誰も知らなかった日
気が付くと、数学の教師が木の人形になっていた。
着色もなされていない上に凹凸さえ無いのっぺらとした顔のデッサン人形みたいな物が、きっちりとスーツを着て黒板にチョークをコツコツと突き立てて象形文字を書いていた。
つい先ほどまでは教師はきちんと人間で、浅野ナオヤは数学の授業を受けていた。いくらナオヤがぼんやりしているからと言って人形と人間を間違えるはずが無い。
驚いて辺りを見回すと、なるほどナオヤ以外の全員が木の人形に変わっていた。
目も口も耳も無いくせに、人形たちは全員教師の方を向いたまま誰一人動かずノートも取っていない。
人形の教師はストップモーションアニメみたいにぎこちなく動きながらガツガツと黒板が真っ白になるほど象形文字で埋め尽くし、空いた部分が無くなるとぐるりと頭だけを回転させてクラスの中を見回した。
単に首から上、頭の部分が百八十度回転しただけで人形には顔も髪も無く、どこが正面なのかもわからない。が、ナオヤには『見回した』ように見えた。
ぽかんと阿呆のように口を開けてぼんやりしていると、教師の無いはずの目と合った。
人形の教師はナオヤの口を開けたやる気のない態度に怒ったのか、細いパーツで出来た指をさしてガラスを掻くような嫌な音をぎゅいぃぃぎゅいぃぃぎりぃぃぃと発した。どうやら何かを言っているようだが、内容は全く解らない。
「え? あ? 何ですか?」
思わず疑問の声を漏らすと、教師が更に音程を高くして言葉のような何かを発する。同時に、それまでずっと教師を見ていたはずのクラスメイトの人形たちが三十数名、一斉にナオヤの方をざざっと音を立てて振り向いた。
まるで放射線でも描くようにナオヤを中心に一同ののっぺらとした顔から視線が注がれている。
「あ、よく解りません。済みませんでした」
まるで統率されたような動きに何だか責められているような気がしてとりあえず謝ってみるも逆効果だった。教師はさらにギュリギュリとビデオを早回しているみたいな不快な音を立てつづけ、クラスメイトはナオヤを向いたまま誰も陰口一つ叩かず、クスクス笑いもせず、不気味なまでに黙ったまま微動だにしない。
クラスの中でただ一人、三十数名の視線を一身に浴びながら、どうして良いか解らないナオヤ途方に暮れていると教室前のドアがガラリと開かれる。
中に入って来たのは見たことも無い少女だった。
学校の制服に身を包んだ少女は、金切り音の響く教室の中をスキップでもするように軽やかに歩いてくる。なんだかチョウチョみたいな女の子だなとナオヤは思った。それもアゲハチョウみたいなハデなやつじゃなくて、野原ならどこにでもいるようなモンシロチョウ。
机と机の隙間をふわふわと飛ぶように歩いている間、どの人形もまるで少女なんか見えていないように脇を通っても見向きもしない。
そして春先のモンシロチョウのような少女はとうとうナオヤの前に立つ。
ほんわりとした雰囲気の、可愛らしい女の子だった。
「ナオちゃん、久しぶり!」
誰? と尋ねる前に、にっこりと笑った少女は椅子から立ち上がりかけたナオヤの体に抱きついた。
声を出そうとした瞬間、目の奥で火花が散った。
ぐりん、と視界が変わる。
それまで見ていた奇妙な幻影感は消え去り、突き刺さるような現実の空気が肌を撫でる。体は重力の法則に従ってきちんと重たいし、叩かれた頭は痛覚の理念に従ってじーんと痺れたように痛かった。
「あいたー!」
「くぉら浅野! 朝っぱらから居眠りするたぁいい度胸だな!」
突然夢から引っ張り出された寝ぼけた顔を上げると目の前には怒り顔の担任教師、小松龍太郎三十二歳独身が出席簿を振り上げた姿で立っていた。木の人形でもなんでもない。顔のパーツがきちんと揃った人間っぽい顔だった。
多分、人間だと思う。
それとも、今見ているのはとても現実的な夢だとか。
「……人間だと思わせておいて、実はオチが鬼ということは流石に無いと思うんですけど、ここは本当に現実ですか?」
「まぁだ寝ぼけ取るんかお前は。現実だ現実!」
先ほどまで怒りで鬼のような形相の教師も流石に呆れ、今度は出席簿の面で軽く頭を叩かれる。
打たれた頭を撫でさすりながらくすくす笑い声の上がる教室を見回すと、そこにはきちんと人間らしい生き物が席に座っていて、ようやくここが本当の現実なんだと理解する。
「さぁて、ホームルームを始める前に転校生を紹介しよう」
教卓に戻った教師の言葉にクラスの全体がざわつく中で、ナオヤは教師に見つからないように欠伸をした。気を抜けば、また眠ってしまいそうだった。
こんな中途半端な時期に転校してくるなんて、変わってるなぁ。
そんなことを思いつつぼんやり窓の外の木の葉が揺れるのを見ていると、教師に声をかけられた転校生が教室に入って来た。
「初めまして。丘野ヤエと申します」
随分ぽわぽわした声だな。
ちらりと前を見て、凍りつく。
夢で見たモンシロチョウみたいな少女が、黒板の前に立っていた。
「あ、ナオちゃん。さっきぶりー」
目が合った瞬間、ヤエは夢の中と同じ笑顔を浮かべて嬉しそうに手を振った。
☆ ☆ ☆
こんなのはきっと嘘だと思う。
夢にちょっと出てきただけの少女が何故か現実に居て、一度も会ったことが無いのにさっき会ったばかりのような言動をする。
もしかしたら登校している最中に顔を見られたのかもしれないが、それにしても「さっきぶり」と言われるのは変だった。
普段は居眠りばかりしている一時限目もこの時ばかりは混乱のせいで全く眠れず、おまけに普段あまり喋りもしない後ろの席のクラスメイトから「あの子と知り合いなのか?」とこっそりと、しかも妙になれなれしく尋ねられた。
「今度紹介しろよ」
名前もよく覚えてない奴から下心丸出しの質問をされて返答に困る。
知らない。
あんな奴、まったく知らない。
見ればヤエはクラスの女子どもに取り囲まれ、質問攻めにされていた。
そういえば昔にもあんな光景を見たことがある気がする。あれは女子の部外者に対する儀式みたいな物なのだろうか。しかも遺伝子レベルに刻み込まれているような、物凄く根深くてタチの悪いシロモノなのだろう。
のろのろとしか動かない頭を精一杯回転させて明後日の方向に考えをめぐらせていると、不意にヤエと目が会った。
慌てて机に突っ伏して、目を瞑る。
あの子は一体何なんだろうと考えたけれど、考えてみても解らないものは解らない。だんだん考えること自体が面倒になってきて、そのまま休み時間は寝たふりをしてしまえば良いんだと思いつく。
そうだ。フリと言わずそのまま寝てしまおう。
寝てしまえば誰も声をかけないし、あの子と視線も合わないだろう。
もしまた夢で会ったなら、その時はその時だ。
始業ベルがなると同時に初老の社会科教師がつまらなさそうな顔で教室に入ってくる。
ナオヤは机に突っ伏したままヤエの机を取り囲んでいた女子が慌てて自分の席に戻る音を聞いていた。
☆ ☆ ☆
幸いなことに、放課後まで夢は全く見なかった。
三時限目あたりの授業中から十分ごとに意識を寸断されていた。どうにかそのまま四時限目までやり過ごし、後の昼休みは食事もせずに寝て過ごし、五限目頭に少しノートを取ったあたりで完全に意識が飛んだ。そして夢を見る暇も無く、気が付けば放課後だったのだ。
帰りのホームルームも既に終わっていたようで、教室に残っているのは自分一人しかいない。
周囲には綺麗に陳列された机と椅子。窓を見れば紅茶に溶かした角砂糖みたいな蕩けた夕陽が差し込んでいた。
「……帰るか」
ぽつりと呟いて鞄を持ち上げると、ばたばたと慌てたようにヤエが教室に入って来る。
何か忘れ物でもしたのだろうかと思っていると、ヤエは速度を緩めないままナオヤの机に一直線に向かってきた。
「あ、ナオちゃんごめんね。ちょっと職員室に行ってたの。待たせた?」
「……え?」
「今日用事があるから放課後待っててねって言ったでしょ? だから待っててくれたんでしょ?」
そんなこと約束してたっけ? というかそもそも自分は今日、この転校生と喋っただろうか。いや、たしか喋りたくなくて寝ていたはずだ。なのに、彼女は今、何と言ったのだろう。
まるで覚えのない事態に混乱していると、ヤエは少し驚いたように目を見開いてから困惑したような声を漏らした。
「もしかして、まったく覚えてないの?」
罠に掛かった親を見る小鹿のような目で見つめられ、ナオヤも同じように困惑する。一体、この子は何を言っているんだろう。
「いつから覚えてない?」
「……五時限目の頭までは覚えてる」
条件反射のように答えてすぐに我に返る。
それがどうしたのかと聞こうとする間もなく、次の質問が投げかけられた。
「そういう症状が出てるのはいつから?」
「いや、ちょっと居眠りしてただけだし」
「知らないうちに誰かと行動していたことは?」
「……何だよ突然。そんなの知らないよ」
矢継ぎ早に質問されて面食らっていると、ヤエは「いいから答えて」と語調を強くして詰め寄ってきた。
「……そういうのは無いよ。寝ぼけてて適当な返事してたことは何回かあるみたいだけど……」
嘘である。
本当はここ最近、知らないうちに自分がやったことになっているという事が時たま発生していた。
貸した覚えのない現国のノートを返してもらったり、名前も知らないはずの他校の生徒から親しげに挨拶をされることも一度や二度の話では無い。ただ、そう言われれば現国のノートを貸したような気がするし、挨拶された他校生もどこかで会ったような気がするのであまり深く考えていなかったのだ。
本当に? とでも言いたげなヤエの目に居た堪れなくなって目線を反らすと、向かい側から長い溜息をつく音が聞こえる。
「帰りのホームルームの後、教室の掃除をしている間は何をしてたか覚えてる?」
覚えていなかった。
考えてみれば、放課後の教室にほったらかしにされること自体が既におかしいかった。
ホームルームが終わった後、教室は清掃のため机を一端後ろへ下げるのだが、その時に眠っていれば流石に起こされるはずだった。
「……多分、寝ぼけて動いてたんだよ。きっと廊下でうとうとした後また教室に戻って来たんだよ」
流石に苦しい言い訳だと思ったが、そうとしか思えなかった。
しかし、どうして自分は必死になって初対面の転校生に言い訳なんてしているのだろう。
「……ナオちゃん。このままだと、中身を全部食べられちゃうよ?」
いい加減適当なところで切り上げて帰ろうかと思うと、今にも泣きだしそうな声がぼそぼそと聞こえた。見ればヤエは悲しげな眼差しでこちらを見透かすようにじっと見つめていて、その視線に何故か背中に嫌な汗をかく。
「は? 何に?」
急に恐ろしくなって、少し強がるように聞いてみると、ヤエは寂しげに呟いた。
「タカシくんに……」
瞬間、ヤエを中心にして周囲に揺らぎが発生した。
いきなり蜃気楼の中に放り投げられたように教室の存在が希薄化し、皮膚がマヒしたように絡みつく空気が温くなる。時計の針はピタリと止まり、違和感がこの場のすべてを支配するのに、気を抜くと今にもこの疑問や違和感を忘れそうになる。この感覚を、ナオヤはよく知っていた。
それはまるで夢の中。
その中で、ヤエとナオヤだけが周囲から浮いていた。丁度、写真だけで出来た世界にぽつんと置かれた立体人形にでもされたような気分だ。
「な、何だこれ!?」
急におかしくなった世界に驚いていると、突如として雷が落ちるような轟音があたりに響き渡る。
「どうしたんだ!? 一体何をしたんだよ!?」
混乱して叫ぶようにヤエに詰め寄ると、彼女は悪戯っぽく笑って教えてくれる。
「ここは私の浅層世界。今ね、ナオちゃんにスピリットアンカーを引っ掻けたの。今は二人とも起きてるから浅層世界の表面くらいしか行けないけど、私の見た記憶のナオちゃんを見せるくらいなら出来ると思うから」
「浅層世界? スピリットアンカー? なんだそりゃ?」
ゲームの世界みたいな単語に首を捻ると先ほどとは違う、耳を覆いたくなるような更に強い轟音と巨大な揺れに襲われた。あまりに酷い揺れ方に倒れそうになって、慌てて近くの机に捕まった。
見ればヤエは目の前から居なくなり、真っ赤に染まっていた夕の空はいつの間にか眩いほどの青へと戻っていた。
ガヤガヤと耳障りな人の声に見回すと、そこは昼休みの教室だった。
時計を見ると、きっかり十二時十五分。各々誰かと食べるなり喋るなり遊ぶなりしてる頃だ。
クラスの女子が適当にグループを作って食事をとっていて、ヤエはクラスの野坂と水城という女子と一緒に弁当を食べていた。
「な、何だ。何なんだよ」
目まぐるしい変化に耐え切れず、体から力が抜けそうになったとき、向けた視線の先に今度こそ度肝を抜かれた。
今、自分が捕まってる机。
そこに、自分が居たのだ。
もう一人の自分が、楽しげに誰かと喋っていた。
「解った。お前の昔の彼女だろ」
「だからちげぇーって! ただの幼馴染だよ」
「まっさかー! 小学生の時会ったきりだったらしょっぱなから手振ったりしないだろ?」
「だからこそだろ? 小学生気分が抜けてないんだよ」
後ろの席の、よく知らない男子と親しげに喋っている自分。この時の記憶は、ナオヤには無かった。
目の前に居るのは、まったく知らない自分だった。
「ナオちゃーん」
弁当を食べ終わったのか、ヤエがとたとたと足音を立ててこちらに向かってくる。
「お、可愛い彼女が来たぜ」
「だから違うって! で、何か用?」
クラスメイトに念を押して、爽やかな笑顔でヤエの方を向く自分。
「うん。あのね、今日の放課後に昔の話をしたいから残っててほしいんだ」
「あ、うん。解った。放課後ね。ちょっと図書室に寄った後でも良いかな? 崎島先輩に本が入ったか聞きに行きたいんだ」
「うん! 私も職員室に用があるから丁度いいところだよ」
「ふぅん、ここじゃ出来な話なんだな」
二人で話していると、クラスメイトに茶々を入れられる。
「あ、テメ、こら」
「違うよー。本当にただの昔話なんだけど、ややこしい話だからゆっくり喋りたいんだ」
困ったように笑うヤエを見て、二人の男が本当に楽しそうに笑った。
「誰だ、これは」
こんなことは覚えてない。この時、自分は眠っていたはずだった。誰にも声をかけられたくなくて、弁当を食べてすぐに机に突っ伏したはずだ。
何だ、これは……。
自分はこんなに社交的ではない。誰かと喋るのは苦手だし、友達作りはもっと苦手だ。いつも居眠りばかりしていて、教師に怒られてばかりで。
ぐるぐると頭の中で自分の知らないことが渦巻いていた。そのまま疑問の中に埋没しそうになった時、ガラリと大きな音がした。
教室のドアを開く音に目を覚ますと、目の前には軽く目を瞑って佇むヤエの姿。振り返ると、担任の小松が面倒くさそうな顔で立っていた。
「お前ら、下校時間だぞ。さっさと帰れ」
時計を見ると時間は放課後にきちんと直っていて、外にはしっかり夕陽の赤。
クラスに居るのは自分とヤエの二人きりで、他には誰の姿も見なかった。
「すみません。すぐ帰ります」
小松が立ち去るのを確認してから、ナオヤはヤエに向き直った。
「今の、何だったんだ? あれは誰だ?」
「あれが私から見た今日のナオちゃんだよ。でも、もしかしたらタカシくんだったのかもしれないけどね」
「だからタカシって誰だよ? それとスピリットアンカーだっけ? もしかして今朝の夢に出てきたのもそれなのか?」
自分の知らない自分を見てショックを受けながらも、とりあえず重要な部分だけは知っておきたい。なんとか逃げ出しそうになるのを我慢して問い質そうとすると、ヤエは少し悲しそうな顔をした。
「ナオちゃんは、本当にタカシくんのことも忘れちゃったんだ……」
「だから、タカシって……」
誰だよ。と聞こうとした時、不意にヤエの顔が近づいた。
キスされる!? と身構えたのもつかの間、背伸びしたヤエの額がナオヤの額にコツンと重なる。皮膚と皮膚が触れたあたりがじんわりと暖かくなり、同時に静電気のようなピリピリした不思議な感覚が額の中心から頭全体に広がった。
「アンカーを繋ぎなおしたから、少し遠くなっても会えると思う。タカシくんとか、色んな事は今晩説明するから寝る直前に電話してね。それじゃあ、もう帰るから」
額が離れると、手のひらに紙切れを握らされる。
ナオヤがぽかんとしている間に、ヤエは背中を向けて教室から出て行った。
ふわりと漂う甘い香りを見送って、取り残されたナオヤは途方に暮れたようにぽつんと佇んでいた。