儚き記憶 1
本作品「BAR eternityの奇跡」のスピンオフ作品です。
肩肘張らずに、ゆるい感じでお読みください。
音が一つ鳴った。
そこからは堰を切ったように音階が溢れ出し、曲となって紡がれていく。手の動きは、その奏でられるピアノの音と呼応するような滑らかさで、正確に鍵盤を叩く。
その手の主は、自身の世界に入り込んでいるのだろう。店内の様子を一切気にすることなく、ただ目の前にある白と黒の羅列にのみ神経を集中させていた。
凛とした、心地よい音が店内に響き渡る。
この「BAR eternity」のオーナーである真樹真はグラスを片手にカウンター席の隅の一席に腰掛け、そっと目を閉じた。
「この曲、懐かしいよなあ」
真樹がふと呟く。
脳を過ぎったのはある一人の女性。
もちろん、容姿も芸能人レベルに抜群なのだが、なにより透き通るような白い肌がイメージとして鮮烈に残っている。
真樹が記憶の海にどっぷりと浸かっていると、演奏はすでに終わっており、伴奏者がつかつかと真木の元に歩み寄ってくる。
「オーナー、鼻の下伸びてますよ」
進士はるかは女性のバーテンダーで、オープン当初からこの店で働いている。腕は間違いなく一流、その味覚も一流、茶道や華道、弓道などあらゆるものに精通しており、今しがた繰り広げられたプロ顔負けの演奏もその特技の一つだ。
「何い?伸びてるわけないだろう?俺はだな、若き日の純粋な人を愛するという心をだな…」と真樹が言った時にはもう、進士はすでにカウンターの中へと移動し、いつものポジションでカクテルグラスを拭いていた。
「ん?どうかされました?」
進士は真樹の言葉など一切耳に入っていないようで、真顔でそう聞き返した。
「いや…なんでもない」
真樹は一つ溜め息を吐いて、再びカウンターのロックグラスと向き合った。
記憶とは人間に与えられた大きな力の一つだろう。
実際に体験した出来事は「時間」というものに流され、本来であれば消え去っていくものである。
ただ、記憶が備わっていたことにより、その出来事を脳内で、時間の制約なしに、何度でも繰り返し再現することができる。
もちろん、地球上の他の生物にも記憶能力は持っているが、それはネズミが一度引っかかった毒入りの餌を次は食べないようにする、というような危機回避行動に繋がる。もちろん、その活用方法は「自己種保存」のためだ。
決して、過去の様々な出来事に思いを馳せ、当時の心境を振り返ったりはしない。
それをできる、いや、やってしまうのは人間だからであろう。
人生のドラマとは、記憶から生み出されるものだ。
真樹はロックグラスの中身を見つめながら呟く。
「儚き記憶だな」
屋内であるにもかかわらず、店内にそっと、優しげな風が一つ通り過ぎて行った気がした。