儚き記憶 最終話
そして、時は再び現在へと舞い戻ってくる。
「進士、さっきの君が弾いていたのはなんという曲だったっけ?」
進士は「ショパンの夜想曲第2番ですね」と表情を変えずに答える。手は依然としてグラスを拭き続けている。
「そうそう、夜想曲だ。思い出した」
「驚きました。オーナーがクラシックに興味を持っていたことに」
「いや、殆ど知らない。この曲だけだ」
真樹はタバコを一本取り出しておもむろに火を点ける。あの時の記憶は本来ならば忘れてしまってもおかしくはない。だが不思議なことに、なつみとの記憶は未だ消えずに残っている。
進士はカクテルグラスを拭き終え、シェーカーと幾つかのリキュールを選び出してカウンターに置いた。
「オーナー、久しぶりにコニャックやウイスキーではなく、カクテルをお飲みになりませんか?」
「急にどうしたんだ?」
「いえ、今ふと、思いついたカクテルがあったので、お店で出せるものかどうかを評価していただこうかと」
進士はすでに真樹の返事を待つことなくカクテルを作り始めていた。シェーカーにリキュールを手早く注ぎ、なめらかな手つきで降り始める。
ロンググラスに注がれた液体は淡いピンク色だった。
進士はそこにソーダを注いでステアし、真樹の前に捧げる。
「ベースは何だ?」
「当ててみてください」
真樹がそっと口を付けると、柔らかな甘みと花のような香りが鼻腔を突き抜けていった。
「もしかして…日本酒か?」
進士は「その通りです」と微笑み、入れたリキュールについても解説し始めた。
「使用している桜のリキュールに合うベースはやはり、日本の酒ではないかと思いまして。商品として出すのであれば、ここに桜の花びらを一枚、浮かべてみてはどうでしょう」
「名前はどうする?」
「オーナーが先ほど呟いた言葉ではどうでしょうか?」
「呟いたっけ?」
「ええ。その言葉を頂きまして、『トランシエント・メモリー』としては?」
「どういう意味だ?」
「儚き記憶、という意味ですよ」
「なるほど」
真樹は、もう一度、そのカクテルに口をつけた。
まさにあの記憶を表したようなカクテルだった。
「分かった。これを新メニューとして採用しよう」
「ありがとうございます」
進士は丁重に頭を下げ、そう感謝の言葉を述べた。
真樹は目の前の桜色のカクテルをじっと見つめ、なつみのことを思い返す。
たとえ、儚き、短き記憶であっても、その記憶の中で一瞬は永遠となる。
「さあ、今日もオープンしようか」
「オーナー、頼みますから昨日みたいに可愛い子が来ても口説こうとするのはやめてくださいね」
「お客さんだぞ、するわけないだろう」
「いや、昨日口説いてましたから」
進士は握っていたフルーツナイフに光を反射させ、わざと真樹の顔に光線が当たるように調整した。
「お、落ち着けよ、なあ、分かったよ。もう口説かないから」
「本当ですか?」
「ああ、本当だ。男に二言はない」
真樹はキリッとした顔を意図的に作り、そう意思を示したが、進士はやはり、全く視線を向けずに「それなら良いのですが」とだけ言った。
カラン。
ドアチャイムが鳴る。
「いらっしゃいませ、eternityへようこそ」
入ってきたのはスラリとした長い足が特徴的な美女だった。
「お客様は独身でいらっしゃいますか?」
真樹の態度に呆れ果て、進士は「なつみさんが悲しみますよ」と告げた。
「なつみさんは俺の心の中に、永遠に生き続けている、記憶の恋人だから大丈夫なんだ」
「大丈夫の意味がさっぱり分かりません」
進士が美女の元へ近づき、誘導しようとすると、その美女は思い切り真樹の頬を叩いた。美女の目はその短時間だけ虚ろな様子で、叩いた直後に慌てて正気を取り戻したようだ。
「あ、あれ?すいません!私、何であなたの事叩いたんですかね?本当にすいません」
平謝りする美女に真樹は「だ、大丈夫ですよ」と答える。だが、その平手打ちは思ったよりも強烈であり、うっすら涙を浮かべていた。
「天罰ですよ」
進士が冷たい目で真樹に言い放つ。
「いや、天罰じゃない。確実に今、なつみさんが彼女に乗り移ってた」
真樹は身震いしながら目をこらすと、在りし日のように屈託なく笑う、なつみの姿がそこに見えているような気がした。