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『脂の深淵、あるいは真実の香り』



「……ふぅ。……食った食った」


店を出ると、夜風がチーズと脂で火照った頬に心地よく当たった。

オレンジ色の看板が遠ざかり、街灯がポツポツと続く静かな帰り道。

先ほどまでの喧騒や地龍との死闘が、遠い昔の出来事のように感じられる。


コウタは懐に『覚悟』と『愛』の気配を感じながら、隣を歩くカナを盗み見た。

街灯に照らされた彼女の肌は、チーズ牛丼の脂でいつも以上に艶めき、その瞳には満足げな色が浮かんでいる。


「コウタきゅん」


ふいに、カナが足を止めた。

彼女の指が、コウタの少し汚れた袖口を「ツン」と、遠慮がちに突っつく。


「……ん?なんだ、まだ食い足りねえのか?」


「にしししっ。……違うよぉ。……あのね、カナたんね……」


カナは少しだけ俯いて、アスファルトの上に落ちた二人の影を見つめた。

そこには、覇王としての殺気も、店を破壊しようとした狂気もない。

ただの、胸をいっぱいにした一人の少女の姿があった。


「……楽しかったね、今日」


「…………。ああ」


「コウタきゅんと一緒に、変な魚釣って、変な人たちに怒って……。それで、二人でギトギトの牛丼食べて……。カナたん、こんなに笑ったの、生まれて初めてかもぉ……っ」


カナの言葉が、夜の空気にしっとりと溶けていく。

コウタは、自分の胸の奥が、チーズよりも熱く、とろけるように疼くのを感じた。


「……俺もだよ。……散々な目にも遭ったけど。……お前と一緒じゃなきゃ、地龍なんて釣り上げられなかったしな」


コウタは不器用に視線を逸らし、頭を掻いた。

指先に残った微かな「深淵のスパイス」の香りが、昨夜の出来事を思い出させる。



街灯の少ない路地裏に入ると、カナの足が再び止まった。

湿り気を帯びた夜風が、彼女の声をかすませる。


「……ねぇ、コウタきゅん。……カナたんね、昔……ずっと、クサイクサイって、いじめられてたの」


いつもより低く、震える声。

彼女の体から漂う強烈なガーリックとボラの香りが、重い記憶の幕のように周囲を覆う。


「魔法が暴走しちゃって……脂が止まらなくなって……。誰も、カナたんに触ってくれなかったにゃん。……汚いものを見るみたいに、みんな、鼻をつまんで逃げてっちゃうんだもん……」


カナは自分の両手を見つめた。

地龍を屠り、数千の金貨を掴み取ったその掌は、今も脂でテカテカと光っている。

彼女にとってこの脂は、最強の武器であると同時に、世界から自分を隔絶してきた呪いそのものだった。


「変な態度をとるのも……わざと油まみれでいるのも……全部、自分を守るためだったんだよ」


カナは脂に濡れた自分の両手を見つめ、力なく笑った。


「本当のカナたんは……もっと、得体の知れない……変な匂いがするの。……油まみれなのも、もともとの体質をごまかすための、最低な嘘なんだよぉ……」


カナの瞳から、脂の混じった重い涙が零れ落ちる。

彼女にとって、この「ギトギトな日常」は、誰にも触れさせないための孤独な防壁だった。


「コウタきゅん……。こんなカナたんでも……それでも、わたしのこと、選んでくれる……?」



コウタはしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと顔を上げた。


「なぁ、カナ」


彼は繋ごうとして滑った右手を、今度は迷うことなくカナの頬へと伸ばした。

指先が、彼女の涙を、そして防壁であるはずの厚い脂の層を割り、その奥にある熱い肌に触れる。

強烈なガーリックの奥に、確かに何かが「いる」。

それは言葉にできない、甘く、それでいて胃の奥が疼くような、未知の、けれどどうしようもなく抗いがたい「個の匂い」だった。


「嘘だろうが体質だろうが、関係ねえよ。……俺がお前を選んだのは、その脂の量じゃなくて、俺の隣で笑ってるお前自身だ」


一息つき、コウタは夜空を見上げた。


「チー牛ヤロウ……なんて呼ばれて、いじめられてたこともある。本当は小心者なんだよ。……今のお前と一緒にいる俺だって、必死に強がってるだけさ」


「…………えっ?」


カナの動きが止まった。

常に不敵で、どんな異臭や異常事態にも動じない「相棒」の、初めて見せる弱気な横顔。


「お前に嫌われないためにな。……強さじゃ、お前には逆立ちしたって勝てねえ。……正直、お前がいつもスキスキ言ってくれてても、本心が分からなくてさ。本当にこのまま、お前とパーティーを組んでいけるのか……ずっと不安だったんだ。なんか後出しみたいかっこわりいな」


コウタは繋いでいた手を、自嘲気味に、少しだけ緩めた。

脂まみれでヌルつく掌の感触が、今はひどく心細いものに感じられる。

最強の装備を手に入れ、伝説を屠っても、彼の内側にある「卑屈な少年」は消えていなかった。


「コウタきゅん」


カナは、言葉を失ったまま、コウタの震える指先を見つめた。

彼女は知らなかった。

自分を救い出し、肯定してくれた「王子様」が、自分と同じように、暗闇の中で怯えていたことを。

自分に嫌われることを、何よりも恐れていたことを。




沈黙が流れる。

カナが震える手を伸ばし、コウタの手を握ろうとする。


「ぎゅっ」と力が込められ


その瞬間。


「ヌルリッ」


互いの手のひらに蓄積された、四郎系の背脂と、ボラの濃厚な脂が、物理法則という名の無慈悲な現実を適用した。

二人の手は滑り、あらぬ方向へとはなれた。


あまりの摩擦係数のなさに、コウタは勢い余って背後の壁に背中を打ち付け、カナは前方へと前のめりに泳いだ。


「…………ぷッ」


静寂に、小さな吹き出し音が混じった。

コウタが壁に背を預けたまま、眼鏡を指で押し上げ、肩を震わせている。

強気だの弱気だの、運命だの。

そんな小難しい理屈をすべて、「脂で滑る」というあまりにマヌケな事実が笑い飛ばしてしまった。


「にしししっ!あは、あはははははっ!コウタきゅん、全然かっこよく決まらないよぉぉっ!!」


「……るせえ。……お前が、力入れすぎるからだろ。……ははっ」


カナは地面に手をついたまま、お腹を抱えて笑い転げた。

手についた脂のせいで、彼女が笑うたびに地面と手が「ペチャ、ペチャ」と小気味よい拍手を奏でる。

コウタもまた、こらえきれずに声を上げて笑った。


「……もう、いいや。綺麗に歩くのは諦めた。……ほら、立てよ」


コウタは再び、カナに向かって手を差し出した。

今度は「ぎゅっ」と握るのではなく、指を絡め、滑ることを前提にした緩やかな繋ぎ方で。

カナはその手を、今度は滑らせないように慎重に、そして愛おしそうに受け止める。


「にしししっ。……うん。……行こう、コウタきゅん」


繋いだ場所から伝わるのは、もはや不快なベタつきではない。

体温をよりダイレクトに伝える、滑らかで温かな潤滑剤。

二人は、時折足元をヌルつかせ、千鳥足になりながらも、夜の街をゆっくりと歩き出した。

その歩幅は、先ほどよりもずっと、自然に重なり合っていた。


「帰るか。……明日は、もっとデカいボラ、釣らせてやるからよ」


「うんっ!約束だよぉ、コウタきゅんッ!!」


カナは嬉しそうに、コウタの腕にドロリと絡みついた。

繋がれた掌からは、手汗と脂が混ざり合った、確かな「愛」の重みが伝わってくる。

二人の歩みに合わせて、夜の道にヌチャ、ヌチャという、世界で一番幸せな足音が響き続けていた。



 


宿に戻り、二人は地龍の戦いで汚れた身体を洗い流した。

湯気の中、かつてないほど「清潔」な状態で向かい合う。

湯気と共に現れたコウタは、髪を下ろし、メガネをかけ直し、どこか自信なさげに視線を泳がせる――まさに、かつて彼が忌み嫌った「チー牛」そのものの姿だった。


「コウタきゅん……」


カナが背後から、恐る恐るコウタの背中に腕を回した。

その体からは、脂の鎧に隠されていた、本来の「カナ」の匂いが微かに立ち昇る。


「あのね……。カナたん、ずっと人に触るのが怖かったの。クサイって、思われるんじゃないかって……」


カナは震える指先で、コウタの肩をぎゅっと掴んだ。


「ちょっとだけ、嗅いでみて……?」


「…………っ」


コウタは覚悟を決め、彼女の首筋に鼻を近づけた。

瞬間、脳を直接殴打するような、生命の深淵より出でし「芳香」が突き抜けた。


「ヴォエッ……!!ヴォ、ヴォエェッ!!」


コウタは激しく咽せ込み、涙目で膝をついた。

それは悪臭とあまりに濃密すぎる「存在感」の暴力。


「……コウタきゅん……やっぱり……」


カナの顔が絶望に染まり、腕が離れようとしたその時。

コウタは震える手で、カナの腰を力任せに引き寄せ、自らその「深淵」に鼻を埋めた。


「すううううぅぅぅぅっ!!」


「…………っ!?」


「ゲボッ!ゲフッ!……ハァ、ハァ……っ。カナ、俺から離れるなよ……」


コウタは涙を流しながら、必死に彼女を抱きしめ直した。


「コウタきゅん、でもっ」


「フン……好きな女のフェロモンに、あてられただけさ…文句、あるかよ」


「にししし……っ。コウタきゅん、またそうやって強がってぇ……。でも、嬉しい。カナたん、コウタきゅんが大好きっ」



カナは幸せそうに目を細めると、悪戯っぽくコウタの耳元で囁いた。


「あのね。もし、クチもクサイって言ったら……コウタきゅん、どうする……?

 カナタンね、コウタきゅんに受け入れてほしいな

 ゴメンね、コウタきゅん」


涙目のカナがコウタの方を向く、近くでわかる彼女の生の匂い。


「こうするのさ」


コウタはメガネを指で押し上げると、迷わずカナの唇を塞いだ。


「んぅ…………っ!?」


それは、勇気と、執着と、そして致死量の愛情が混ざり合った、この世で最も「香ばしい」誓い。

二人の影は、湯上がりの静かな部屋で、一つの歪な、けれど誰にも邪魔できない形に重なり合った。


やがて唇が離れ、コウタは苦笑した。


「……やっぱり、くさかったな」


「にししし!コウタきゅんの口だって、ボラ臭いよ!」


二人は笑い合い、再び手を繋いだ。

今度は滑らないように、ゆっくりと、確かに。




部屋に戻り、窓から差し込む月光を浴びながら、コウタが呟いた。


「なあ、カナ」


「ん?」


「お前の『本当の匂い』……慣れるまで、ちょっと時間かかりそうだぜ」


カナは少し俯いたが、コウタが続けた。


「でもよ、それがお前なんだろ?なら、俺が慣れるまで付き合え」


「……うん!カナたん、コウタきゅんに慣れてもらうまで、ずっとくっついてるからね!」


カナはコウタの腕にすっぽりと収まり、満足げに目を閉じた。


窓の外、夜は深まっていく。

明日も、ボラを釣りに行くのだろう。

地龍と戦うかもしれない。

そして、相変わらず脂まみれになって帰ってくるに違いない。


けれど、もう仮面は必要ない。

脂は防壁ではなく、二人だけの絆の証。

匂いは恥ずかしさではなく、共有する秘密。


「……楽しかったね、今日」


「ああ」


「明日も、いっしょにね」


「もちろんだ」


静かな夜の中、二人の声が重なる。

長い一日の終わりに、ようやく見つけた、歪で確かな居場所。

脂の仮面の向こう側で、二人はようやく本当の姿で寄り添い合うことができた。


「コウタきゅん、ありがとね」

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