バトルフライハイ
目が覚めると図書室に居た。
「え? あれ?」
まず突き出していた鼻が無くなっていて、前足が五本指の手に戻っていて驚いた。
あたりを見回してみても自分以外は誰も居ない。ドア上の時計を見ると、時刻は十二時五分。そろそろ終わる頃だが、まだ四時限目をやっている時間だった。
自分はつい先ほどまで眠っていて、浅層世界でヤエと話していたはずだった。もし途中で眠っていたとしても、目覚まし時計が自分を起こし、ベッドの上で目覚める予定だったのに何故自分は図書室で目覚めているのだろう。
思い出そうとしても朝から今までの記憶がぽっかりと抜け落ちていて、何を思って図書室に来たのかさえまるで覚えていなかった。
「いや、いや……落ち着け。きっと覚えている。思い出せるはずだから」
自分に言い聞かせるようにしながら記憶を辿ろうとするが、どんなに頭を捻っても浅層世界でヤエと会った記憶より先がまるで無い。朝起きたことや学校での授業も普通に思い出せないのではなく、本当に記憶が消えているのだ。
今までこんなことは無かった。
確かにぼんやり過ごしていたせいで覚えていないことは多いのだが、それでも自分が何をしていたのか曖昧程度には把握しているような、例え偽物でも時間の進む感覚はあるつもりだった。
それが今、突然時間がワープじたかのようにぽっかりと抜け落ちている。
急に怖くなった。
記憶が抜け落ちているのも多少は怖いが、何よりも時間が進んでいたことを自分で把握できなかったのが一番怖い。多分、今までの経験から妙なことは起こしていないだろうという漠然とした信頼はあるけれど、それでもここまで訳がわからなくなったのは初めてだ。
「うそだろ……」
「何が嘘なんだ?」
「おぅあ!?」
頭を抱えてその場に蹲ってしまいたい衝動に駆られかけたとき、本棚の陰から一人の女生徒がぬらりと顔を出した。咄嗟にヤエだと思ったが、現れたのは三年の崎島朱乃先輩だ。
とても珍しいことに、この人には覚えがある。昼休みなど教室が妙に盛り上がっていてうるさくて眠れない時、ナオヤは時々図書室で居眠りする。大抵、読書や自習以外に居座ろうとする学生は図書委員によってすぐに追い出されてしまうのだが、何故かナオヤだけは許されていた。それもこれも、この図書委員長たる崎島朱乃先輩がナオヤを弟分のように気に入っていて特別に許可してくれたおかげらしいのだが、何故彼女に気に入られているのかはナオヤ自身もよく解らない。
「まったく、君という奴は突然押しかけてきたかと思ったら心理学の本を貸してほしいだなんて、無茶にも程があるぞ」
頭の後ろで一つにまとめた黒髪をなびかせて、怜悧な瞳をキリリと吊り上げながら『初めての心理学・入門編』という本を手渡してきた。ナオヤはぽかんとした顔のまま朱乃と本を見比べる。
朱乃が授業中の時間にここに居るのは珍しくない。美人な上に品行方正。勉学の面でも非常に優秀だが、時折ふらっと授業を抜け出しては図書室で本を読んでいることが多々あった。そして、何故か教師もそれを黙認している。
「あの、僕はここで何をしていたんですか?」
おずおずと尋ねると、机に本を置いた朱乃は不思議そうに眉根を吊り上げる。
「何って、三限目の終わりくらいに突然君がここに来たんだろうが。最初は寝に来たのかと思ったのだが、しばらく漱石やディックをぱらぱら眺めた後、今さっき突然心理学の本を貸してほしいと言ってきたのだが……?」
「その時の、僕の様子はどうでしたか?」
縋る思いで聞いてみると、朱乃は親指を顎に当て、怪訝そうな顔をしながらも教えてくれた。
「そうさなぁ、別段普段と大きく変わった様子は無かったが、ちょっと爽やかだった」
「さわやか……?」
「そう。爽やかだ。普段ここに来る君はちょっとボケているというか、半分寝てるような感じが大半だからな。本日ここに来たときはシャキっと背筋が伸びていて、目が開いていた。それで、四時限目だけ匿ってくれと頼まれたかな。まぁ、私と君は休み時間以外は殆ど会わないし、普段の教室ではあんな感じだと思ってたのだが……浅野君?」
軽い眩暈がした。それはもしや、昨日の昼休みに自分が知らないうちにクラスメイトと喋っていた時のような感じなのだろうか。だとすれば、それは自分ではない。おそらく、ヤエが言う所の『タカシ』が、自分に成り代わっていたということだ。
「浅野君」と呼び掛けられるのにも気づかずにいると、額にこつんと暖かいものが押し付けられた。見れば、至近距離に朱乃の顔がある。
「どわあぁぁぁ!?」
いきなり額と額をくっつけられて後ずさるナオヤに、朱乃は心配そうに首をかしげた。
「先ほどからどうした? 顔が真っ青だぞ? 熱は無かったが、風邪か?」
「あ、あの大丈夫です。風邪じゃないです。あ、僕、そろそろ教室に戻らないと……」
しどろもどろで朱乃から離れようと理由をこじつけるが、そうもいかない。
「間もなく四時限目も終わる。どうせ出席扱いにはならないのだから、ここで少し休んでいったらどうだ? 顔色が悪すぎる。それとも、保健室に行くか? 私で良ければ送って行こう」
「あの、えっと。そういうわけじゃなくて……」
どうにかならないものかと頭を巡らせたその時、タイミング良く四時限目の終了を告げるチャイムが鳴った。同時に、誰かが図書室のドアを勢いよく開く。
「ナオちゃんいる!?」
肩を揺らして息をするヤエが転がり込むように入って来る。普段のほやほやした雰囲気はどこへやら、焦っていた表情は、ナオヤの姿を見た瞬間あからさまに氷解した。
「よ、よかったぁ~」
ふやける様に笑顔を取り戻したヤエがナオヤに近づくと、両手でぎゅっと抱きついてきた。
「良かった。ナオちゃんがナオちゃんに戻ってた。朝からずっとタカシくんだったよね? こっちからアンカー繋げてもすぐ弾かれちゃって、話しかけられなくて、もう突然全部食べられちゃったのかと思ってた」
「あの、丘野さ……胸、胸当たって……」
むぎゅむぎゅと二つの膨らみを惜しげも無く押し付けられて今度は違う方向に困っていると、後ろから朱乃がにゅっと顔を出す。笑顔は笑顔だが、滲み出る気配がどこか黒い。
「仲睦まじいことは良きことだが、少々その辺でストップしてくれまいか? ほかの利用者が来たらどうする」
「……この人はどちら様?」
ようやっと朱乃の姿に気づいたヤエが体を離した。ナオヤはいつものように頭の中が外界に追いついておらず、その前に朱乃が自ら自己紹介をした。
「私は崎島朱乃。三年だ。図書委員をやっている」
「初めまして。最近北陽高校から転校してきました。丘野ヤエです。ナオちゃんがいつもお世話になっています」
つっけんどんな態度の朱乃に対し、姿勢を正したヤエはあの人好きのする笑みを浮かべて軽くお辞儀をする。あからさまに不機嫌な態度だったにも関わらず、まさかこんな風に挨拶を返されると思っていなかったらしい朱乃は一瞬毒気を抜かれたように目を瞬かせる。
「あ、あぁ、こちらこそよろしく……ところで、君は浅野君とどのような関係で?」
「あああ、丘野さんと僕は小学校の頃の幼馴染なんです。昔、僕の方がこっちに引っ越しちゃって、昨日久しぶりに会ったんで、凄く懐かしくて小さい頃の感覚に戻っちゃって、ちょっとリアクションがオーバーになってるんですよ」
ようやっと頭の中身が追いついたナオヤが必死で穴だらけの紹介を始めると、じっとりとした重たい視線を向けていた朱乃はどうにか解ってくれたのか「なるほど」と頷いた。
「まぁ、懐かしさに小さい頃の感覚に戻るのは仕方がないが、話すなら図書室の外に行くように」
口を尖らせた朱乃が言った時、昼食を食べ終わったらしき生徒が数人、図書室に入って来た。それを見た途端、朱乃の雰囲気がそれまであったものとガラリと大きく変わる。
「あらぁ、もう人が来ちゃったわ」
先ほどまでは委員長然とした引き締まった態度だったのに、妙に色っぽい声音になっていた。
「もう定位置に戻らなきゃね。それじゃあ、また来てね。ナオちゃん」
朱乃は艶やかな声で囁き笑顔で手を振ると、図書貸出の受付席に入って行った。
「ナオちゃん行こう。こうなったら早く決着を付けないと、本当に取り返しのつかないことになっちゃうから!」
「うん……?」
「どこか静かにお昼寝できる場所は無いかな?」
「それなら、屋上の給水塔の陰とか……?」
よく解らないままヤエに急かされて図書室を出ていく時、ちらりと振り返ると朱乃は本を借りに来た生徒にニコニコ笑い、楽しそうに話しかけているのが見えた。さっきとまた少し喋り方や雰囲気が変わっている気がする。
不思議な人だなぁと思った時、不意に朱乃と目が会った。
ほんの一瞬のことだが目を細めた朱乃の笑顔が狐のように見えて、ナオヤは何故か『少し怖いな』と思った。
☆ ☆ ☆
「どうして僕がタカシじゃないって解ったの?」
ヤエに引きずられるように廊下を歩きながら、先ほどすぐにナオヤがナオヤであると解った理由を聞いてみるとヤエは少し不思議そうな顔をした。
「すぐに解るよー。だってナオちゃんっていっつも眠そうな顔してるもん。最初はナオちゃんが昔と変わったちゃったのかなって思ってたけど、やっぱり昔と同じだものね。今なら見ればすぐわかるよー」
即答されて、そんなに昔から自分は寝ぼけた顔なんだろうかとちょっとだけ落ち込んだ。
そういえば、先ほど崎島先輩にも似たようなことを言われた気がする。半分寝てるような顔をしていると。その点、タカシという奴は相当爽やかなのだろう。確かにヤエの浅層世界で見たあの自分は怖い程に饒舌な上によく笑顔を見せていた。友人だって作るのが上手に違いない。
それに比べて自分は何だろうか。毎日毎日眠ってばかりで友達も居らず、だからと言って自分を変える気もさらさら無く、今もこうして自分では何もせずに流されるままヤエに引きずられている。ついでに人生が楽しいかと問われたら、何とも言えなかったりする。ついでに言えば息をするのもめんどくさい時もあり、それならいっそこのまま人生を楽しめるタカシに取って代わられても良いのかもしれないなぁなんて薄ぼんやりと思った時、まるでナオヤの頭の中を読んだようにヤエが珍しく鋭い声で「こらっ!」と怒った。
「ナオちゃんしっかりして! それじゃあ本当にこのまま食べられちゃうよ!」
四階の階段を上り、丈夫そうな鉄の扉を開けば突き刺さるような空の青さと、現実感を持ったしっかりと解る気温の空気が頬を撫でた。
春の陽射しも暖かな昼下がりの屋上には、幸いなことにまだ誰もいなかった。
これがもう少しすると、だらだらとサボりに来たりダベりに来たりするする学生が出てくるのだが、今のうちに人気の少ない給水塔の裏に回ってしまえば誰かに見られることも無い。
給水塔裏の陰は少し前までナオヤにとって天気の良い時限定で最高の昼寝スポットだったのだが、女子たちが興じていたバレーボールの流れ弾を顔面に思いきりぶつけられてからは行っていなかった。
給水塔を背もたれに座ると、ヤエのほうはさっさと目を閉じる。
教室の中で最初にヤエのスピリットワールドに連れ込まれた時は二人とも起きたままだったから、きっとこれは本格的に何かをするのだなとナオヤは直感する。
目を開けたまま、五億年以上も昔から変わっていないらしき青空をぼんやり見ていると、案の定ヤエを中心に再び世界は違和感に揺らいでいく。
自分が眠っているかもわからないうちに世界は夢へと変貌を遂げていた。アスファルトから見る見る青草が伸びていき、給水塔には古い木が巻きつくように生え、苔むした半壊の校舎からは名前も知らない青い鳥が羽ばたいていくのが見えた。
スピリットワールドは本人の気分によってもある程度左右されるらしいことを昨日ちらっと言っていたので、きっとこれが今日のヤエの気分のイメージなのかもしれない。
ピヨヨ、と鳥の鳴き声が耳元から聞こえて隣を向くと、ヤエはいつの間にやら緑の小鳥に変化していた。
「ナオちゃん、昨日と同じようにアンカーをかけて、私をナオちゃんの世界に連れてって!」
「あ、うん」
肩にとまったヤエに言われて、昨日と同じように額の裏に自分の光を見つける。昨日と違うのは、ヤエと繋がっているために光の糸が一本伸びていることだ。この光の糸を辿り、自分から飛ばしたアンカーを向こう側に繋げてダブルアンカーは完了なのだが何かおかしい。
「光が、二つある?」
「うそ」
驚いたヤエが目を瞑ると、困ったように唸った。確かにナオヤとヤエの光の他、遠くに一個だけ地上から見た星のような淡い光の玉を見つけた。
「あ、ほんとだ。誰だろう」
「僕らの他にもスピリットアンカーを使える人物が居るってこと?」
問えば、ヤエは「そうみたいだね」と他人事のように頷いた。
「そんなことがあるの?」
「それは、リリちゃんの知り合いは私たち三人だけじゃないもの。世界を貰った人が他に居てもおかしくないもの」
「リリちゃんって?」
「スピリットワールドとスピリットアンカーの概念をくれた人。だけど、この話はここまで。まずはタカシくんと決着がついたら後でいくらでも教えてあげるから!」
ピピィと鳴いて緑の翼をはためかせ、ヤエはナオヤを急かす。
「……解った」
しぶしぶヤエの方とアンカーを繋げると昨日とは真逆、自分が世界を引き込んでいるかのような、色々なものが一斉に迫ってくるような感覚を覚えた。そしてふぅと息をついたのもつかの間、青々とした森に飲まれた廃墟の世界が、いきなり何もない、一面灰色の世界になっていた。
「は?」
てっきり、ヤエの世界観と混ざり合うような変化が起こると思ったのに、掠りもしなかったことに驚いた。
「あぁ、やっぱりもうここまでタカシくんが出てきちゃってる!」
緑色の小鳥は頭を抱えていた。
昨日のように、空間支配で周囲を宇宙に変えようとしてもびくともしない。何もない、一面の灰色の平原。地面は砂ですらなくて、継ぎ目のないタイルのようなもので出来ていた。空を見上げればそこも一面の灰色だ。唯一確認できるのは、視界いっぱいに広がった雲だ。空一面に充満した雲が、まるで台風のように大きく渦巻いている。
ヤエはそれを見て、タカシと呼んだ。
「な、何で。アレの何がタカシなんだ!?」
「つまり、ナオちゃんの自我をもうタカシくんが殆ど支配してるってこと!」
メタモルフォーゼ! の掛け声とともに緑色の小鳥は空を飛び、空中で大きく円を描くと三メートルはあろうかという巨鳥に変身した。
「ナオちゃん捕まって!」
傍まで下りてきたヤエの羽毛で覆われた体に慌てて捕まると、巨鳥の体はすぐに地面を蹴って飛び上がる。瞬間、渦を巻き始めた空から巨大な手が先ほどまでナオヤたちが居た場所に雷のように落ちてきた。
どばんという轟音とハリケーンじみた風圧と共に灰色のタイルが手形に凹む。
あのままあそこに居たら、間違いなくぺしゃんこに押しつぶされていた。
「ななな、な、な、な」
「あれがタカシくんだよ! あれに捕まったら、多分今度こそでナオちゃんは全部食べられちゃうからね!」
風圧に飛ばされぬよう、力強く羽ばたくヤエの柔らかな羽毛にしがみつきながら天空から大地へ振り下ろされた岩のような巨人の腕を見る。アレがタカシだって? アレでは本物の化け物じゃないか。
「しっかり捕まってて!」
ゆっくり驚いている暇も無く叫んだヤエは体を斜めに傾けて急旋回をしはじめる。
ナオヤが体を低くして、一層緑色の羽毛をぎゅうっと抱きしめると再び巨大な手が雲の上から落ちてきた。それも一本や二本の話ではない。幾本もの手が、まるで雷のように次から次へと上から落ちてきているのだ。その度にヤエは体を捻って腕と腕の隙間を縫うように飛びながら攻撃を躱している。
追いかけてくるような動きの無いのが幸いだが、それでも物凄い数だ。
「ごめんねナオちゃん。タカシくん相手だと、私の力じゃ逃げるのが精一杯だから!」
矢のように飛び続けるヤエ。しかし、いくら俊敏に逃げ回っていてもこのままではいずれ捕まってしまうだろう。
ナオヤも変身するか悩んだが、自分の力ではあの天から降り注ぐ巨人の手から逃げ切れる自信が無い。
「これから、どうすれば良いの!?」
ヤエの緑色の羽毛にしがみつきながら叫ぶと、緑の巨鳥は歌うように教えてくれた。
「ナオちゃんの深層世界に行く!」
真上から巨大な手のひらが現れて今にも押しつぶそうと落ちてきたその時、突然ヤエが翼を畳んで真っ逆さまに急降下をしはじめた。顔に当たる生ぬるい夢の空気と、予想通りの風圧。底の無い夢の中にどこまでも急激に落ちていく恐怖がないまぜになったナオヤの叫び声。
「見つけた!」
ぐんっ、と腹の底に重力が響く感触の後、今にも捕まえようと迫る岩石のような指の間をすり抜けて今度は急上昇。
風圧に負けず前を見れば雲の中に一際黒い裂け目が出来ていて、ナオヤを乗せた緑の巨鳥は迷わず中に飛び込んだ。
☆ ☆ ☆
深層世界。
それは、個人の人格を形作るもっとも大切な場所だ。
個人が個人たりえる、もっとも必要な部分。人格の中枢。
もっと解りやすく例えるならば、心の核というもの。
タカシはそんな場所に居るらしい。
どうしてタカシが帰ってこなかったのか、ヤエにも理由は解らない。もしかしたら事故だったのかもしれないし、わざとだったのかもしれない。真実を知っているのは、忘却された過去のナオヤ自身と、タカシのみだ。
ヤエが知っているのは幼い頃のあの日タカシはナオヤの深層世界行って、それきり帰ってこなかった。
精神を失った肉の器は、脳そのものが健全にも関わらずそれのみで機能し続けることはできなかった。大人たちが沢山の手を尽くしたにも関わらず、タカシの肉体は死滅した。しかし精神が死んだわけではない。
深層世界。そこでタカシはナオヤの事を内側から観察し、再び肉体を纏いこの世に降り立つために少しずつナオヤの人格を侵食しているのだと言うわけだ。
「まるでゲームの話みたいにね」
あの夜の世界でヤエは懐かしむように言っていた。
そこまでは、ナオヤも憶えていた。しかし、そこから先がどうしても思い出せない。
どのようにしてヤエと別れ、そして図書室で目覚めるまでの間、周囲では何が起きていて自分は何をしていたのだろうか。
「多分、タカシくんは人格が浮上していない時でもナオちゃんの目や耳を通して周囲の事が解るんだと思う。だから、昨日私がタカシくんのこと思い出させようとしてるのを聞いて焦ってるんだと思うの」
ここはナオヤの中層世界。
浅層世界と深層世界の間にある空間だ。ゆで卵で言えば浅層世界が殻の部分で、ここは丁度白身の部分にあたるらしい。
太陽の無い、岩だらけの赤茶けた大地を一頭の狼がとぼとぼと歩いている。その頭には、一匹のヤモリがしがみついていた。
「あの時も、今と同じようにタカシくんが邪魔しに来たのよ」
中層世界に入った途端、ヤエは巨鳥の姿を維持できなくなり今は五センチほどの桜色のヤモリの姿になっていた。深層に行けば行くほどその世界の持ち主の影響が強くなり、外から来た他人は動きに制限が出てきてしまうらしい。
桜色のヤモリは狼に変身したナオヤの頭に乗りながら、どうしてもナオヤが思い出せない昨日のこと……あの夜と星の日の最後を教えてくれた。
「タカシくんがもう死んでいることと、今はナオちゃんの深層世界に居ることを教えた途端にね、こう、星がぐわーって。銀河みたいに渦巻いたのよ。で、中からさっきの手が落ちてきたの」
狼の頭で、ヤモリが小さな手を目一杯に広げてジェスチャーをする。
銀河の中から現れた、巨大なタカシの手。咄嗟にそれを避けたのは良いものの、余りに急な出来事に許容を超えて驚きすぎたヤエは現実世界に投げ戻されてしまったのだと言う。
「悪夢を見て、悲鳴を上げて飛び起きるって言うのかな? 自分の許容量を超えてびっくりしすぎると防衛本能が働いてアンカーが切れちゃうみたいなんだよね」
飛び起きたヤエは咄嗟にナオヤに電話を掛けたのだがそこで出たナオヤは少し妙だった。
「『ありがとう。大体のことは解ったから、今日はもうヤエも寝ると良いよ』だって。ちょっと変だよね? だから私はタカシくんかもしれないって思ったの」
それから、何度かヤエからアンカーを放ってみたのだが、それらは全てナオヤに拒否されて全く繋げなくなってしまった。そこで、ヤエは確信を得たのだと言う。
「ブロックは誰とも繋がりたくないって強い意志を持てば出来るの。その間は誰にもアンカーは繋げない。でもあの時のナオちゃんが自発的に私を拒絶するのは考えにくいんじゃないかなーと思ったの」
そして、学校に来てみれば案の定ナオヤはタカシになっていた。その上、ナオヤが図書室で目覚めるまでタカシは一度もナオヤに戻ることが無かったと言う。
ナオヤとしても記憶が曖昧だったことはよくあるが、ここまではっきりと自覚して記憶が飛ぶのは初めての事だ。
「どうして僕は図書室で戻ってこれたんだろう?」
本気で乗っ取るつもりならそのままナオヤに意識を戻さずに乗っ取ることもできたのではないか。呟くように尋ねてみると、ヤエは「うーん」と難しそうな声を出す。
「それは私にもわかんない。でも、多分……本当にただの憶測なんだけど、タカシくんに気づいて油断していないナオちゃんをいっぺんに食べきるのは難しかったのかもしれないね」
何にせよ、もう一度捕まったら今度こそ戻ってこれるか誰にも解らない。
ヤエの力が十全に発揮できない以上は、あまり目立たないよう周囲の風景を変えずに静かに歩いて深層世界に行くのが得策らしい。
それにしても、殺風景な場所だった。赤茶けた大地と大岩以外、何も無い。本当にこれが素の自分なのだろうか。だとしたら、自分の心は何故こんなに乾いているのだろうか。
「中層世界ってどんな場所?」
前足で小石を蹴りながら鼻先まで下りてきたヤモリに尋ねると、桜色のヤモリは金色の目をキロキロと動かした。
「そうね。浅層世界が外の世界のイメージだとしたら、ここは人格の世界かな」
「人格?」
「そう。うーんと、イメージが難しいかもしれないけれど、人間にはいろんな人格が眠ってるんだよー」
よく意味が解らない。すると、ヤエはとぼけ顔の狼の表情を読み取ったのか何とか伝えようと身振り手振りを加える。
「えーっと……アニメとか漫画とかで何かの判断をする時、天使と悪魔が囁いたりする描写があるでしょ? あんな感じって言うのかなぁ? 授業さぼっちゃえって考えるナオちゃんと、ちゃんと授業受けなきゃって考えるナオちゃんが、別々に居るんだよ。他にも、もし死んだお婆ちゃんがここに居たらどうするか、とか学校の先生だったらなんて言うか、とか考えるでしょ。そういう人が沢山いるの」
「……つまり、頭の中に居る色々な考え方が擬人化されて住んでるってこと?」
実際はいまいち理解が出来ていないのだが、聞けば意外にもヤエはコクンと頷いた。
「もう会えない人でも、覚えているそのままに出てくるのよ。自分の印象の通り思い出のままの姿で。だから物凄く美化されてることもあるし、本人よりずっと悪人だったりすることもある。でも、いつでも会えるってわけじゃないのよ。むしろ中層世界は浅層世界と違って無意識が強いから、会えないことの方が多いかもしれないね。凄く運が良ければ小さい頃のナオちゃんにも会えるかもしれないんだけど……」
「そんなのが居るの!?」
目を見開いて鼻先のヤモリを見ると、彼女は事もなげに首をかしげた。
「いるよ。過去と現在の考え方が大きく違えば、『過去の自分』という人格がどこかに生まれるもの」
「記憶が無くても?」
「もちろん。記憶が無くたって、過去の自分は消えないでしょ?」
だよね? とヤエも少し不安そうだが、とりあえずそういうものらしい。
「ただ、浅層世界にも出てきていたタカシくんがここで何もしてないはずは無いの。それがどういう風に影響してるのかは私でも解らない。とにかく、何が起きてもアンカーが切れないように気を引き締めて行かないと!」
気合いを入れるように桜色のヤモリは器用に狼の鼻先に立ち上がり、握りこぶしを作って上に突き出した。
「えいえいおー」
本人の意気込みとは裏腹に気の抜けるようなふわふわした可愛らしい掛け声を聞いて、狼は笑うように目を細めた。
☆ ☆ ☆
荒野を歩くことしばらく。
途中でタカシが現れることも無く、別の誰かに会うことも無く平坦な大地が広がっている。目印になるようなものは何もなく、深層世界の入口どこか人影の一つも無い。ヤエに言わせれば、だいぶタカシに荒らされているというのだが、普通が解らないナオヤからすれば詰まらないことこの上ない。
しかし、現実ではどれほどの時間になっているのだろうとぼんやりとナオヤが考え出したころ、それは起きた。
「伏せて!」
ヤエの声に慌てて身を伏せると、少し遠くで爆炎が上がった。同時に、砂を含んだ爆風が物凄いスピードで頭の上を通り過ぎていく。もうもうと土煙が上がり、風が収まったころに恐る恐る目を開く。いつの間にかもぐりこんでいたヤエが前足の間から顔を出したとき、上空から巨大なものがせわしく羽ばたきながら下りてきていた。
「何だあれ……ドラゴン?」
ナオヤもヤエもすぐには判断できなかった。パーツ一つ一つの構造からしてゲームに出てくる西洋のドラゴンに似ているのだが、どう見てもその形が極端にアンバランスなのだ。
巨大な翼と大きな顎とは釣り合わない、頭の三分の一ほどしかない小さな体は、小鳥の胴体に無理やり竜の頭や翼を取り付けたようだ。ひょろひょろとした右脚は一見すれば紐のようにぶら下がり、反対の左脚はハンマーのように太く短い。左右の眼球の大きさも著しく違っていて、おおよそ生物的な構造とは思えなかった。
そんな頭を運ぶために仕方なく胴体があるとでも言うような歪な形の薄白い竜が、頭の大半を占める口を大きく開くと火球を二度、三度と立て続けに吐き出した。
地鳴りに似た腹に響く音が周囲を震わせ、再び伏せたナオヤの体を何度も爆風が通り過ぎていく。
「ナオちゃん耐えて!」
「くぅ!」
必死に爪を立てて大地にしがみついていたナオヤだが、ぶつかってくる風圧の勢いに押されて少しずつ後ろへ下がって行く。ずりずりと爪が地面を削るが、もう限界だ。このまま飛ばされてしまうのかと思った瞬間、風が止んだ。
「助けて! 助けて! 助けて!」
悲鳴が聞こえた。砂煙が消える前に立ち上がり、周囲を見回すと竜が先ほど火球を放った方角から五歳くらいの小さな少女がこちらに向かって駆けてきた。
「ナオちゃん逃げて!!」
ヤエの叫び声。火球を放った竜はしばらく何かを探す様に黙っていたが、少女を見た瞬間そちらに向かって急降下し始めた。
巨大なコウモリのような被膜の翼をせわしく羽ばたかせ、大きな牙を見せつけて吠える。左右でアンバランスな目は人を不快にするためだけに描かれた精巧な落書きみたいで、生理的な嫌悪感と恐怖が湧きあがる。
ナオヤはすぐに動くことが出来なかった。見た目の恐ろしさもあるが、もっとも足を竦ませたのはその存在の有り方だ。
そいつは破壊そのものだった。
ナオヤの内側を壊し食らい尽くすためだけに、そいつは存在している。
そして、ナオヤがナオヤである限り、あれから逃げ切るのは無理だと直感的に悟った。
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
少女の後ろから追撃を始めた頭の大きな竜はすぐ彼女に追いつくと、飛びながらその巨大な口で頭を挟み込み飴玉か何かのように丸呑みした。ナオヤの中で、また何かが削ぎ落とされる。
そして、ナオヤが立ち竦んでいる間に竜はハッキリとこちらを見た。
見つかった。もうダメだ。
こちらに気づいた巨頭の竜は翼を羽ばたかせると、少女を飲み込んだ虚空のような真っ黒い口を開けて迫ってくる。
頭の中が、真っ白になった。
「頑丈で巨大な岩壁!」
脳に直接叩きこまれるようなヤエの声に咄嗟にイメージすると、目の前で十メートル近くある岩壁が地面からせり上がる。視界いっぱいに岩壁が広がり、すぐにどぉんと音がして竜がぶつかったのだと解った。
「仕方ないけど、ナオちゃんが食べられちゃうよりはマシだよね? どこまで出来るか解らないけど、サポートするからナオちゃんもイメージして! そのまま全力で深層世界に行きましょう」
ふわふわしながらも、どこか頼りになるヤエの言葉にナオヤもようやっと正気を取り戻す。そうだ。ここでやられたら、ヤエまで一緒に食われてしまう。
「わかった」
頷いて、四肢に力を入れて身構える。
「来るよ! 壁から離れて!」
壁に阻まれた竜が向こう側で咆哮を上げた途端、岩壁にヒビが広がり砕け散った。まるで、この程度のイメージなど無いに等しいとでも言うように頭突きで一撃のもと壁を貫通させた竜の大きな顎が目前まで飛び出してくる。
「変身!」
飛ぶように一歩後退したナオヤが叫ぶと一瞬のうちに狼の頭が細長く伸びる。前足に被膜がつき、大きな翼の形状に変形し、ふさふさと生えていた獣の毛は細かな青い鱗に成り代わる。
それは飛ぶことに特化した竜の姿だ。
シルエットの細い、鶴に似た細い青竜はすぐさま地を蹴り竜の脇へ回り込むように飛んだ。直線では敵わないので、ヤエのように小回りしながら応戦するしかない。
案の定、竜はすぐに頭の向きを変えるとこちらに向かってくる。
「いい、ナオちゃん。ここはイメージの世界。だから、イメージが強い方が勝つの。だから、自分を強くイメージして。誰よりも強いと思えば、それが本当の強さになるんだよ!」
思いもよらぬ素早さで振られた首が迫り、ガチィンと牙が空を切る音が耳元で響く。もう少しで体を挟み込まれる寸前で牙を躱す中、ヤエは頭の上で助言する。
誰よりも速く。あの竜よりも強く。どこかで見ているタカシよりも。世界さえも味方についているとイメージしなければこの戦いには勝てない。
しかし、普段の自己評価が低すぎるナオヤに最強の自分をイメージするのは至難の業だ。強い自分なんてものは想像もつかないし、あの不気味な竜に勝てると思うなど正気の沙汰ではない。ならば、どうすればあの竜から逃れることが出来るのか。
(僕は飛ぶことが最も得意な竜だ。デカ頭の重そうな竜などすぐに追い抜ける、最速の竜だ!)
イメージした途端、翼が一回り大きくなる。鳥竜と最速のイメージを重ね合わせ、普段では出せないような猛スピードで空を飛ぶ。音よりも速く、光よりも速く。まるで青い閃光のように空を切って駆け抜ける。
それでも竜はナオヤについてきた。今にも後ろから飲み込まんと大きな口をばっくりと開き後ろに張り付いている。至近距離でガチィンと牙が空を切る音と、時折飛んでくる火球を左右に体を傾け急旋回を幾度も繰り返して躱す。
細い隙間を縫うヤエのような芸当は無理だが、一直線の攻撃ならばどうにかナオヤにも耐えられた。
拮抗しているかのように見えた高速の追いかけっこはやがてナオヤに軍配が上がり始めた。二頭の間が開き始め、このまま逃れられるかと思えた時、突然巨頭の竜が動きを止めた。
「何だろう?」
「解らない。気を付けて!」
しばし空中を羽ばたきながら大小の目で睨みつけていた竜は、ガパリと口を開くとそれまでよりも巨大な炎球を吐きだした。
ナオヤの体よりも大きな炎球を慌てて避けるが、逃げ出した方にももう一つ放たれる。
「うわっ、あっつっ!」
まるでナオヤの逃げる方向が解っているかのような攻撃に慌てて減速するが間に合わず、ナオヤの翼の先端が焼かれた瞬間だ。その時を待っていたかのように大口を開けた竜の顎がナオヤの眼前に迫る。
食われる。
「今よ! 空から鉄の槍!! 降り注げ!!」
ヤエの言葉と同時にイメージが湧きあがり、杭のような鉄の槍が上空に出現した。無数の鉄槍はナオヤたちを避けて豪雨のように巨頭の竜の上に降り注ぐ。
頭部のほか翼や小さな胴体にも雨あられのように突き刺さり、もう少しでナオヤたちを食らうはずだった口が悲鳴にも似た大音声を上げて赤茶けた大地へと落ちて行った。
「逃げて!」
地に落ちつつある竜はまだ動いていたが、倒そうとは思わない。アレには到底叶わないのは最初から承知している。今はとりあえず、ここから離れて深層世界へ行かなくては。
しかし、ナオヤが竜に背を向けて一目散に羽ばたこうとした翼を震わせた時、視界が反転した。
「え?」
鳥に似たナオヤの後足に、何かが絡みついていた。
地面に落ちた竜の、糸のように細い右足が伸びて巻きついていたのだ。
思いもよらないことに、咄嗟にイメージする暇も無い。
強力なワイヤーを巻き取るがごとく物凄い力で足を引っ張られ、地面にたたきつけられる。これもイメージなのだろうか。全身を打ちつけた猛烈な痛みが体中を駆け巡り、上手く思考がまとまらない。
突き刺さった杭を全て抜いたのか、アンバランスな気味の悪い竜の瞳が目の前にあった。翼は破れているはずだから、這ってきたのだろうか。虚無のような口がゆっくりと開かれ、今度こそ終わりかと思った時、桜色の小さなヤモリが二頭の竜の間に立ちふさがる。
「ヤエ……」
「ナオちゃん。やっと名前で呼んでくれたね!」
止めろ。と言う間もなくヤエが嬉しそうに笑うと、今にもナオヤを食おうとする竜の口の中に飛び込んだ。瞬間、まるで破裂するような速さで口の中一杯にピンク色の風船が膨らんだ。
ヤエのイメージの影響なのか、丈夫な風船は鋭い牙が食い込んでも暴れる竜が爪で掻いてもびくともせず、そのまま口を閉じられなくなるほど大きく膨れ上がる。しかし、竜のほうもそれが悪あがきなのを知っているようで、風船を吐き出せないと知るや否や動きを止めた。
倒れ伏すナオヤを睨めつけたまま、おそらく数秒も経っていないだろう。
戦いのせいで居場所がバレてしまったのか、空が静かに渦を巻きはじめ、中央からタカシの巨大な手が現れた。
天から伸びた手はまず巨頭の竜を拾い上げて空へと吸い込まれていった。そして未だ動けずに居るナオヤにも手を伸ばす。力の無い青い翼を摘みあげようとした時、地の底から猛烈な吸引力を感じた。
浅層世界の中で相手からアンカーを繋げられた感じに似ているが、それよりももっと強い。
まるで重力が三割増しになったかのような強烈な地面からの吸着感に息苦しささえ感じた時、ナオヤの真下の地面が大きく盛り上がった。
もちろん、ナオヤがイメージしたわけではない。
ぐおぉぉぉぉぉぉ!
空気を震わせる大声と共に大地の底から現れたのは、天から伸びるタカシの手よりも巨大なクジラだった。
大地そのもののように巨大なクジラはタカシの手が届く前に地面ごとナオヤを口の中に飲み込んだ。そして、体を翻すと再び地面の中に潜って行く。
生暖かく暗いクジラの口の中で、ナオヤは誰かに尋ねられた。それはよく知る誰かの声だが、知らない誰かのようであった。
『テメェ、どこで寝ている?』
一瞬、何の事か解らなかった。黙っていると、イライラしたようなクジラの声がまた聞いてくる。
『テメェの本体だよ。どこで寝たんだ?』
朦朧とした意識の中で、ふと自分の本体の事を思い出した。
「屋上の給水塔裏」
『解った。今、あいつが呼びに行くってよ』
☆ ☆ ☆
「浅野君。浅野君。起きてくれ」
「崎島先輩……?」
体を揺すられる振動にナオヤが目を覚ますと、目の前に居たのは崎島朱乃だった。
「大丈夫か? うなされていたぞ」
心配そうな顔が安堵の表情を浮かべるのを見て、ナオヤはガバリと飛び起きた。
「そうだ、ヤエは!?」
慌ててヤエの方を見ると、彼女は給水塔を背もたれに穏やかな寝息を立てていた。どこも辛そうな様子も無く静かに胸を上下させているのを見て、ナオヤはほっと息をつく。
「良かった。ヤエ……じゃなくて丘野さん、起きて!!」
優しく肩をゆするが、ヤエは目を覚まさない。
「どうした?」
「起きてよ丘野さん。冗談だろ?」
朱乃が怪訝そうな顔で尋ねる中、ナオヤがさらに強く揺さぶる。しかしヤエは目を閉じてピクリとも動かないまま、横へゆっくりと倒れこんだ。
「ねぇヤエ、起きてよ。寝てるだけだろ?」
「待て。まずは先生を呼んで来よう」
どんなに揺さぶっても、耳元で呼びかけてもヤエは目を覚まさなかった。それどころか、朱乃に呼ばれてやってきた教員が抱き上げても、保健室に連れて行かれても、さらに病院に搬送されてもヤエは目を覚まさなかった。
丘野ヤエは静かに眠ったまま、ただの一度も目を覚まさなかった。