儚き記憶 2
彼女がeternityを訪れたのは五年前の春だ。
その日は、ちょうど花見シーズンと重なり、店内には真樹と進士だけ。これがeternityの日常であり、二人にとっては見慣れた風景だったが、外の賑やかさと比較すると、真樹は少しだけ寂しさを感じてもいた。
カラン、とドアチャイムがなる。
真樹は「あれ?今日は予約はなかったはずなのにな」と戸惑いながらも、カウンター席から立ち上がり来客を出迎えた。
ドアが開く。
真っ白なワンピース。黒く長い髪。二重の大きな瞳。そして、透明感のある白い肌。うーん、大和撫子、と真樹が唸ったのは言うまでもない。
身長は150センチ前後だろうか。小柄な女性が何処か申し訳なさそうにゆっくりと店内の様子を伺う。
「あの…」
その口調も何かに怯えているような、弱々しい話し方だった。
「いらっしゃいませ、BAR eternityへようこそ。お一人さまですね、こちらへ」
真樹が挨拶をしてカウンターに誘導すると、女性はぺこりと頭を下げる。
「あの、私…」
「どうなされましたか?まあ、とにかくこちらにお座りになってはどうでしょう?」
女性は戸惑いながら「お、お金がないんです」と告白する。
だが、心配はいらない。ここはそういう店なのだから。
「お嬢さん、大丈夫ですよ。ここには稀にそのような方がいらっしゃるのです」
「そ、そうなんですか?」
真樹が頷くと、その女性はやっとカウンターの中央にある一つの席へと近づき、腰を下ろした。
進士が軽く会釈をして、「いらっしゃいませ、ご注文は何になさいますか?」と促す。
女性は「それじゃあ、モヒートを頂けますか?」と答え、カクテルを作り始めた進士の動作をじっと眺めていた。
モヒートに欠かせない素材。それはミントだ。ラムにライムジュース、砂糖、そこにミントが加わることで、暑い南国に爽やかな涼風がさっと吹き抜けるような清涼感あるカクテルに仕上がる。
「このミントはオーナーが自家栽培しているものなんですよ」
進士が手を動かしながらそう説明すると女性は目を輝かせながら「オーナーさんってマメな方なんですね」と話すと進士は「いえ、ただの怠け者です。自分の興味のあることしかしませんから」と含み笑いを浮かべながら答えた。
「オーナーさんは何処にいるんですか?オーナーって言うくらいだからお金持ちなのかな?貿易会社の社長で世界を飛び回ってるとか、そんなイメージかな?」
進士は悲嘆に暮れたように頭を下げて謝罪した。
「お客様、申し訳ありません。実はうちのオーナーは会社社長でも不動産を所有する富豪でもアラブの石油王でもございません。残念ながら目の前にいる髭面の男性こそがオーナーなのでございます。重ねてお詫び申し上げます」
女性は少し面食らったようでそれまでとは少し雰囲気の違う尊敬を含んだような眼差しを真樹に向けた。真木は進士の言葉に必死に反論する。
「こらっ!誰が髭面だ!ダンディと言え、ダンディと」
女性はそのやり取りに笑いながらも「こんなに若いのにオーナーさんって凄いですね」と感心しているようだった。
「お待たせしました、モヒートでございます」
微かに甘い香りと、ミントの爽快な香りが合わさったそのカクテルは彼女が期待していた以上のものだったようだ。彼女はゆっくりと口をつけると、そのファーストインプレッションで動きが止まってしまった。
このような光景は、eternityではそれほど珍しくない。進士というバーテンダーが作るカクテルはそれほどまでに完璧であり、人の思考を一瞬、止めさせてしまうほどの感動を与える。
真樹は様子を伺いながら、彼女の意識が戻ってきたところでそれとなく声をかける。
「あの、一つお伺いしたいのですが…」
ハッとした女性は、カクテルグラスを手にしたまま真木の方を向く。
「はい、なんでしょうか?」
「貴方はもしかして、何か困ったことがあるのではないですか?だからこそ、こちらに導かれたのでは?」
女性は「うーん」と唸りながらある事実を打ち明けた。
「私、実は記憶がないんです。全く真っ白です」
「なるほど」と腕組みをして考え込んだ真木は「ご自身のお名前は覚えてらっしゃいますか?」とも訊く。
「何となくです。確証はないんですが、おそらく三鷹なつみ…という名前ではないかと…」
真樹はそれを席上の紙ナプキンに書き込み、何やらカウンター席の奥にあるドアからバックヤードへと入っていった。