BAR eternityの遅刻
「あの、実はですね、宝くじが当たりまして…」
「それはおめでとうございます」
「しかもね、ええ、六億円当たりまして…」
「それは、それは、本当におめでとうございます」
バーエタニティーの店内には、バーテンダーの進士はるかと、四十代くらいの男性の姿があるのみだった。
進士は時計を伺う。時間になっても未だ現れない真樹に憤りを感じながらも、それを表情には出さないよう、接客に意識を注いでいた。
「それがね、全然めでたくないんですよ」
「え?めでたくない?どういう意味ですか?六億円貰えたんですよね?」
進士は「ほら来た。やっぱり、そういうお客さんじゃないか。このパターンだと、『お金は持ちすぎるもんじゃない』とか言うかしら。とにかくオーナーが来てくれないと話が進まないんだけど…」と、心の中で愚痴を吐く。
だが、進士はこのエタニティーでは超一流のバーテンダーで居続けなければならない。上手く、その男性の質問に相槌を挟みながら、なんとか間を持たせようと
努力する。だが、それも長い時間となると厳しいものがある。
「はい。お金は貰えたんですが、そこで会社を退職したのがマズかったんですよね。そこからシンガポールに移住したんですが…」
男性が宝くじに当たってからの人生を語り始める。進士にとっては少しでも時間が稼げる流れとなり、少し安心して、その話に耳を傾けていく。
男性が話し始めて一時間が経過した。
「それでね、人間っていうのはやっぱり働いてナンボだと思ったわけですよ。ずっとリゾート地で過ごすってとても良いものだと、普通は思うじゃないですか?でもね…」
男性の話は依然として止まる気配がない。
そして、依然として正樹が現れる気配もない。
男性が話し始めて二時間が経過した。
「いやあ、やっぱりね、酒のアテには鮭とばですよ。そういえば福井の酒蔵で造ってるお酒を、あの総理大臣が大好きだそうですよ。酒の…」
男性の話は案の定と言うべきか、とんでもない方向へと脱線している。既に宝くじの「た」の字すら出てきていない。
進士はもちろんイライラしている。これまでわずかな遅刻はあったものの、ここまで酷かったことはない。
男性が話始めて、とうとう三時間となった。
「しょうしょう、結局、俺の友達ぎゃさ、壁をぶっ壊しちゃっちゃってさあ。もうそりゃあ、大変なことのになったんだなあ、ああの時は。あ、ああ、もうきょんな時間か」
男性は相当量のスコッチを体に流し込んでいた。最早、呂律は回っておらず、瞼は七割がた閉じている。
「終わった」
進士は、男性の話がようやく落ち着いたこと、そして、奇跡を起こす機会をこの日作れなかったことに対して、そう呟いた。顳顬には青筋が浮き上がっていたが、表情は優雅さを保ったまま、柔らかい口調で「ありがとうございました」と男性を見送った。
そこからさらに二時間後。
入り口のドアがとんでもない音を立てて開く。
真樹が息を切らしながら、額に汗を浮かべて、店に入ってくる。
「し、進士!お客様は?」
黙々とグラスを磨いていた進士は真樹の方を一瞥もせず、「帰られました」とだけ伝える。
「やってしまった」
その場に崩れ落ちる真樹に進士は質問を投げかける。
「ここまで、遅くなったのには何かしら重大な理由があるんですよね?」
淡々と訊くその姿に、真樹は逆に震え上がった。
「あ、違うんだ!本当だ!ここに来る途中でな、おばさあんが倒れてて!そのおばさあんを助けようと救急車を呼んだり、一緒に救急車に乗って病院に行ったりしてだな…」
「はあ?そんなこと本当に起こりますか?漫画じゃあるまいし」
「いや、本当なんだって!信じてくれよお」
「信じられるか、信じられないかで言えば、全く信じられません」
「しんしぃ〜」
と、店の入り口のドアがノックされる。
入ってきたのは中年の夫婦だった。
「あのお、真樹さんと言うのはどちらでしょうか?」
キョトンとしている真樹が「私ですが」と挙手する。
「はあ、あなたでしたか。私、先ほど助けていただいた者の息子です。あなたが居なければ母はどうなっていたことか…」
「あ、いえいえ、本当に大事にならず良かったです」と真樹は夫婦に向けて告げると、今度は進士の方に向き「なあ、だから言っただろう?本当だって」と得意げに言い放った。
夫婦が真樹に丁重な礼を言って店を出て行くと、真樹の態度は一転して余裕を持ったものになった。
「もう、信じてくれたって良かったじゃないか」
「そうは言われましても、日頃のオーナーの行動を見ていると、どうも言っていることが胡散臭くてですね」
「いやいや、俺も根は真面目なんだぞ?よっぽどじゃないと遅刻なんてしないさ」
「まあ、人助けならしょうがないですね。あの男性の方もまた後日、来られるような事をおっしゃっておりましたし」
ようやく進士の表情が緩んだ事に真樹は安堵したようだった。
と、再び、入り口のドアがノックされる。
入ってきたのは水色のワンピースというか、キャミソールというか、水商売風のドレスのようなものを着た女性だった。
「あらあ、まこっちゃぁーん。忘れ物届けにきたわよん」
真樹はその女を見て言葉を失っている一方で、水商売風の女は口を開き続ける。
「はい、これハンカチねえ。もう、次は一時間じゃなくてもっと長く居てよぉー。サービスするからさぁ。それじゃあ、またねえ」
女はそう言って、真樹の垂れ下がったままの右手にハンカチを握らせるとドアを開けて店外に出た。まさに、嵐のように現れ、嵐のように過ぎ去っていったのだった。
「今の、誰ですか?」
進士の目は光っていた(ように見えた)。
「水月ちゃん」
真樹の声は小さく、そして震えている。
「あ、いえ、名前じゃなくて、何処で何をしている人なのですか?という事です」
「下町のスナックで働いている健気な…」
「ほう」
「いや、良い子なんだよ、病気のお母さんのためにね…」
「ほう」
「信じてない?」
「はい」
「やっぱり?」
「はい」
進士は真樹の方へとゆっくりと歩を進めていく。
「オーナー?」
「なんでしょうか、進士さん」
「あなたは今ほどおばあさんを助けた後、スナックに行っていたのですか?」
「やだなあ、そんなの行くわけ…」
「行っていたのですか?」
「はい、すみましぇん」
進士の右拳が真樹の頬にめり込み、そのまま入り口横の壁まで真樹の身体を吹っ飛ばした。
「はい、今日はお店閉めますね。そして、オーナー、次やったら許しませんからね」
「はは、いや、もう、この段階で許してもらえていない気が…。あ、いや何でもないです」
「呆れた」
進士は店内のライトを最低限残して、消していった。
「さて、オーナー?とりあえず罰として、今日はお店のお掃除をお願いしますね。もちろん床も壁も天井も、すべてのグラスもピカピカにしてくださいね」
「はっ、でも、もう深夜の一時なんですけど?」
「明日の開店まではまだまだ時間がありますから」
「そんなぁ〜、しんしぃ〜!」
その日は夜の間中、BAR eternityからほのかな灯りが消える事は無かった。