスや剣道着の男が叫ぶ。
さらに高級スーツの男に対して追及を始めるのは怪人側だけではなかった。
ヒーロー戦隊側も多くは聞き知らぬ情報を明示され、高級スーツの男に対して真実を求めてきた。
「そう言えばイエローの言っていた、1990年代組のヒーロー戦隊しか知らない情報ってなんなんだ! なぜ俺たちには何も教えてくれなかった!」
「フューチャーブルーさん、ヒーロー戦隊の必殺技が兵器になるって話、本当なんですか?」
一斉に質問攻めにされる高級スーツの男。彼はそれを戸惑いながらも、何とか説明しようと話し始めた。
「ま、まず、一つずつ説明をさせてくれ。ヒーロー戦隊の技術が兵器になる話は本当だ。私はヒーロー戦隊の情報を集めて、それを軍事企業や研究開発機構に情報を流す橋渡し役をしていた。……だ、だが、それを勘違いしないでくれ! それは兵器開発のためなんかじゃない! ヒーロー戦隊の技術は、かつてはトランジスタや集積回路の発明、さらにはペニシリンの精製やマイクロ波の発見にも影響するほどの、未来技術の塊なんだ! ヒーロー戦隊と怪人の戦いがなければ、世界の技術開発はおそらく三百年は遅れていたと言われている! ヒーロー戦隊と怪人の戦いが世界を豊かにしたんだ! イエローの言うような悪意があってやっているわけじゃない!」
「その仕事で年商40億のクソッタレ政治家がよく言うぜ! 結局のところ、私の中のコアを破壊したくて仕方がないんだろ!」
「ち、ちがう! 私はただ、人類の未来のために……!」
「どっちでもいい! 結局お前は、私のコアを破壊しなきゃならないんだ! コアを破壊して、新しい怪人王が現れて、新しいヒーロー戦隊の新しい武装が出てきてくれないと、金銭的にも人類の未来的にも困るって言いたいんだろ!? 本音と建前のどっちでもいいが、お前の目的はコアの破壊だ! 言い逃れはさせねえぜ! どさくさにまぎれて殺されちゃたまらないからな! 今すぐここで全部の真実を吐きやがれ!」
「うっ……!」
イエローの叫びに圧倒されて、高級スーツの男は冷や汗を流した。
真実が暴かれたからにはもはや言い訳は効かない。怪人側、ヒーロー戦隊側双方から、高級スーツの男は槍衾に囲まれるように糾弾された。
「ここまで来て、私たちはまたヒーロー戦隊は戦わなきゃいけないって言うの!? そんなの、私イヤだよ!」
「私だってごめんです! 怪人さんたちの中にもいい人たちがいるって、今日始めて気が付けたんです! もう怪人さんとは戦いたくありません!」
「俺だってそうだ! こいつら悪い奴らじゃねえよ! いい奴らと殺し合う理由なんてねえよ!」
「拙者も同意でござる! 振り落とされぬ刀に、返す刀はないでござるよ!」
ほぼ全方位からの反対意見が高級スーツの男を襲う。
だが、それだけの反対意見が出揃っても、高級スーツの男は歯切れ悪くさらに言葉をつぶやいた。
「し、しかしだ。これは非常に高度な政治的問題でもあるんだ。1945年のポツダム宣言時の密約に、1962年の水面下での開発協力公約。1978年の国際情報共用利用契約と相互情報授受規約。今ここでヒーロー戦隊の進化をやめたら、日本の政治的立場だって危うくなる。それも国際社会で必要とされている情報共有を一方的にやめたりなんてしたら、そのとき一体どれほどの国際的孤立を日本が喰らうか……。株価だって、国債だって際限なく暴落するだろうし……」
「そんなこと、俺たちの知ったことじゃねぇだろうが!」
レッドが怒りにまかせて、高級スーツの男の胸倉を掴んだ。
「そんなもの政治家たちで何とかしろよ! 俺たちは、俺たちが正しいと思ったことをやるだけだ! あんただって本当は分かっているんだろ!? なにが本当に正しいのか! 俺たちはどうすべきなのか!」
「そ、それでも、しかし……」
煮え切らない高級スーツの男の様子にレッドは苛立ち、押し出すように高級スーツの男を手放すと、振り返って全員を見た。
「他にはいるか! 怪人と仲良くしたくないってやつは! 怪人と戦わなければ世界は平和になるはずだ! 兵器は増えないし、世界も滅びない! たったそれだけの簡単なことなんだ! それができないって思えるやつは、他にはいるか!?」
レッドは叫んだ。
周囲のほぼ全員が賛同の意思を見せていた。
だが、よく確認すれば意外にも、何人か苦々しい表情をして、賛同の意思を見せない者達がいた。
「……すまんなジャスティスレッド。あっしらも、賛同できんのや……」
「あんたは、カタギレッド、か?」
その人物はサングラスをつけた和装の男だった。
その彼、カタギレッドはモリスや女子中学生を押しのけて前に出てくると、低く濁った声で話し始めた。
「ジャスティスレッド、あっしはお前が親父の玉ん中にいたころから怪人と戦ってきた男や。だからこそわかる。怪人とヒーロー戦隊は、結局いずれまた殺し合う運命にあるんや」
「なんでだよ! なんでそんなことが言い切れる! 実際俺たちは、こうして協力して戦うことだってできたじゃないか!?」
「にいちゃんは若いから知らんだけなんや。そりゃ、ここにいる連中はいい奴らばっかりやと、あっしかて思うよ? 怪人たちと仲良くなれる、そう思えてしまうのもわかる。……だが断言してもええ、そんな仲良しこよしの関係は、きっと一年と続かへんのや」
和装の男はサングラスを胸ポケットに入れると、真摯な目でレッドを睨みつけるようにして、再び話し始めた。
「悪の怪人はいずれまた新しく現れる。悪の怪人が現れて、数が増えて、にいちゃんらと仲良くならない本物の悪党が悪党同士で徒党を組むようになる。徒党を組んだ悪党は悪の軍団を名乗り、巨大化した派閥はカリスマを持ったリーダーを生み出す。つまりは第二第三の怪人のコアだって生んでしまうんや。分かるか、にいちゃん? 結局、悪の怪人の数を減らすためにも、ヒーロー戦隊はいずれまた怪人を殺さなきゃならんのや。一瞬で怪人の数を減らせるコアの破壊が一番。たとえ今ここでコアを破壊せんくても、いずれ増えまくった怪人に対処できなくなって、結局はコアを破壊するか怪人に世界を征服されるかの二択になる。怪人とヒーロー戦隊の殺し合いは、これはもう運命のようなものなんやで?」
「そんな運命、決まったわけじゃないだろ!? 全部の怪人と仲良くなれる未来だってあるはずだ! 怪人が死なないで済む世界だってきっとある! なんで希望に賭けようとしてくれない! みんなが幸せで終わる未来があるかもしれないのに!」
「単純な話、1990年代組のあっしらはもう若くないんや。未来に賭ける勇気はもう残っておらへん。そんなことより、最悪の未来を想定して動く。にいちゃんが失敗したら、あっしらがコアを破壊する腹積もりや。そん時になって、生ぬるい人情ほど邪魔なものはない」
レッドはその答えに怒りを隠そうともせず立ち向かい、カタギレッドの胸倉を掴んだ。
「ふざけるな! 何が最悪の未来だ! そんな考え方自体が最悪の未来を引き寄せるんだ! 希望が見えたなら真っすぐに手を伸ばせよ! 俺たちはヒーロー戦隊だろ!」
レッドは和服の男を力の限り引き寄せ、唾を吐き掛けんばかりに怒鳴りつける。
和服の男はそれを受け入れるように、無表情で赤井の目を見返していた。
そこに、自衛官の男が割って入ってきた。
「落ち着けジャスティスレッド!」
自衛官の男はレッドの手を掴み、和服の男から引き離した。
レッドはその自衛官の男を見た。
「落ち着いてくれジャスティスレッド。……すまないが私もカタギレッドと同意見なんだ。怪人とヒーロー戦隊が戦わずに済む未来はないと思う。ミリタリーレッドである私も、怪人とは距離を置かせてもらうつもりだ」
「なっ!?」
その男性自衛官の言葉に、レッドは信じられないように目を見開いた。
驚いたのはレッドだけではなかった。自衛官の隣にいた、彼と付き合いの長そうな女子中学生も、その自衛官の選択に驚いていた。
「なんでやねん隊長!? 別に仲良くしたってええやろ!? なんで試してもいないのにいきなり諦めとるんや!」
「ミリタリーイエロー、お前は入隊してから日が浅いから分からんかもしれんが、お前の死んだお母さんならば私と同じ意見だったはずだ。お前も一度、怪人と仲良くなれるか試してみればいい。だが、忘れるな。怪人の数は多い。確かに悪人ばかりではないが、善人ばかりでもないんだからな。私たちはそれで一度、痛い経験をしている過去がある。……他に、ミリタリーレンジャーで私と同じ意見の者はいるか?」
自衛官の男は振り返って尋ねた。
「隊長、私もです」
航空自衛官らしき、ヘルメットをかぶった男性が即座に片手を上げた。
それに続いて、全身に枝葉を張り付けたゲリラ風ギリースーツの男性も答える。
「私も賛成であります! 隊長殿!」
ギリースーツの男性は、自衛官に対して敬礼した。
そして、その隣にいた衛生兵姿の女子中学生も迷いを残しながら答える。
「私は……。私は、医療の世界の人間です。誰かを治すのに敵味方はありません。必要があれば、怪人だって治療させていただきます」
「そうか……。では、ミリタリーレンジャーからは私を含めてレッド、ブルー、グリーンの三名が、ジャスティスレッドの理想から脱退させてもらうとしよう」
自衛官の男の宣言に、レッドはもはや怒りをぶつけることもできず、歯がみをしてうつむくしかなかった。
「なんでだよ、……なんで…………っ!」
「悪いがにいちゃん。カタギレンジャーの五人も不参加やで。あっしらはもう意見も聞くまでもないんや。みんな現実を知っとるんでな。……ほんま、すまんな」
和服の男をはじめとした、服の隙間から刺青の見え隠れする厳つい見た目の男性五人組も、レッドの近くから距離を取り始める。
さらには集団の中から青い燕尾服の男性も抜け出してくると、レッドに対してやや重々しい表情で語りかけてきた。
「ジャスティスレッドくん、オーパーツレンジャーも全員が参加しないだろう。仲良くなることを悪いこととは言わないが、おそらくはいずれは粗が出る。そうなった未来の時のために、我々は準備をして待つつもりだ」
そうオーパーツブルーらしき青い燕尾服の男性が言うと同時に、緑の航空機機長服の男や、黄色の礼服の女性、白衣の研究者然とした男性などが、レッドたちの集団から離れていった。
「……やめてよ。私はもう、殺し合いたくないよ……」
モリスが不安そうにそうつぶやく。そのモリスの不安は伝播するまでもなく、この場の全員に感じられることだった。
「……っく!」
レッドは血が滲みそうなばかりに握りこぶしに力を込める。
そのレッドの悔しそうな様子を見て、イエローがそれを無様と言わんばかりに笑った。
「ははっ! 分かったかレッド! これが現実だ。希望なんてありえない! これが現実なんだ!」
イエローがレッドを嘲笑するように言った。
レッドはその嘲笑にも、歯噛みをして受け入れるしかなかった。
だが、和服の男がそのイエローの嘲笑に反論した。
「何言っとるんやジャスティスイエロー。いつあっしらが希望を無くしたと思った? むしろ、今しがたあっしらには希望が見えたんやで?」
「……何を言ってやがる? お前たちは今、自分から希望を捨てたんだろうが!」
「確かにあっしら年寄りは希望を捨てた! せやけど、希望なんてものは星のように残っとるもんや! お前こそ、こいつらを見てみぃ!」
和服の男は親指を立てて、レッドを先頭とした、怪人とヒーロー戦隊の混成軍を指差した。
「何もあっしらは、害の少ない怪人まですぐ殺そうと言うてるわけやあらへんのや。ただ、いずれ悪党になる怪人が現れた時のために、非情になれるよう覚悟しとるだけや。悪い怪人がもう二度と出てこないなら、それこそ怪人とだって仲良くなってもええと思っとるんやで?」
和服の男は振り返ると、ニカッと皺の多い顔を捻じ曲げた笑顔をモリスらに向けた。
しかし友好的にも見えるその笑顔を向けられても、それが全ての解決になるとは思えなかった。
不安そうな表情を崩さずに、モリスが内心の疑念を吐露する。
「でも、技術が進歩しないと困るんでしょ……。ヒーロー戦隊は怪人と戦い続けてないと、人類の進化も止まるんでしょ?」
「そりゃ、技術の進化も大切なこととは思うが、それを気にするのは政治家だけや。せやろ、フューチャーブルー?」
「そ、それは……」
フューチャーブルーである高級スーツの男が視線をそむける。
そこに和服の男はフレンドリーに近づいていき、高級スーツの男の肩に手を乗せた。
「今すぐコアを破壊したくてたまらないのはあっしらかておんなじやで? あっしらカタギレンジャーも、ヒーロー戦隊の技術特許で相当うまい汁すすっとったんやからな。あんたらもそれで稼いだ金は数百億じゃ効かんのやろ? やけんども、世界と天秤にかけるほどやないんとちゃうんか? 怪人と仲良く出来きんかんかったらコアを破壊すれやええんや。上手くいっとるうちは、金なんか気にせんでいこうやないか」
「……しかし、だな、人類の発展のためにも――!」
その高級スーツの男の言葉に、和服の男は穏やかな態度を急変させ、殴るような勢いでフューチャーブルーの胸倉を掴み、ブチ切れた。
「黙れぇ! フューチャーブルー! 根っこまで腐りおったか!? せっかくの希望を若い衆が持ったんや、いまさらコアの破壊なんてあっしがさせへんで! 数百億の赤字くらい、喜んでうちらの年代で被ってやらなあかんやろ! 漢見せぇやフューチャーブルー」
その和服の男の激しくドスの利いた叫びに、高級スーツの男は思わず顔を退けた。
だが高級スーツの男は、今度は怯えることなく睨み返すと、威圧的な和服の男に対して逆に怒りの表情を向けて見せた。
「ぐっ……。カタギレッド。政治家の苦労も知らない癖に……。ヒーロー戦隊の技術更新ができないなら、今後の日本がどうなると思っている! どうするんだよ次回の交渉! 開発契約の更新も! どれだけ難しい仕事を政治家がしてると思っているんだ! ただでさえ日本は立場が悪いって言うのにっ! これは最悪の場合世界戦争にまで発展するんだぞ! …………ああっ、もうっ! ちくしょう! 金なんてどうでもいいんだよ! やってやるよ! やってやるしかないんだよな!? お前らのせいで日本経済が崩壊したら私の責任なんだからな! そんなことになったら、私は首を吊るしかないんだ! ああったく! 冗談じゃない! ……ジャスティスレッド! 絶対に怪人と仲良くして見せろよ! じゃないと、怨むからな! 首吊った後、怨んで化けて出てやるからな!」
高級スーツの男は和服の男の腕を振り払い、振り返ってレッドに向けて付きつけるように指を向けた。
その後、高級スーツの男は頭を抱えてしゃがみこみ、今後生まれる損害と契約破棄の取りつけを国際的な視点で考えて、涙目で、ああ、イヤだイヤだ、と小さく連呼していた。
そうしてうずくまる高級スーツの男の肩に、和服の男がポンっと手を乗せた。
「安心しいフューチャーブルー。首を吊る時はあっしらかて道連れや。地獄だろうとどこまでだって付き合ったる、さびしい思いはさせへんで!」
「そんな気遣いはいらん! 首を吊るなんてただの言葉のあやだ! 正義の味方はいつだって勝つべくして勝ってきた! 今回だって勝つしかない! ハッピーエンド以外、私は認めない主義なんだからな!」
高級スーツの男は怒り、和服の男の胸に拳を叩きつけた。
和服の男はその拳を胸に受け、ニカッと笑った。
「せやな! それでこそ正義の味方や! これで話はまとまったでジャスティスレッド! あっしら古参組は参加こそせんが、あんちゃんのその心意気だって否定はせん。だからあんちゃんたち若い衆は、面倒なことは全部年寄りどもに押し付けて、好きなだけ怪人と仲良くすればええんや! しりぬぐいは年上の仕事や。めんどくさいことも辛いことも全部引き受けたるから、にいちゃんたちは好きなだけ、やりたい放題チャレンジしてみぃ!」
和服の男はレッドに近づくと勢いよく肩を叩き、そして間髪いれずに親指をグッと立てて笑顔を見せた。
「カタギレッドさん……。ありがとうございます!
」
レッドは和服の男に向けて、深々と頭を下げる。
和服の男をはじめ、レッドから距離を取っていた不参加の意思を表明したヒーロー戦隊十人が、レッドやその他のメンバーを見て何かを託すように頷いていた。
怪人とヒーロー戦隊の混合軍団は、その彼らの笑顔に胸をなでおろし、不安を無くす。
大人たちの背中にレッドたちは守られ、自由と挑戦を認められたのだ。
……しかし。
「ふざけんじゃねぇよ……」
ふと、地面から響くような黒い声が響いた。
場の全員が振り返った。その声は、ジャスティスイエローから発せられたものだった。
イエローは動かなくなった片腕をブランと垂らして立ちあがり、揺れて今にも崩れ落ちそうな体を力まかせに無理やり支える。
そして、悲しみと怒りの入り混じった形相で怒鳴った。
「ふざけんじゃねぇよ! なんで今頃、そんな覚悟をしてくれるんだよ! 怪人と仲良くなれるチャンスだと! そんなもの、あるわけねえだろ!?」
そのイエローの叫びは、絶望の深みから届けられたかのような、怒りのこもった叫びだった。
「いいや! 俺たちは必ず成し遂げて見せる! 俺たちなら出来る!」
「せや! このにいちゃんたちなら出来る! あっしが保証してやる! これは確かな未来への希望や!」
和服の男性も説得するようにイエローに向かって叫ぶ。
だが、イエローはそんな言葉に納得することはなく、逆に全ての感情を吐き出すかのように叫び返した。
「出来るわけがねえ! そんな希望、いまさらあってたまるかよ! 出来ねえんだよ……! 出来るわけがねえんだよ!」
「今だからこそ出来るんだ! イエロー、お前だって本当はっ――! ......イ、イエロー!?」
レッドは驚愕して言葉を詰まらせた。
いや、レッドだけでなく、この場の全員が驚いていた。
イエローは、涙を流していた。
「なんで今頃なんだ……! なんで私が、お父さんを、殺した後になってから、そんな希望が見つかるんだ! おかしいだろ! お前らは絶望すべきなんだ! 怪人とヒーロー戦隊が仲良くなれるわけがない! この世界に希望なんて無い! それに気付いたから、私はお父さんを殺したんだ! なのになんで、なんで、そんな希望が、いまさら見つかるんだ!」
「イエロー、お前……。泣いて……」
レッドはイエローの涙に戸惑う。
イエローは溢れんばかりに涙を流していた。激情に身を任せて、拭うことすらできないほどの涙が、イエローの双眸からこぼれ落ちていた。
「ああ! 泣いてなにが悪い! 私にとって平和な世界なんてどうでもいい! そんな平和はお父さんの理想だった! だが、私はそれを受け継いだ! 受け継いだからには、受け継いだ私が成し遂げなければいけないんだ! だが、なんだ! その、いつでも仲良くできましたみたいな口ぶりは! 互いに認め合うことができるなら、なんで最初からそうしなかった! なんで私がお父さんを殺す前に、そんな簡単なことができなかった! ふざけるなよ! ふざけんじゃねえよ!」
堰を切ったかのように流れだしたイエローの涙。
そのまじりっけのない水晶のように透明な涙は、津波のような感情に押し出されて頬をつたって零れていく。
イエローは激情のままに手でぬぐうことなく涙を流し、レッドを睨み返した。
その涙を見たレッドは、一つの答えに気が付いた。
「イエロー、お前もしかして……。自分の父親の仇を討ちたかっただけなのか……?」
「仇だと!? ああ、そうかもしれねぇな! 正義の味方だと言いながら、心の底ではお父さんを殺した世界を全てぶっ壊したくて仕方がなかった! もしまだ体が動けば、今からだってお前たちを皆殺しにしてやりたいくらいだ! これが私の正義だ!」
イエローは震えて力の入らないはずの足に無理やり力を込めて立たせると、そのまま強引な力で歩き出す。本来ならば救急搬送が必要なほどの衰弱を意志の力で噛み殺し、視線だけで人を殺せそうなほどの威圧を持ってして前に進む。
「そこをどけ! 道を開けろ! 私は全てを取り戻す!」
「まずい! ジャスティスイエローを逃がしてはいけない! ここで取り押さえるぞ!」
高級スーツの男が叫ぶ。
その言葉に応して、イエローを取り囲もうと場の全員が左右に広がるように動き出した。
だが、イエローはそんな包囲に怯える様子はなく。むしろ自分の涙をぬぐうと野生の獣のように荒々しく吠え猛けた。
「そこを、どけぇぇぇぇぇ!」
「うっ! みんな、離れろ!」
レッドが注意する。
イエローは懐から銀色に輝く拳銃を取り出し、銃口を正面に向けた。偶然にも照準の向けられた高級スーツの男はたまらず退き、道を開ける。
さらには足を引きずりながら近づいてくるイエローに怯え、通り道にいた剣道着姿の男も左に避けた。
銃口は構わず正面を向き、その射線上にいたモリスや航空自衛官の男も慌てて道を開け、ついには一本の道が作られた。
イエローはその道を突っ切って歩こうとする。
だが、その手負いの獣のようなイエローに対して、レッドだけがイエローの正面に立った。
「やめろイエロー! 怪人王ゾシマが望んだ平和がやっと見つかったんじゃないか! どうしてそれに気付かない!」
「そんな平和なんてどうでもいい! 言ったはずだ、私は私の正義を貫くと!」
イエローはいまだに涙のにじむ目でレッドを睨み返すと、リボルバーの撃鉄を起こし、レッドの眉間を狙った。
「ジャスティスレッド殿! あの銃にはたしか玉が三発くらいしか残っていないでござるよ! 今なら一斉に襲いかかれば取り押さえられるでござる!」
「やめろ! こんなところで最後に遺恨を残したくない! 俺が説得するから、みんな離れていてくれ!」
「いいやレッド! いまさら貴様の説得なんて無意味だ! 運命はすでに廻っている! 新しいヒーローショーが始まるんだ! 正義の味方が貴様たち悪党どもを殺す、絶望の未来の始まりだ!」
イエローはそう叫んだ瞬間、銃口をレッドの眉間から外し、誰もいない空間に向けて引き金を三回引いた。
慌てて射線の近くにいた者たちは飛びのいた。銃弾は誰にも当たらず、何もない空間を飛び抜けていった。
「しまった! そっちが狙いか!?」
高級スーツの男が叫んだ。
その意図に気が付いた何人かが、銃弾の着弾地点を見た。
「明日からは怯えて眠れ! 怪人王ジャスティスイエローは、時間も場所も問わずにお前たちを殺す! 闇夜に紛れ、一人ずつ、圧倒的な力で踏みつぶしてやる! 私は間抜けな怪人どもとは違うぞ! もはやお前たちに勝利はない! 何せ私こそが、本当の正義の味方なのだからな!」
イエローの弾丸に撃ち抜かれたのは、強制変身解除装置だった。
ジュークボックスに似たそれは何度か強く光を明滅させた後、シュン、とこと切れるような音を鳴らして機能を停止させた。
室内の光量が目に見えてうす暗くなり、胸の奥を押し込めるような不思議な圧力が消え去った。
「まずい! イエローを取り押さえろ!」
「また会おう、クソ野郎ども! 一次元《線》・ムーブ!」
近くの剣道着の男や高級スーツの男がイエローに向かって飛びかかる。
だが、すでに遅かった。
イエローの姿は一瞬にして空気と入れ替わり、ほんのわずかな白埃だけを宙に残して、まるで最初からそこにいなかったかのように消失していた。
「逃げられた! まずい、これはまずいぞ!」
イエローが立っていた場所で高級スーツの男が叫んだ。彼は慌てて周囲を見渡すが、いまさらその行動には何の意味もなかった。
「ジャスティスイエローか……。やっかいな敵がまた現れてしまったのぅ。いや、一応は正義の味方か? ややこしい話しや、ほんまに」
和服姿の男が皺の寄った眉間を抑える。散々戦いに疲れてきた男の苦悩が、溜息としてこぼれた。
「正義と悪の殺し合う運命か……。信じたくはないものだな」
自衛官の男がつぶやく。もはやどうすることもできないことを悟り、彼は腕を組んで思案していた。
不安と恐怖の入り混じった重い空気が漂う。
ジャスティスイエローは逃げ切り、さらには怪人のコアまで持ち出された。一度は勝てたとはいえ、再戦するとなれば有利な要素はなく、むしろその宿敵の強大さの前に怖気づくほかなかった。
「どうするんだよ。次に会ったら、もう勝てる気がしねえぞ?」
「そ、そうでござるな。この人数でやっと勝てた相手でござる。街中でばったり出会ったら、拙者、侍といえどももう土下座するほかないでござるよ」
海パン姿の男と剣道着姿の男が言う。
それに反論するように、レッドが希望を持ってして叫んだ。
「いや、だれも殺させはしない! 俺がそうせない! 次にイエローと会ったら俺が一対一で説得して見せる! あいつだって本当は何が正しいか分かるはずだ!」
だが、レッドのその力強い決意に勇気はあっても確実性はない。この場の不安を打ち消すにはレッドの決意は不十分であった。
ゆえにその決意に加勢するように、レッドの周囲の面々から声が上がった。
「お前じゃ無理だぜ、ジャスティスレッド!」
「そうだ! みんなで助け合うって決めたばっかりなのに、何一人で解決しようとしてるんだよ! 俺たち怪人も一緒に戦わせてもらうぜ!」
「助けあってこそのヒーロー戦隊だ、って言っていたのはあなたですよね? 私たちヒーロー戦隊と怪人が合わされば文字通り百人力なんです。一人で抱え込まないでください!」
高校生バスケットボール選手や海パン姿の男、フューチャーピンクであった女子小学生がレッドの近くに歩み寄る。
しかし、その場に水を差すようにモリスが正論を吐いた。
「でもさ、次は奇襲とかされたらどうするのさっ! ジャスティスイエローがいきなり現れたら、助けを呼んでもすぐに全員は集まれないよ!」
「うっ! 確かにそれは……」
モリスの叫びに女子小学生がうつむく。再び空間には重い空気が流れ始める。ただ団結するという漠然とした行動に対して新しい希望が見出せず、意見も手詰まりとなりつつあった。
だが、そこにハッと気がついたように、ユダがクロスを指差した。
「大丈夫だよ、私たちにはクロスさんがいるから! クロスさんなら一人でもイエローとだって戦えるよ!」
そう、ユダは突然叫んだ。
そのユダの言葉に反応して、ユダの向けた指の先に視線が集まっていった。
クロスは大の字で横たわっている。呼吸しているのかも怪しいくらいに静かに佇み、力無く両手足を広げて動かないでいた。
「クロスさん? あの火傷の人?」
「せやった! あの火傷のにいちゃんの能力は最強やった! 実際に体験したから分かる! あのジャスティスイエローが手も足もでなくなるほどの能力やったんや! ジャスティスイエローのセーフティーという弱点を突くには、あのにいちゃんの能力がカギやな!」
「そういえば確かに、あの赤眼の男がいなければジャスティスイエロー相手に逆転は出来なかった。我々が頼るべき希望は、きっと彼なのだろうな」
「全くだぜ! あいつほど強い怪人は今まで見たことがない! いままで表舞台に出てこなかったのが不思議なくらいだ!」
「そう言えば俺たち古参のヒーロー戦隊もクロスなんて怪人聞いたことないな? いったい彼は何者なんだ?」
自衛官の男がそうユダに質問する。
そのヒーロー戦隊たちの疑問に、ユダは逆に疑問を返した。
「え? ……そういえば、クロスさんって何者なんだろうね?」
その瞬間、僅かな時間の間だけ、場が沈黙した。
自衛官の男は驚愕し、ほとんど反射的な動きでユダとクロスを二度見していた。
「な、なんだと!? それはいったい、どういうことだ!?」
「ちょっと待て、あいつはおまえたち怪人の仲間じゃなかったのか!? 多少の素性くらいは知っているだろ!?」
高校生程度のバスケットボール選手も叫ぶ。
しかし、ユダは当たり前のように返答を返した。
「え、なんにも知らないよ?」
「知らないっ!? なんだそれ!? じゃあいったい何で戦っていたんだよ!」
「いや、だってその……。通りすがりで助けてもらって、本当にそれだけ」
「それだけ!? おいおいおい! どういうことなんだ!? 誰か彼の知り合いはいないのか!?」
そう高校生バスケットボール選手が叫ぶが、怪人達は皆、顔を見合せるばかりで答えることは出来なかった。
「そう言えば誰も知らないな。俺もユダさんにすごく強い一般人ってことしか教えられてないしな」
トミーがつぶやく。その言葉に、怪人達の間にも困惑が広がった。
「ちょっと待つでござる! どうゆう事でござるか!? まさか本当に、本当に彼はただの巻き込まれただけの一般人だったということでござるか!?」
「えええええ!? て、言うかそうだよ!? 巻き込んだのあたしだよ! あの人ただの一般人だよ!」
「はぁぁ!? じゃあなに!? あの人、本当に無関係!?」
「無関係!? これだけ活躍しといて無関係!?」
「なんでだ! 何がどうしてこうなった!?」
「俺たち、一般人に助けてもらっていたのか!?」
「どういうことだよ! そんなこと前代未聞だぞ!?」
全員が目を見開いて驚愕した。
いまさらすぎる新事実。ヒーロー戦隊をまとめて相手にした上、さらに怪人王の力をほとんど無効化させるほどの能力の持ち主が、ただの一般人。
だれもが地面に寝そべるクロスを驚嘆の目で見た。
だが、その視線を向けるうち、クロスの異変にはトミーが最初に気が付いた。
「ちょっと待て! よく見てみろ! その、クロスさんの様子が、何かおかしくないか!?」
場は一瞬にして静まりかえり、離れた場所で大の字に寝転がっているクロスの姿を凝視した。
「…………」
「………………」
全員が息を潜めると、不気味なほど静かになった。広大なコンクリートの空間に呼吸音しか聞こえない。
そしてその静けさの中で、そのクロスの違和感に気付くものが他にもちらほらと現れ始めた。
「……あれ、クロスさん? ピクリとも動いていないんじゃない?」
「むしろ俺には、呼吸もしていないように見えるんだが……」
「気のせいか、顔にも赤みが無い気がするでござる……」
「……死んでんじゃないの? あれ」
その疑念が想起された瞬間だった。
クロスの背中でジワリジワリと広がっていた血だまりが、目に見える勢いで床に赤い円を広げていく。その出血量は言うまでもない、余裕の致死量だ。
クロスの下の血だまりは、瞬く間にクロスの大の字に広げられた両手両足よりも広範囲に広がっていくと、ほんの僅かに赤い湯気を立てながら色を澱ませていった。
溜めに溜めた血管の鬱血がついに爆発したのが原因で、血は際限なく出血を加速させていく。
「だあああああああ!? ヤバい! あの血の量ヤバい! 死ぬぞ! 今すぐ死ぬぞ!」
「あかん! そういや腹にドでかい風穴開けたんやった!?」
「あっ! 仮止めの止血材がとれたんだ!?」
「ちょっ! うあぁぁぁぁ! 早く、止血止血止血ゥゥゥゥゥゥ!」
「衛生兵~~!!」
全員が猛ダッシュでクロスの元に駆け寄っていく。
クロスの目は完全な白目になっていた。表情筋のむき出しになった顔は赤みを失って灰色に変色しており、呼吸状態も悪く、血中酸素濃度も下がって噴き出す血は黒ずんでいる。
つまり、一般の医者ならば無言で首を横に振るような危篤だった。
「血だまりが広がっていく! 誰か、早くモップ持ってこい!?」
「なんで掃除を先にするんだよ!? 早く医者呼んで来い!」
「医療系って誰がいたっけ!?」
「ミリタリーホワイトに、フューチャーピンク! あと一応、ホワイトティーチャーも応急処置なら出来たと思う!」
「歯医者でよければ私にも手伝わせて下さい!」
「てめえはいらねえ! 早く医者が来い! 止血してくれ!」
「私の医療用バックパックはどこ! さっきまで腰にあったのに!?」
「ホワイト! あっちに置きっぱなしやったで! うちが取ってくる!」
「誰か素手でもいいから血を止めろ!」
「人工呼吸は必要!?」
「ええ! この人と!? 私はちょっとやだよ!」
「なら私がやる!」
「よく見ろお前ら! この人ほっぺたに穴が空いてるぞ! どうやって呼吸を入れるんだよ!」
「人工呼吸なんていらないから早く手伝えバカ! ありったけの布よこせ! 血を止めるぞ」
「クロスさん、死なないで! 絶対に死んじゃダメだからね!」
最後に大きく呼びかけられたユダの心配する声が、クロスにとって最後に意識することができた声だった。
クロスの意識はすでに黒靄の中に送り込まれていた。ぼんやりと遠くから聞こえる大勢の慌てる声が、どんどんとかすれて消えていく。
体から血液と体温が削り取られていっていた。クロスの中に不思議と痛みはなく、地面から少し宙に浮いているのではないかという感覚の麻痺が起こり始めている状態だった。背中に空いた穴からクロスの血液が抜き取られて、それに準じて体が軽くなっていく不気味な感覚。そうしてうわついた体はいつの間にか地面を感じる事のない、はるかな上空にまで浮かんでいき、暗い世界の中でクロスは手足をもぎ取られ霧散する。
「クロスさん! ダメ! 死んじゃダメ!」
そのユダの声が不思議と大きく聞こえた瞬間。クロスの意識はついに途絶えた。