神様に魅入られた子 :約5000文字
「あらあ、あなた……」
「え?」
「かわいい顔してるわねえ……ねえ、神様に興味ある?」
「あ、僕そういうの大丈夫なんで。洗脳とか効きませんから」
「せ、洗脳? うふふ、違うの。そうじゃないの。あのね、私たちの活動は――」
「神様なら僕についてますから。じゃ、さよなら」
昼下がり。駅前の歩道は、主婦や学生、スーツ姿のサラリーマンがゆるやかに行き交い、どこか気の抜けた空気が漂っていた。そんな流れの中、おれはどこかの宗教団体らしいおばさんに呼び止められた。
おれは軽くいなして、再び歩き始めた。神様なら僕についている――そう言い切ったときのおばさんのきょとんとした顔には、思わず吹き出しそうになった。
ちらりと振り返ると、おばさんはもう別の通行人へ向き直り、慣れた手つきでビラを差し出していた。
きっと、ただの厨二病とでも思っただろう。でも違う。これは中学生によくありがちな根拠のない全能感からくる自信とは別物だ。
おれは本当に神様に愛されているのだ。
これまで何度も、危ない場面に遭遇してきた。駅のホームで足を踏み外しかけたこともあるし、横断歩道で信号無視の車が突っ込んできたこともあった。けれど、そういうときは決まって考えるより先に体が勝手に動くのだ。避けるべき方向へ、まるで見えない手に引かれるように。
それだけじゃない。当たりつきアイスを買えば必ず当たるし、コンビニのくじだって狙った景品だけを引き当てられる。雑誌の懸賞なんて、おれのために存在しているようなものだ。他には……まあ、とにかく、まだ中学生だからギャンブルの類はできないが、もしやればきっと勝てるだろう。少しじれったいが、まあ焦る必要はない。確信があるのだ。これは神様に気に入られた者にしかわからない感覚だろうが。
なぜ気に入られているのかはわからない。たぶん、おれが可愛いからだろう。あの宗教おばさんの目は節穴だが、人の美醜くらいは判断できるらしい。
「ねえ、歩くの速ーい! もーうっ」
……少なくとも、おれよりは。
背後から間延びした声が飛んできたかと思うと、磨衣が小走りで追いついてきて、「女の子に合わせるもんなんだよっ」と言いながらおれの腕に抱きついた。ずんと体重が乗り、足を捻りそうになった。
「ねえ、さっき話しかけられてたよね。あれ、なに?」
「あー……宗教の勧誘っぽかった」
「あー、ふふっ。いらないのにね。あたしという女神がついてるんだから」
「そっすね」
磨衣は満足そうにぐふふと笑い、絡めた腕にさらに体重を預けてきた。
この磨衣というのは同級生で、大変不本意なことにおれの彼女だ。ひと月ほど前、告白され、流れでオーケーしてしまった。そう、おれは本当に見る目がない。
ぽっちゃりした体型に、手入れが行き届いているとは到底思えない黒髪。小学生がつけるようなサクランボ柄のヘアゴムをつけ、地味なデニムとパーカー。顔立ちはお察しのとおり。その辺に落ちている石のほうが、まだかわいいかもしれない。それなのに、なぜ神様にすら愛されているこのおれが、こんなのと付き合ってしまったのかね。
「ぬふふー」
……いや、ほんとになんでだ。同じ人間という気がしない。あのときの自分は完全にどうかしていたとしか考えられない。たぶん、初めて異性に告白されたことに動揺して、好きだと錯覚してしまったのだろう。それに、周囲の連中が次々と初体験を済ませていくことへの焦りもあった。
こいつと付き合い始めてから、他の女子との距離が明らかに開いた。以前は雑談くらいはあったのに、今では視線すら合わない。
このままではまずい。あまりの愚かさに、神様が愛想を尽かすかもしれない。
だが、本当に、本当にわずかな可能性だが、磨けば光るということも……。
「ぬふ、ぬふぬふ」
……よし、決めた。
おれは磨衣と距離を置くことにした。学校はもちろん避けて、連絡も返さないし、既読もつけない。これだけ徹底すれば、さすがに察するだろう。
直接別れ話をする必要なんてない。自然消滅というのは、双方にとっていちばん優しい選択だ。
◇ ◇ ◇
そう決めてから二週間が経った頃、おれはクラスの女子から映画に誘われた。
たぶん、おれと磨衣が別れたと判断したのだろう。実際そのとおりだ。最近は連絡も来なくなっていた。ああ、なんという解放感! ほら、やはりおれは運がいい。
「チケットはネットで買っておいたよ」
「ありがとー! じゃあ、飲み物は私が買うね」
土曜日のショッピングモール。人のざわめきと甘いポップコーンの匂いが混ざり合う映画館のロビーで、おれはこれがデートというものなのか、と感慨に浸っていた。休日特有の少し浮ついた空気。カップルや家族連れに囲まれ、その一部に自分が溶け込んでいることがなんだか不思議で、そして悪くない気分だった。
「いやあ、悪いからいいよ。むしろ、そっちもおれが出そ――」
「あー! いたいたー!」
――えっ。
「もー、なーにしてんのっ」
一瞬、頭の中が真っ白になった。磨衣だ。なぜここにいる……。偶然? いや、そんな馬鹿な。どこからか情報を嗅ぎつけたのか、それとも勘か。思い返せば、こいつにはそういうところがあった。
「浮気? もーう、構ってもらえなくて寂しいからってダメだぞっ」
寂しい……? 寂しい? 寂しい? 構ってもらえなくて?
避けていたのはおれのほうなのに、この女はいったいどういう思考回路をしているんだ。
状況を飲み込めず固まっている女子を軽く押しのけるようにして、磨衣は当然の権利のような顔でおれの腕に絡みついてきた。
ぞわりと悪寒が走り、おれは反射的に体を振って力任せにその腕を振りほどいた。
「あっ、ねえ! うふふ!」
おれはそのまま考えるより先に走り出していた。
だが来る。追ってきている――。
人混みを縫うように走る。肩がぶつかり、舌打ちや小さな悲鳴が耳に入るが、気にしている余裕はない。首筋にまとわりつくような気配が消えないのだ。
ちらりと後ろを振り返ると、案の定、群衆の向こうににやついた磨衣の顔が浮かんでいた。楽しげで、まるで鬼ごっこでもしているかのようだった。
階段に差し掛かった。
悠長に一段ずつ下りている暇はない。おれは手すりに腰を乗せ、そのまま一気に滑り降り――あっ。
体がぐらりと傾いた。
まるで逆上がりをしたときのように視界がくるりと回転した。
落ちる――そう思った瞬間には床が猛烈な勢いで迫ってきていた。
鈍く、嫌な音がした気がする――。何かが折れたような音だ。顔の下あたり、もしかすると首の骨だったのかもしれない。
おれは……死んだのか……?
体の感覚がなく、指一本動かない。痛みも熱もない。ただ、こうして意識があるからまだかろうじて生きているのだろうか。それともこれが死というものなのか。これから魂が体を離れていくのだろうか。
……どうやら後者が正解らしい。
ふわりと浮かぶように視点が地上から持ち上がった。床から遠ざかっていく。
おれは死んだ。死んだのだ。
それにしても、神様に愛されていたはずのおれが、なんでこんな死に方を……。とうとう運が尽きたというやつなのか。
……いや、違う。
これは魂が浮いているんじゃない。肉体そのものが持ち上げられているんだ。血が滴り落ち、床に不規則な斑点を作っていた。
次の瞬間、おれの体は入口に向かって急速に横滑りした。
自動ドアに激突し、視界がぐわんと揺れた。周囲にいた人々が息を呑み、口元を押さえる様子が断片的に見えた。
ちょっと横にずれればそのまま通ることができるのに、おれの体はまるで窓にぶつかる虫みたいに、一度引いてはまた突進し、また引いては突進を繰り返した。
その最中、磨衣の姿が目に入った。
必死な顔で、おれの体を捕まえようと手を伸ばしている。目を見開き、息を荒げ、どこかバナナを取ろうとする猿のように見えた。
おれの体はその手を鬱陶しがるように避け、軌道を変えて上昇し始めた。そのまま勢いよく天井へ叩きつけられ、そしてすぐさま急降下。旋回しながら再び自動ドアの端へ激突した。
ガラスの一部が割れ、その裂け目に胸から無理やりねじ込まれていく。ミリミリと嫌な音を立ててヒビが蜘蛛の巣状に広がっていった。
手足が折れ曲がり、ガラスを砕きながら体が押し込まれていく。
大きな破片が床に落ちたそのとき、ようやくおれの体は自動ドアを突破した。
――二重ドア……!
だが、すぐに二枚目の自動ドアへぶつかった。
先ほどよりも激しく、まるで岩に引っかかったルアーを無理やり引き抜こうとしているようなどこか苛立ちを帯びた勢いで、おれの体は何度も何度もドアに叩きつけられた。
視界が白い。外の陽の光だ。滲むようにぼやけているが、それは血が眼球を撫でつけていくからだろう。このまま白く、何もかも消えてしまえばいいのに。痛みも感覚もないが、まだ意識だけは残っている。
「やめて、神様! ――くんを連れて行かないで!」
磨衣の声が響いた。どこか芝居がかっていて、悲劇のヒロインに酔いしれているかのような響きだった。
ああ、そうか……。
磨衣は女除けだったのだ。おれの純潔を守るための。おれがあいつを抱くことはないし、あいつと付き合っている限り他の女が寄りつくことはない。
だが、それでは不十分だと神は判断したのだ。
『このまま女に取られるくらいなら』
そう考えた神はおれを殺し、天界へ迎え入れるつもりなのだ。
ついに二枚目の自動ドアを突き破り、おれの体は外へ放り出された。そのまま空へゆっくりと引き上げられていく。
神の望むがままに――。
だが、おれはどこか安堵していた。
磨衣に捕まらずに済んだ。それだけが唯一の救いだった。
――電線が!
次の瞬間、おれの体は電線に絡みついた。凄まじい電流が迸り、目の前で火花が激しく散った。そして、おれの体は弾かれるように地面へ落下した。
おれの体は完全に動きを止めた。アスファルトに横たわったまま、視界は一点を映している。神はどうしたんだ。
遠くからドタドタと慌ただしい足音が近づいてくる。誰かが、おれの名を叫んだ。
――ああ……。
意識が遠のいていく。……だが、おれは悟った。
神はついにおれを見放したのだ――。
◇ ◇ ◇
「もー、やんちゃなところを見せたかったからって。ほんと、男の子なんだから」
――えっ。
「もうあんなことしないでね。まあ、できないか。きゃは!」
ここは……病院?
気がつくと白い天井が視界いっぱいに広がっていた。そして、おれを覗き込む磨衣の顔があった。
おれはどうなった……? あのあと病院に運び込まれたのか。体が動かない。声も……。
「大丈夫だよ。あたしがずっとそばにいてあげるからね。……でも、ちゃんと愛してくれないとダメなんだぞっ」
いや、あれだけの怪我だ。動けないのは当然かもしれない。だが何かがおかしい。
「何も心配しなくていいんだからね。退院したら、うちに置いてあげてもいいし。きっとお互いの両親も納得するから」
これは……豚の鳴き声か? 豚を飼っているのか、この病院は。
……いや、そんな冗談を考えている場合じゃない。指の感覚もない。足も手もまるで存在しないみたいだ。
「あたしが望めば全部そうなるんだもん。だって、あたし――」
――えっ、今……。
「あ、ご両親が来たって! じゃあ、一度帰るね。ふふっ、空気が読める女です」
磨衣が部屋を出ていくと、入れ替わるように両親が駆け込んできた。
泣きそうな顔でおれのベッドにしがみつき、震える声で名前を呼んだ。
首の骨を折って、全身麻痺――。
その説明や嘆き、励ましの言葉もほとんど頭に入ってこなかった。
ただ一つだけ。
磨衣が去り際に口にした言葉だけが、壺のように空洞になったおれの体の中でいつまでも反響していた。
――あたし、神様に魅入られてるの。




