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深霧のザーイエッツ  作者: 山崎 樹
最終章・その手を一つに
111/121

剣に生き……・三

リューネブルク市近郊・エルベ河上流―――

 

 漆黒の炎にまとわりつかれ、一隻のガレー船が最期を迎えていた。

 船の名はクリームヒルト。

 バルムンクにあって、水軍の旗船として数多の戦場を駆け抜けた戦乙女である。

 ハノーヴァーで、ブライテンフェルトで、そしてこのリューネブルクでも宿敵スヴァルトの攻勢から幾度となく神官兵達を守ってきた。

 栄光なるその軍船が沈没したことこの瞬間、バルムンクの水軍はこの世から消滅したのだ。


 *****


クリームヒルト沈没・少し前―――


 セルゲイ率いる法王軍分隊数千にバルムンクの本陣が包囲されつつあった頃、他の戦線でも動きがあった。


「しょせんは臆病なアールヴ人なのか……お前はあの怪物から仲間を救おうとは思わないのか」


 唾でも吐くように侮蔑の視線を隠そうともしないスヴァルト貴族。

 対峙し、蔑まれ続けているのはバルムンク水軍の長、ブリギッテ竜司祭長だった。

 彼女は本隊が同市に上陸する時間を稼ぐために少数での殿を命じられた。

 しかし彼女は時間を稼ぐどころか、敵であるスヴァルト貴族もびっくりするほどの早さで降伏したのだ。

 交戦に入るか否かの時に、早々と白旗を挙げた。

 そのあまりにも潔い対応に敵軍の長・スヴァルト貴族は罠ではないかと疑い、それによって時間を浪費してしまったのだから、ブリギッテ竜司祭長に科せられた、<時間を稼ぐ>と言う役目は果たされたのだが、断腸の思いで殿を命じたヨーゼフ大司教は微妙な表情を浮かべることしきりである。


「いや、あの……さすがにあんな怪物と戦うのは遠慮したいって言うか、もう義務は果たしたと思うのでそろそろ休暇が欲しいって言うか」

「自分一人の保身を図ろうと言うのか。何ということだ、貴様それでも武人か、この卑劣漢が!!」


 スヴァルト貴族は、彼女に一時休戦を提案してきたのだ。

 今は矛を収めて協力し、共に竜に襲われている各々の友軍を救出しようではないか……言っていることはまあ、正しい。

 だが正直な所、ブリギッテ竜司祭長の本音は「冗談ではない」であった。


「……」


 ふとブリギッテが街を見ると山のように巨大な竜が地響きを上げて司教府へ進軍しているのが分かる。

 空気の振動が城壁を超えて、沖にまで届いているのだ。

 あんなの近づいただけで危険だ、ミンチか薄切りハムか……フリカッセ(シチュー)か、どれも選びたくない末路である。


「……ではこうしよう、本来ならば処刑するつもりであったが協力すると言うのならばそれを取りやめにして、法王軍に引き渡してやろう、それならばどうだ?」

「……えっと」

「……それでも行かぬと言うのか、この、この、臆病なネズミ女が!!」


 どうしても友軍の救出に向かわないブリギッテに怒りの臨界を迎えたのか貴族が泡を吐いて彼女をののしる。

 が、それでも無理なものは無理だし、したくないことはしたくないのだ。

 これが例えばヴァンならばどうせ処刑されるくらいならばと喜んで死地へ赴いたであろうが、ブリギッテはヴァンではない。

 むしろヴァンの方が学習するべきであった。 

 この世には、〈死んだ方がマシ〉といった物が多々ある。


「私が帰ってきたらネズミに相応しく、むごたらしい殺し方をしてやる!!」

「い、いってらっしゃい……」


 いきり立つスヴァルト貴族は主要な船団をまとめてリューネブルク市に向かっていった。

 残されたのは法王軍の水兵の何割か、そして縄で拘束されたブリギッテらバルムンクの神官兵達である。


(もうどうにでもなれや)


 捨て鉢となったブリギッテだが、さすがに心で呟いた愚痴は表に出さなかった。


 *****


リューネブルク市・市街地―――


「少し……気絶していたのか」


 辺りに満ちるのは鼻を突くような刺激臭。

 物が焼ける、その中には肉が焼ける匂いも混じっている、舞い散る粉塵はひどく乾燥していて、喉に貼りつくようでひどく不快であった。

 それは生命活動に支障が生じるほどの苦痛、リヒテル・ヴォルテールが覚醒して感じたのはそれであった。


(まだ……視覚以外は侵され切ってはいないらしい、安心した)


 リヒテルは死術の毒に侵されている、それは人を幽世の住人へと変える深刻なもので、もはやリヒテルは視覚を失っている。

 見えないのではない、見える物が変わってくるのだ。

 世界は泥の中に沈んでいる、街も建物も、植物も動物も、そして人でさえ泥の塊としか認識できないのだ。

 リヒテルは世界から見放されつつあった、いずれ悪夢は全ての感覚を蝕み、彼を狂人へ変えていくだろう。


「ヴァンはどこ……」


 自分が壊れていく恐怖に耐え続け、そしてその嘆きをおくびにも出さなかったリヒテル、その首筋に剣が突きつけられた。

 泥の塊は誰であるのか、しわがれたその声はもはや誰なのか判別できない、聴覚も侵されつつある……がどういう訳か、その声がわずかながら鮮明になっていく。

 だからリヒテルはしばしの後、声の主を特定することができた。


「テレーゼか」


 リヒテルに剣を突きつけたのは彼の義妹、正確には姪だが、兎にも角にも家族であるテレーゼであった。

 しかし正確には家族であった称するべきであろう、ヴァンにとっては未だに戦友であり、幼馴染である彼女はリヒテルが組織のためと称し、彼女の母親を殺すにいたって決別し、今や金で雇われる傭兵にも劣る忠誠しか持ち合わせてはいなかった。

 彼女が戦うのは断じてリヒテルのためではない。


「ヴァンは、私の幼馴染はどこにいるの……」

「さてな、先ほどの業火で逸れてしまった、死んでいなければいいが……」

「くっ!!」


 身もふたもない言い草がテレーゼの勘に触ったのか、リヒテルの首筋に突き付けられた剣が食いこむ。

 頸動脈のすぐそば、少しでも刃をずらせば大出血を起こすだろう、その正確無比な動き、さすがはテレーゼと言うべきか。

 だが悲しいかな、脅しをかける相手を彼女は間違えた、死術の毒、そしてそれを緩和するためにアヘン漬けとなったリヒテルに当たり前の脅迫は通用しないのだ。


「えっ、あれ……」

「鈍いな」


 テレーゼの剣が、その刃が首筋に刺さっているにも関わらず放つ剣舞、回るように動くカトラスが今度はテレーゼの喉に突き付けられた。

 テレーゼもその動きを察知していたのだが、まずは首筋に突き付けられた剣を放すために自身の右腕を狙うだろうと予測していたせいで、出遅れてしまった。

 死を覚悟した人間は、生を諦めていない人間よりも……強い。

 そしてテレーゼはそうとは思ってはいなかったのだ。

 脅迫された者が入れ替わる、優位を占めるはリヒテルとなった。


「お前が私を憎むのは分かる、それだけのことを私はしてきた」

「……」

「だが今は目前の敵へ対処するのが筋と言うものだ、違うか?」


 占有者の言葉が響き渡る。それは確かに正論であった、間違ってはいない。

 彼らの敵は竜と化したグスタフであり、守るべきは司教府で震えている住民たちであった。

 テレーゼの行いは軽率で、先を見据えた物でもなく、感情的過ぎた、リヒテルは正しいことを言っている。

 だが帰ってきた答えはリヒテルと予想とは違っていた。

 彼は……全面的な賛同が得られると信じていた。


「そうやって……そうやって正しいことを武器に好き勝手してきたのですわね」

「テレーゼ……?」

「お母様を犠牲にしたのに、それを私は我慢してきたのに……こんなになっても自分が間違っていたと認められませんの!!」

「テレーゼ!!」


 彼女は泣いていた……それは正しく絶望の涙。

 期待していた……母親を殺されてもなお、義兄がすることに希望を見出していた少女、その死は無駄ではなかった、そう信じて憎しみに歯止めをかけていた。

 しかし、その信頼をリヒテルは軍靴で踏みにじった、事態は悪化し、彼は知らず、さらなる犠牲を求めたのだ。

 にもかかわらず踏みにじった男はそれでもなお、なぜ義妹が悲しむのか理解できてはいなかったのだ。

 聖戦に全てを捧げた男は犠牲がなんであるか感じる器官を腐らせていた。


「今度はヴァンまで奪うつもりですか……ヴァンは変わらなかった、ヴァンが変ろうとするたびに貴方が正しさで抑えつけてきたから!!」

「テレーゼ……お前は」


 錯乱している……その言葉が口から漏れることはなかった。

 なぜだかリヒテル自身にも分からない……ただテレーゼの母、リヒテルにとって姉であるアーデルハイドの顔がちらつく。

 なぜ、そんな目つきで私を見るのか……貴方のやり方ではバルムンクという組織はスヴァルトに蹂躙され、アールヴ人は奴隷となっていたであろう……私は彼らの自由と平等の精神を守るために、守るために。


「ヴァン……そこにいましたの!!」

「……!!」


 気を散らしていたためか、発見がテレーゼよりも遅れた。

 集中すると、確かにすぐそばにヴァンが倒れていた。

 わずかに瓦礫が上に乗っているが目測だが圧死するほどの重量ではない、またかすかに呼吸音が聞こえる、ヴァンはまだ……死んではいない。

 まだ……。


「大丈夫、痛くない?」


 必死にヴァンを救出するテレーゼの姿が滑稽であった。

 死術の毒に侵されたリヒテルには普通の人間であるテレーゼは泥の塊にしか見えない、ただし死術士であり、死術の毒によって体を変化させているヴァンは普通の人間に見える。

 どうやら、死術に侵された者は<仲間>として認識されるらしい。


「……?」


 テレーゼ、否、泥の塊だったそれが陽炎のように揺らめき、輪郭が整っていく。

 最初に見えたのは、天上を総べる空のような蒼。


(ああ……そうか)


 リヒテルは理解する。


「テレーゼ……お前もこちら側に来たのか」


 *****


 索敵開始……該当する生者はいない。

 もしかすると……先の炎で襲撃者は皆、即死したのだろうか……。

 そんなことはない、そんなことはあり得ない。

 あのリヒテルが……そして俺の弟、ヴァンがそんなに簡単に死ぬはずがない。

 俺は今、死術の魔、その根源にいる、死術に関わるモノは同胞……索敵にかからないのも不思議じゃない。

 索敵に反応……生者、凡そ数千……接近中。

 ああうるさい、部外者が来たな、邪魔だ消えろ。

 凡そ千名の消滅を確認……その数は減少中、停止しました。

 ひどく頭痛がする……頭の中で大きな獣がのたうち回る気がする。

 獣が暴れる度に自分の大事な物が欠け落ちていくのを感じる、今はもう……あの死術士の少女の名前が思い出せない。

 それがどうした……全てをかけて手に入れなくては玉座を手に入れても仕方がない。

 俺は奪いたいんだ、奪われたモノを取り返したいんだ。

 そのために俺は全てを賭ける……だからお前らも。



 全てを賭けてもらうぞ。



 *****


リューネブルク市近郊・エルベ河上流―――


 炎上するバルムンク水軍旗船・クリームヒルト、今まで自分達を守ってくれたその美姫にブリギッテ率いる神官兵らは感慨を持って見送った。

 黒き炎に蹂躙されたその姿に涙し、在りし日の栄光を思い出す。

 そう、彼らにはそれが許される、バルムンクが蜂起する前、彼らはただの腐敗神官だった。

 住民に憎まれ、スヴァルトに蔑まれる日々、その中で失われてきた兵士としての誇りを彼らは取り戻していた。

 実の所、彼らはバルムンクをそれ程憎んではいない。

 確かに人を人と思わぬリヒテル総統を嫌ってはいても、住民が注ぐ感謝の視線を手に入れられたのは彼らが蜂起したからであり、その功績を彼らは忘れてはいなかった。


(絶対にこうなると思っていたんだよね、近づけば攻撃される、クリームヒルト姫もやっかいな男に捕まったよな、まぁ、せめてあのスヴァルト貴族と私を見捨てた友は名誉の戦死と報告してあげよう)


 しかし彼らを統率するブリギッテは、彼らと意志を同じくしていなかった。

 彼女は基本的に日和見主義者である、頑張れる時、余裕がある時はなんとかするが、それ以上となると途端に逃げ腰になる。

 軍人として不適格な性格だが、本人はその性格を嫌悪している訳もなく、無論、矯正しようとする意志もなかった。


(さて、これからどうするか)


 周囲を見渡すと彼女らを捕縛していた法国軍(貴族連合軍配下)の水兵らは動揺していた。

 あのスヴァルト貴族は本当に最小限の人数しか残さずに、友軍の救出に向かったらしい。竜の黒炎で船団ごと壊滅させられた以上、生存は絶望的、残された兵士はブリギッテらの数倍近い(約二百名)が、指揮官層が目の前でごっそりいなくなったため、まともに指揮系統が働らかないようだ。

 今ならば、同じアールヴ人、そして神官兵の(ブリギッテの方が神官の階級では遥かに上)よしみで解放してくれそうだ。


(じゃあ、逃げよっか)


 命も懸けた、科せられた命令も成し遂げた、ブリギッテはすがすがしい気持ちでいっぱいだった。

 もはや義務は果たした、誇りを持って逃げていい。

 そんなことを考えながら旗下の兵士に命令しようとして正面を向く、キラキラと光る部下達の目が突き刺さった。


「もう少し……頑張れるか?」


 答えは歓喜であった。

 歓声を上げる部下達を横目にブリギッテが考えたのは……。

 「あ、これは逃げるといっても聞いてくれないな」という事なかれ主義な思考だけであったのだが


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