なんだ、来ていたのか
この作品では、主に十七世紀、三十年戦争時の神聖ローマ帝国や東欧の地名を拝借していますが、位置関係は出鱈目なので調べて突き合せないでいただければ幸いです。
追伸、プロットのミスがありまして……少し、書き足しました。二回も同じ文章も読ませてしまいすみません。
司教府・地下牢・少し前―――
「まさか、ブリギッテの部下がマリーシア率いるファーヴニル隊を退けるとは思わなんだな……これは思いの外、上手くいきそうじゃな」
そう呟いたのは司祭長、グレゴール・フォン・アーベントロート。リューネブルク市を中心としたザクセン司教区、文官の長である。
バルムンク頭領、リヒテルはこの老人の事を豚と称した。
バルムンクとスヴァルト、敵対する双方と好を通じ、内側では弱者を虐げ、部下すら足蹴にしてまで権力を求めた。豚という表現など控えめに過ぎるのだ。
リヒテルはこの醜悪きわまる司祭長を投獄した。罪状はスヴァルトと内通したこと。しかし証拠がない。
取り調べを受けても、グレゴールは一切をしゃべらなかった。実の所、証拠がない彼を取り調べること自体が違法なのだ。それを知っていた彼はのらりくらりと時間を引き延ばして延命を図る。
全てを白状すれば減刑すると、リヒテルから持ち掛けられたが、それにも乗らない。そもそもグレゴールはリヒテルを信用していない。
実の姉ですら躊躇なく殺したあの頭領は白状した自分を殺すに決まっている。そう考えればもはや無罪放免すら信じきれない。リヒテルが破滅するまでは安心できないのだ。
「司祭長……ここに囚われてもう一週間以上経ちます。お願いしますよ、酒か女、どちらかをよこすように頼んでいただけますか。もう、耐え切れません」
「まあ、待つのじゃ。今に必ず……」
故にグレゴール司祭長はありとあらゆる手段でリヒテルを失脚させようと画策する。全て自分がやるのだ。部下は、身内は信用できない。グレゴール含めて、味方は全て唾棄すべき腐敗神官であるからだ。
「我慢しきれません。なんで俺ら神官があんな盗賊風情にこんな目に合わせられなくてはいけないのですか。確かに奴隷らを殴ったり、犯したりしましたが、俺らは雇っているんだ。雇用主に従うのが当然じゃないですか」
「今はおとなしくておけ。騒げば、監視役が神官兵からファーヴニルに代わるぞ。また殴られたくないじゃろう」
「ひ、それはいやだぁぁ」
つい先日まで牢の兵士はリヒテルに連なるファーヴニル兵らが務めていた。グレゴールを筆頭とする腐敗神官を蔑んでいた彼らの対応は非常に粗っぽく、口答えには拳が、平手打ちが……特に素行が悪い者は骨を折られた。
それらも、彼ら腐敗神官らが少女奴隷らに行った暴行に比べれば撫でられたようなものである。
しかし、腐敗神官らは他人の痛みにひどく鈍感な反面、自分の痛みにはことさら敏感であった。彼らには自分達を暴行したファーヴニルらを悪魔のように見えていたのだ。
そんな〈彼らにとっての〉地獄はつい先日終わりを告げた。グレゴールの策略によって衛兵が知古の神官兵に代わったのだ。
外から来たファーヴニルらと違い、同じ司教府にて甘い汁を吸っていた者同士である。
一歩間違えば牢に入る者と監視する者が入れ替わっていた、とあっては同情心も働く、腐敗神官らは一応の礼儀を遇して扱われるようになった。
だが、そんな幸運すらも腐敗神官は喜ぶことができない。欲望に脳を犯された彼らは全てを手に入れられなければ満足できないのだ。
「いやです。いやです。助けてください、司祭長。俺は、俺は贅沢を止めたくないよぉ」
赤子のような甲高い声を挙げてグレゴールの副官だった男が駄々をこねる。彼はその職から苛酷な取り調べを受けたが何もしゃべらなかった。
マリーシアらが司教府に踏み込んできた時に真っ先にグレゴール司祭長に責任を転嫁し、切り抜けようとした男でもある。そういう男だとは見抜かれてもいた。故に何も重要な情報は知らされていなかったのだ。
彼が職務中にしたことはただ、グレゴールが書いた手紙を言われた場所へ送るだけ。それだけである。
「安心せい……」
しかしこの裏切り者に対し、グレゴールは何の怒りも感じてはいなかった。グレゴール自身、他者を犠牲にして利益を得てきた人間である。用がなくなれば見放されるのは当然だと理解していた。
それを防ぐには失敗しなければいい。さらに言えば、自分以外が失敗するようにしむければいい。そうすれば何もしなかった自分が相対的に頂点の位置に付けるのだ。
「来ているか……アマーリア」
「はい、こちらに」
今となってはグレゴール唯一の手駒となった元少女奴隷、現侍祭であるアマーリア・オルロフがやってきた。
小麦色の肌に、顔に縦一直線の傷が走っているのが特徴の彼女はグレゴールと敵同士であるヴァンより神官の職を授けてもらい、そして今、グレゴールのためにその職権を乱用している。つまりは見事に恩を仇で返したのだ。
「この三十二通の手紙を指定の場所に送るのじゃ」
「承りました」
その手紙の内容を見れば、リヒテルは裏切りに怒り、同時に司祭長を見直すことだろう。そこにあったのはまさしく謀略の絶技であった。
グレゴールはまずリヒテルの招集に応じたファーヴニルの中から故郷に家族を残している人間をピックアップした。
さらにその中から特定地域出身者だけに絞る。特定地域とはバルムンクと幾度となく剣を交えたムラヴィヨフ伯爵家軍の本拠地、プファルツ伯爵領周辺の事だ。
プファルツ伯爵を治めているのはバルムンクとの戦いで戦死したミハエル伯爵の遺児だが、まだ幼く十にも満たない。
アールヴ人ならば判断力に乏しい幼子を責任者にしたりはしないのだが、スヴァルト人は貴族主義。家柄だけで経験も能力もない人間が長となることは珍しくない。
都合のいいことにその子供を補佐する騎士セルゲイは先代の仇を討つために領地を離れている。
グレゴールとしては死んだ人間のことなど忘れて今生きる人間のことを考えた方がいいと思うのだが、兎にも角にも手玉に取りやすい子供が長となっているのだ。
そこに周辺住民がバルムンクに寝返り、攻め込もうとしていると密告する。実際にはそうではないかもしれないが、そう思わせるように今度は周辺住民に対し、ムラヴィヨフ家が難民を受け入れてくれるとデマを流す。
ムラヴィヨフ家の騎士、セルゲイが難民を保護したのは事実だし、折しも隣領であるゴルドゥノーフ家は農民一揆を鎮圧し、その過程で殺されてはたまらないと、逃散農民が大量に発生している。
彼らは藁にもすがる思いでムラヴィヨフ家の所領になだれ込んでくるだろう。そうなれば治安は確実に悪化し、少なくとも同家は軍を派遣して原因を探るくらいはする。
その過程で周辺に住むファーヴニルの家族は巻き添えを食うかもしれないし、殺されるかもしれない。故郷に家族を残した者は平常ではいられなくなる。
そこでグレゴールが登場するのだ。彼がスヴァルトと繋がっているのは公然の秘密、しかし確固たる証拠を挙げられないということはグレゴールがどのくらいスヴァルトに対し、影響力があるか分からないということだ。
その点を突く、自分がスヴァルトの施政に口出しできる大人物だ錯覚させるのだ。
これは十年以上前、法王の座を狙ったベルンハルト枢機卿が取った手段と同じだ。曰く、スヴァルトをけしかけられたくなければ、わしの言うことを聞け、わしならば彼らを止められる。
結果、家族を守りたいファーヴニルらはグレゴールに従わざるえない。
最終的な目的は、ファーヴニルらが集まった後に行われる、ファーヴニルらをまとめる会議……参加する、懐柔したファーヴニルらを利用して会議自体をぶち壊しにする。
ファーヴニルらをまとめられなかったバルムンクは、〈失敗した〉バルムンクの信頼は地に堕ち、長たるリヒテルは責任を追及され、引きずり落とされる。
しかし外様ばかりのファーヴニルらに長を代行できる者がいるはずもなく、結局は司祭長グレゴールが、何もしなかったグレゴールが頂点に立つのだ。
十年前、ベルンハルト枢機卿は同様の方法で対抗馬たる、自身よりも有望だったヨーゼフ大司教を失脚させ、自らが法王の座に就こう……として何者かに暗殺された。
同様の方法を取る以上、結果も同じになる可能性が高い。しかしグレゴールは、自分はしくじらないと信じていた。
ベルンハルトは恐らく、身内に殺された。だが、グレゴールの周囲は肥え太った従順な腐敗神官、危ないと言えばブリギッテ竜司祭長だが、彼女は同僚を殺す覚悟がある女ではない。最低でも中立を、基本は日和見主義者なのだ。
「所詮はリヒテルなど物のわからぬ子供じゃ……わしの手にかかれば」
「おっしゃる通りでございます」
グレゴールの大言壮語に追従するアマーリア。しかし、グレゴールはその追従に少しも心を動かされなかった。
転機はやはりアーデルハイド暗殺の時に顔を斬られた時か、それ以降、アマーリアは可愛げがなくなった。泣くことも、怒ることも、なくなり、司祭長を畏れることもなくなった。そして非常に危うくなったのだ。
理想も欲望もなく、未来への希望もなく、ただ主に仕える。そんな理想的な奴隷、これ程扱いに困るものはそう多くはない。
いつ何時、正気を失って切りかかってくるか分からない。欲望とは正気を支える柱なのだ。グレゴールはヴァンについても同様の評価を下したのだが、何もない人間ほど恐ろしいものはない。そして悲しいものも。
「後は、ヨーゼフ先輩を抑えれば、完璧じゃな。なあに、マグデブルク大学の頃からあの人の性格は熟知しておる。心配することは何もない」
全てが終わったら、ヴァンとアマーリアを謀殺しよう……そう考えながらグレゴールは自らの策の成功を言祝いだ。
*****
リューネブルク市・高級住宅街―――
少女はただ、それまでの生活が守られればそれで良かった。優しい母親、堅苦しいが頼もしい兄、几帳面だが、人付き合いが苦手な幼馴染。
父親の記憶はあまりない。母は素晴らしい人だったと言うが、物心がつくかどうかという時に死別した父親について彼女は感慨を抱かない。
そんな生活が崩れたのは数年前、スヴァルトと名乗る一族が故郷であるリューネブルク市の統治者となり、いろいろと難癖をつけ始めた。
金を出せ、頭を下げろ、終いにはここから出ていけと脅迫してきた。
家族は二つの意見で分かれた。母親はそれでも服従の道を選び、兄は犠牲が出てもいいから蜂起すべきと主張した。
バルムンクの大勢は蜂起に賛成した。
しかし彼女は実の所、どちらでも良かったのだ。ただ今までの生活が戻ってくれば……それが難しければ、少しくらいの不自由は我慢できる。
蜂起するにしても、少し痛い目に合わせて譲歩させればそれで構わなかったし、兄の言う、アールヴ人の解放、などと言った難しいことは行うつもりはなかった。
時が過ぎ、蜂起は成功し、スヴァルトはリューネブルク市から追い払われた。それでとりあえず目的は達した。
後はただ母や兄の言うことに従っていればいい。我儘を言うつもりはない、娘として、妹として、二人に恥をかかせない様な振る舞いをすれば……
そして気づいたときには母親が死んでいた。何が起こったのか、何をすればその悲劇を回避できたのか。
理解できたのは、母を殺したのは兄であり、自分は母親を殺した兄に従うことができないと決断した。
母を殺した兄に従えず、それでも血を分けた兄を憎むこともできない。
復讐、怒り、憎悪、誰にも向けられなかった情動は心の奥底で閉じ込められて腐り果て、彼女を内側から犯していく。
そして錆びついた鎖のように彼女は動けなくなった。
*****
「定期検診に参りました……」
「し、死術士!!」
「そう、死術士ツェツィーリエですよ」
緊張に体を強張らせるファーヴニルの衛兵に、人の悪い笑みを浮かべながらヨタヨタと死術士ツェツィーリエが道を歩いて来る。
ここは主に司教府に努める中、上位神官が住む高級住宅街の最奥、グレゴール・フォン・アーベントロート司祭長の屋敷である。
今、そこはバルムンクに接収され、頭領リヒテルの妹分(正確には姪)であるテレーゼの居住地になっていた。
母親であるアーデルハイドの死後、廃人となって自衛もままならなくなった彼女のためには厳重な警護が必要だし、それとは別にこの屋敷を使うことは本来の家主である老司祭長を、地下牢から出さないというリヒテルの決意でもあった。
ここを行き来できるのはリヒテルが選別した女性の兵士と、医者であるツェツィーリエだけである。
ただし、かの医者は同時に人を人と思わぬ邪悪な死術士であり、警護の兵士はリヒテルに対し、再三にわたって医者を代えるように懇願しているが、聞き入れられない。
聞き入れない理由は、彼女が死術の研究のために資金や施設を欲し、それをリヒテルが叶えている以上、裏切られる可能性がないということ、そして何より、守られているテレーゼが彼女を指定したのだ。
テレーゼはもう知古の人間以外、新しい人間と新たに関係を築く気力を喪失していた。
「テレーゼお嬢様に何かしたら、タダじゃおかないわよ」
「分かっているよ、僕を信用して……リヒテル副頭領の命令だよ」
「頭領だ……間違えるな!!」
「はいはい、僕にとってはどちらでもいいよ、研究資金を貰えればね」
「貴様……おい、その子供はどうした?」
剣呑な空気が流れた後、衛兵は見過ごせないものを見つける。それはツェツィーリエの後をついていく幼い混血の少女であった。
その幼女について聞かれた死術士は嬉々として彼女の正体を話す。衛兵はその笑顔になぜか爬虫類を連想した。
「影術士……の成功品だよ。影に心まで飲まれたからどんな命令でも嫌な顔せずに聞く。その力はアーデルハイドに殺された試作品の三倍くらい。まあ、寿命が半月ほどしかないから二、三回しか使えないのが欠点だけど、もっと研究が進めば安く、大量に作れるから
問題ないね」
「それは彼女が望んだのか?」
「知らなかったと思うよ。影術士になれば金貨六枚とか言って、研究室に忍び込んできたから……その覚悟に敬意を表して実験に使ったんだ」
「このことを……無関係な人間を研究に使っていいとリヒテル様は許可したのか?」
「うん、いちいち許可なんて取らないよ……面倒くさい」
「そうか、そうだな!!」
衛兵はその瞬間、剣を抜いた。彼女の倫理が限界に達したのだ。この邪悪な死術士を誅するべし。
彼女がスヴァルトとの決戦で必要な人材だということは分かっている。だがそれがなんだと言うのか。それが幼い少女を犠牲にしても許されると言うのか。我はファーヴニル。人々を守る侠客だ。邪悪、滅ぶべし……
「しねぇぇぇ!!」
「おやおや、これだからファーヴニルは……じゃあ、お願いするよ」
「はい……」
ファーヴニルが今まさに、剣でツェツィーリエの身体を貫こうとした時、突然、地面が黒く染まり、真っ黒い何かが飛び出してきた。
でっぷりと太った人型、背中には小さな羽のようなものがある。グスタフの死術士、シャルロッテに遅れること数日、ツェツィーリエもまた影の怪物を使役できるようになった。
「う、うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「冷たいだろう、体温とともに生命力が奪われているんだ。三十秒で全身が腐り、一分でミイラになる。さあ、一緒に数を数えよう、一、二、三……」
「一、二、三……」
愉しげに数を数えるツェツィーリエと、それに合わせる影術士の幼女。そしてなぜか周囲で野犬の遠吠えがする。それは徐々に近づき、しかし一定の範囲までは近づいては来ない。
「……この兵士を餌か何かと勘違いしているのかな。まあいいや、骨くらいは残るだろうし、それをあげよう。ほら、僕は動物好きだし、まあ、動物は僕が嫌いみたいだけど……」
「っ……!!」
その脅威は飛んでやってきた。影術士は気づいたが、ツェツィーリエは察知できなかった。投げられた剣は屋敷のドアを貫通し、背中からツェツィーリエを串刺しにする。
だが、彼女は死なない。それどころか、血すら流れなかった。
「が、ぐふ……ごめんね、テレーゼお嬢様……うるさかった? ああ、いいよ、屋敷にいるお嬢様は敵じゃない。体が貫通したくらい……大した怪我じゃないさ」
剣は屋敷の中から飛んできた。影術士は主を害した敵を仕留めるべく、衛兵から影を解放し、屋敷内に突入させようとする。
それをツェツィーリエは手で制止した。
「なるほど、廃人と化しても、外敵には反応するのか……よしよし。つまりはまだ戦えるんだな」
ずりずりと剣を体から引き抜くツェツィーリエ、まるでナイフで肉を切り分けるような手軽さ。手品か何か、そうでなければあまりにも現実離れした光景であった。
それを影が離れたため生き延びた、生命力を奪われてガリガリに痩せた衛兵がぼんやりと見つめる。彼女はしかし、ツェツィーリエと目が合うと金切り声を挙げて逃げていった。
もう、正気には戻れまい……邪悪な死術士はなんとなくそう思った。
「さて、今回は荒療治と行こうか……でないと、明日の公会議にテレーゼお嬢様を出せない」
*****
事の発端はリヒテルが妹分のテレーゼを切り捨てたことにあった。母親を失ったとはいえ、意気消沈して無気力となった女に用はない。
たかが母親を殺されてくらいで……その母親を殺したリヒテルはそう言った。
もはやテレーゼはただのお嬢様ではない、西北地方の一大勢力となったバルムンク……その頭領であるリヒテル唯一の血縁、それは容易に弱点と成り得る。廃人と化した今の状態ならば尚更だ。
故にリヒテルはそれを逆手に取り、わざと弱点であるテレーゼを晒すことで内在する敵対者を炙り出すことにした。いわゆる毒エサだ。
エサに噛みついた者に死をもたらす。無論、エサであるテレーゼとて無事では済まない。だからこその切り捨て、だがリヒテルは計算違いをしていた。
現実主義者が出し抜かれる時、概ね彼らはこう言う……まさかそんな馬鹿なことをするとは思わなかった、と……
襲撃者はよりによって味方に引き入れた死術士ツェツィーリエであった。アーデルハイドの時と同じく、研究費用欲しさに賄賂で動いたのである。
いくら次の決戦にて彼女の死術が必要とはいえ、頭領の妹分に危害を加えればただでは済まない。それくらいは理解していた。しかし彼女はこうも思っていた。
今のリヒテルならば身内に、否、身内であるからこそ冷たく接するであろう、と。テレーゼを例え殺してしまったとしても自分は見逃される。最低でも決戦が終わるまでは、そう根拠のない自信に溢れていた。
賄賂を贈った者は、誘拐せよ、と命令したのだが、そんなことはもう忘れていた。今のツェツィーリエの頭にあるのはかの蒼き姫、テレーゼを実験に使いたいという欲望。それだけである。
「テレーゼお嬢様……手術の時間です」
誰に聞かれている訳でもないのに独り言をつぶやきながら屋敷に入っていくツェツィーリエ。
傍らの幼女の影術士は無言のまま、先ほどのように剣が飛んでこないか神経をとがらせている。
だが、玄関口で衛兵と交戦していた時には反応したテレーゼは、屋敷内に入っても何の動きも見せない。
テレーゼはまるで動物のように気配に敏感だ。部屋一つ隔てても、敵対者を察知できるくらい鋭い直感を持つ彼女にしては奇妙である。
もしかすると、何か別な条件があるのか……研究者としての顔がもたげ始めた彼女は考え込みながらもテレーゼの私室の前に来た。やはり何も起こらない。
「先に……」
「いいよ、僕が行くさ……串刺しにされたら君は死ぬかもしれない。でも僕は死なない。タフな方が危険な先陣を切るよ」
ツェツィーリエはゆっくりとドアを開ける。部屋の中ではテレーゼがベッドの上で蹲っていた。近くに武器はない。ただ、抜き放たれた鞘だけが床に転がっている。先ほど投げたのはあの鞘に収まっていた剣か……。
「意外に奇麗だね。リヒテルの私室はゴミだらけだったけど……ふうむ、無駄遣いが多いテレーゼお嬢様にしては物が少ない、まさか、お小遣いの大半を食べ物に費やしたんじゃ……なんかありそうで怖いな」
再び独り言を繰り返しながらテレーゼの周りを回るツェツィーリエ、傍目には怪しげな儀式でもしているようだったが、本人としてはそれなりの理屈があった。
これだけ話しかけても、近づいてもテレーゼは何の反応も見せない。つまりは先ほどの剣は偶然であり、基本的にはテレーゼは何もしないのだ。例え、自分に危険が迫っても……。
「そうと分かれば、何に気兼ねすることもない。さあ、実験をしようか……テレーゼお嬢様、君もまた母親と同じく不死兵にしてあげるよ。今度は耐久性を上げ、トネリコの枝でも即死しないように……」
その時、ツェツィーリエはようやく首筋の冷たい感触に気付いた。傍らの影術士の反応がない。いつの間にか、この静かな部屋に四人目の存在が生じていた。
「なんだ……来ていたのか」
ツェツィーリエは親しげに彼に、背後から剣を突きつけてくる彼にゆっくりと会釈する。




