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『 覚 悟 の 銀 鱗 、 あ る い は 運 命 の 一 振 り 』
「……カナ。これだ。お前の一本目は、これ以外にありえねえ」
老舗の釣り具店『銀鱗堂』の最奥。
埃を被った桐箱から、コウタが厳かに取り出したのは、一本のバーサタイルロッドだった。
これまで見せていた卑屈な「チー牛」の面影はどこにもない。
獲物を狙う鷹のような鋭い眼差しで、コウタはその竿の反り、ガイドの並び、そしてグリップの握り心地を妥協なく検品していく。
「コウタきゅん……。これ、なんだか凄く……重厚な匂いがするにゃん……」
カナもまた、その竿から放たれる異様な覇気に、脂の頬を引き締めた。
黒檀のように深い色を湛えたブランクス。
その手元には、職人の手による力強い彫り文字が刻まれている。
――『覚悟』。
「職人の手作り、一点物だ。……カナ、お前は力が強すぎる。並の竿じゃ、お前の『だいしゅきホールド』に耐えられずに一瞬で折れる。だが、こいつは違う」
コウタは愛おしそうに竿を撫でた。
「しなやかだが、芯は鋼より硬い。お前の荒々しい力と、獲物への執着……そのすべてを真っ向から受け止めるために作られた、世界に一本だけの竿だ」
「……『覚悟』……。カナたんの、一本目……」
「ああ。これを持つってことは、どんな大物がかかっても、絶対に糸を切らさない、竿を離さないっていう『覚悟』を持つってことだ。……お前に、できるか?」
コウタの真っ直ぐな問いかけに、カナは震える手でそのグリップを握りしめた。
瞬間、カナの掌の脂が吸い付くように竿に馴染み、魔力と脂が一体となってブランクスを駆け抜ける。
「にしししっ……! 決まってるよぉ、コウタきゅん! カナたん、この『覚悟』で……コウタきゅんが釣る未来を、全部、全部引きずり出しちゃうんだからぁぁっ!!」
カナが竿をひと振りすると、店内の空気が一変した。
鋭い風切り音と共に、背脂の蒸気が渦を巻き、伝説の竿が「ここに主あり」と歓喜の産声を上げる。
コウタは満足げに頷くと、財布(中身はカツカツだが)を力強く叩き、店主に宣言した。
「親父さん。これ、いただくぜ。……最高の相棒には、最高の『覚悟』が必要だからな」
「……そしてカナ。この竿に合わせるのは、こいつだ。店主が奥の奥、禁忌の棚に隠してたリール……」
コウタが震える手で取り出したのは、鈍く虹色に発光する超精密機械だった。
職人が狂気と執念で研磨し尽くしたその内部構造は、物理法則を置き去りにしている。
「……コウタきゅん、これ、回しても……音がしないにゃん。それに、止まらない……っ!」
「当たり前だ。リール内部の摩擦係数は、驚愕の『ゼロ』。一度回せば、宇宙の終わりまで回り続けると言われる永久機関だ」
コウタはメガネをキラリと光らせ、そのリールの側面を指差した。
そこには、吐息のような細い線で、一文字だけ刻印されていた。
――『愛』。
「ドラグパワーは測定不能。……つまり『わけわかめ』だ。お前がどれだけ力任せに引こうが、相手が巨龍だろうが、この『愛』は決して滑らないし、壊れない」
「わけわかめ……。すごぉい! カナたんの『だいしゅきホールド』と同じくらい、わけわかめなんだねぇっ!!」
「ああ。そして最大の特長は飛距離だ。このゼロ摩擦から放たれるルアーは、空気抵抗すら置き去りにする。……いいか、よく見てろよ」
コウタが試しに軽くキャストの動作を見せると、シュパッという音すら置き去りにして、ルアーが店外の空へと消えた。
「……あれ、ジェット機と同じ速度で飛んでったよぉ!? コウタきゅん、ルアーが……お星様になっちゃったぁぁっ!!」
「ふっ。……これが『愛』の重さだ。重すぎて、どこまでも飛んでいっちまう。……カナ、お前なら、この『愛』を制御できるはずだ」
カナは、竿『覚悟』にリール『愛』を装着した。
極限の重量感と、物理を無視した軽やかさが共存する、歪なまでの究極装備。
「にしししっ……! 重たくて、軽くて、わけわかめで……まさにコウタきゅんとカナたんそのものだねぇっ!!」
カナがリールを巻くと、室内にボラの脂と魔力の火花が散った。
『覚悟』と『愛』。
最強の武装を整えた二人の前には、もはや伝説の主ですら、脂の乗った極上のエサに過ぎなかった。
「ここが、聖域『ドラゴンティア』か……ッ。……とんでもねえ脂の濁流だぜ」
コウタは、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
切り立った崖の下を流れるのは、水ではない。
「竜の涙」と称される、超高温・高密度の液状背脂が、激流となって渦を巻いている。
その中心部、一際巨大な脂の飛沫が上がる場所に、伝説の主が潜んでいる。
「にしししっ! コウタきゅん、見て見てぇ! カナたんの『覚悟』と『愛』が、早く脂まみれになりたいって、ビンビンに震えてるよぉぉっ!!」
カナは、背脂の蒸気でさらにテカテカになった顔を輝かせ、岸壁に立った。
彼女の手には、コウタが魂を削って選んだ『覚悟』と、摩擦ゼロの狂気『愛』が握られている。
「いいかカナ、まずは軽くテストだ。ドラグは……いや、どうせ『わけわかめ』だし関係ねえか。……よし、思い切りいけ!!」
「了解だよぉ、コウタきゅん! カナたんの『愛』……受け取ってぇぇええええええっ!!」
カナが全身のバネを使い、剛竿『覚悟』をしならせた。
瞬間、リール『愛』が超光速で回転を開始する。
摩擦係数ゼロ。それは、解き放たれたエネルギーが一切減衰することなく、すべて飛距離へと変換されることを意味する。
「シュバババババババァァァァァァァンッ!!」
衝撃波が周囲の岩を砕き、背脂の激流を真っ二つに切り裂いた。
放たれたルアーは、ジェット機すら置き去りにする初速で大空へと射出され、青い空に「脂の飛行機雲」を描き出していく。
「……あ。……コウタきゅん、ルアーが……。雲を突き抜けて、大陸の向こう側まで飛んでっちゃったにゃん……」
カナは、糸を出し続ける『愛』を手に、口を「ポカーン」と開けて空を見上げた。
あまりの飛距離。
あまりのパワー。
『愛』の重みは、もはやこの「ドラゴンティア」というフィールドすら狭すぎると言わんばかりに、世界の果てを目指して飛んでいった。
「……馬鹿野郎! 大陸まで飛ばしてどうすんだ! 海を越えちまうだろ!!」
「にしししっ! だ、だってぇ、コウタきゅんの『愛』が凄すぎて……っ! あ、でも、見てコウタきゅん! ……なんか、かかったかもぉぉぉおおおっ!!」
次の瞬間、大陸の向こうまで伸びきった糸が、目にも止まらぬ速さで「ピンッ」と張り詰めた。
それは魚ではない。
この星の、何か「とんでもないもの」を釣り上げてしまったような、異次元の手応えだった。
「……ッ、カナ!? ドラグ、ドラグを締め……いや、わけわかめだから締めるとかじゃねえッ!! 竿を、竿を離すな!!」
コウタの悲鳴が、激流『ドラゴンティア』の轟音に掻き消された。
大陸の向こう側、物理的な距離さえも「ゼロ摩擦」で踏み越えたリール『愛』が、超高周波の摩擦音……否、悦びに震える産声を上げている。
ピンと張り詰めた糸は、もはや光の線と化し、空気を切り裂く「キィィィィィィィンッ!」という金属音が、コウタの鼓膜を容赦なく叩いた。
「にしししっ! コウタきゅん、すごい……すごぉぉぉいよぉぉっ!! 糸の向こう側から、地球さんの『鼓動』が……カナたんの手のひらに、ドクドクきちゃうぅぅっ!!」
カナの足元の岩盤が、凄まじい張力によってメキメキと砕け始めた。
彼女は剛竿『覚悟』を限界までしならせ、体重を後ろへと預ける。
その背中からは、魔力と混ざり合った「特濃の脂蒸気」が噴水のように立ち昇り、激流の背脂をさらに沸騰させていた。
「(……信じられねえ。本当に大陸ごと引き寄せてやがるのか!?)」
コウタは震える脚でカナの背後に回り、その脂で滑る腰をガシッと掴んで支えた。
手汗と、背脂と、カナの熱い体温。
すべてが混ざり合い、二人は今、世界の重みを一本の糸で繋ぎ止める「共犯者の塊」と化していた。
「カナ、いくぞ! お前の『だいしゅきホールド』を、そのリールに叩き込め!! 『愛』を、一ミリも逃がすんじゃねえぞッ!!」
「あへぇぇぇっ! 了解だよぉ、コウタきゅんッ!! カナたんの愛は……宇宙一、重いんだからぁぁぁあああああッ!!」
カナが、リール『愛』のハンドルを力任せに回した。
瞬間、水平線の彼方から「ドォォォォォンッ!!」という、地殻変動を思わせる凄まじい衝撃音が響き渡る。
海の向こうから、山のような巨体……背脂を全身に纏い、虹色に輝く鱗を持つ伝説の『地龍』が、慣性の法則を無視したスピードで空を飛んでこちらへ迫ってきた。
「……ッ、きたぁぁぁぁぁ!! カナ、そのままぶっこ抜けッ!!」
「にしししっ! いっくよぉぉぉ、コウタきゅん! 『愛』の、一本釣りだぁぁぁあああああっ!!」
激流を真っ二つに割り、地龍が岸壁へと叩きつけられる。
天地を揺るがす轟音と共に、ドラゴンティア全体が「銀色の脂」の飛沫に包まれ、二人の視界を白く塗り潰していった。
「「ドォォォォォンッ!!」」
激流『ドラゴンティア』の岸壁に、大地が揺れるほどの衝撃と共に、巨大な地龍が叩きつけられた。
脂の津波が二人を洗い流し、コウタとカナは全身を銀色の粘液に塗れながらも、辛うじて体勢を立て直す。
「やった、コウタきゅん! カナたん、本当に『地龍』さんを釣り上げちゃったよぉぉっ!!」
カナは『覚悟』を片手に、脂まみれの顔を輝かせた。
そこに横たわるのは、背脂を纏い、虹色に輝く鱗を持つ、山のような巨体。
その口からは、ブレスではなく、ドロドロの液状背脂が「ゴボォ……」と吹き出している。
「いや、まだ終わってねえ! 見ろ、カナ! こいつ、まだ生きてやがる!!」
コウタの叫びと同時に、地龍の目がカッと見開かれた。
怒りと屈辱に燃える、血走った眼光。
「グォォォォォオオオオッ!!」という咆哮が、脂の激流を震わせ、周囲の崖を崩落させる。
「ひぎぃっ!? コウタきゅん、なんか、暴れてるよぉぉっ!!」
地龍が巨体をくねらせ、脂の鱗が砕けるような音を立てて暴れ始めた。
尾の一振りで、岸壁の岩がバターのように砕け散り、巨大な背脂の波が二人を飲み込もうと迫る。
「危ねえ、カナ! 離れるんだ!!」
コウタは咄嗟にカナを庇い、二人で脂の波を避けようとする。
しかし、足元は脂でヌルヌルと滑り、思うように動けない。
「にしししっ! させないよぉ、ドラゴンさんっ!!」
カナは『覚悟』を杖のように地面に突き刺すと、全身の脂をブーストさせた。
その体から、さらに濃厚な脂蒸気が噴出し、周囲の背脂を吸い上げ始める。
「『だいしゅきホールド・防御形態!!』」
カナの魔力と脂が一体となり、巨大な「背脂の盾」を瞬時に具現化させた。
地龍の尾から放たれた脂の津波が、その盾に激突する。
「ドォォォォォンッ!!」という衝突音と共に、辺り一面に脂の飛沫が降り注いだ。
「……すげえな、カナ。……お前、こんな魔法も使えたのか」
コウタは、脂の雨の中で目を丸くした。
普段の奔放なカナからは想像もできない、圧倒的な防御力。
それは、自分の大切なものを守るために奮い立つ、覇王の真の力だった。
「コウタきゅん……! カナたん、もっと、もっと脂まみれになりたいのぉ! このドラゴンさん、脂が最高級にゃん!!」
カナは脂の盾を構えたまま、地龍の巨体を見つめた。
その瞳には、恐怖ではなく、極上の獲物を前にした「純粋な食欲」が煌めいている。
「(……マジかよ。こいつ、まだ食う気でいやがるのか……!)」
「……コウタきゅん。これ、攻撃じゃないよぉ」
カナの背中から立ち昇る蒸気が、どす黒い紫へと変色した。
地龍が放つ、数千度の高熱を帯びた「沸騰背脂ブレス」を、彼女は『覚悟』を一本の芯にして、正面から受け止める。
だが、その盾は衝撃を逃がしていない。
むしろ、龍の生命力そのものである「脂」を、狂ったような流速で吸い込み、自分の魔力へと変換ていた。
「(……こいつ、地龍の『熱』すら、自分の『飢え』で冷やしてやがるのか……!?)」
コウタは戦慄した。
カナに触れている腕から、熱ではなく、魂が凍りつくような「欠乏」が伝わってくる。
地龍は、自分の誇りである脂を、底なしの沼に注ぎ込むような恐怖に目を見開いた。
虹色だった鱗は瞬く間に白濁し、山のような巨体が、内側から萎んでいくように震える。
「にしししっ! もっと、もっとおくれよぉ……。カナたん、まだ……全然、足りないんだもん……っ!!」
「グ、グオォォォ……ッ!?」
地龍の叫びは、もはや悲鳴だった。
脂を奪われ、内圧を失った龍の肉体が、自重に耐えかねてミシミシと崩壊を始める。
カナの吸引は、慈悲なき強制的な収奪だった。
「……今だ、コウタ。……こいつ、もう『中身』が空っぽだぜ」
カナの声が、一瞬だけ本来の「覇王」の冷徹さを取り戻した。
コウタは、脂でヌルつく剣を正眼に構える。
奥義などいらない。
ただ、カナが削り出し、剥き出しにした「龍の芯」へ、自分のすべてを叩き込むだけだ。
「……ああ。……お前の食べ残し、俺が片付けてやるよ」
コウタは地面を蹴った。
脂の膜を滑るように加速し、地龍の喉元――唯一、脂が枯渇し、脆くなった鱗の隙間へと飛び込む。
剣先が吸い込まれるように、地龍の急所へと突き刺さった。
「――――ッ!!」
声にならない絶叫と共に、地龍の巨体が内側から爆散した。
溢れ出したのは鮮血ではなく、カナに吸い尽くされ、灰色の塵と化した「脂の残滓」。
二人は、降り注ぐ死の灰の中で、互いの存在だけを確かめるように立ち尽くした。
「……はぁ、はぁ……。終わった……のか……?」
コウタは剣を杖代わりに、脂の残滓が雪のように降り積もる岸壁に膝をついた。
目の前には、内側から吸い尽くされ、抜け殻となった地龍の巨大な骸が横たわっている。
先ほどまでの圧倒的な威容は消え、そこにあるのは、精製し尽くされた『純度100%の結晶脂』が放つ、冷たい輝きだけだった。
「にしししっ! コウタきゅん、見て見てぇ! これ、ドラゴンさんの『魂』だよぉぉっ!!」
カナは、地龍の心臓部があった場所から、黄金色に透き通った巨大な塊を抱え上げてきた。
それはもはや脂という概念を超え、市場に出れば一国が買えるほどの価値を持つ、伝説の換金素材『地龍の龍脂玉』だった。
「……ああ。……これだけありゃ、あの『覚悟』と『愛』の支払い、お釣りがくるな」
コウタは震える手でメガネを拭い、苦笑した。
店主には「出世払いだ」と啖呵を切って持ち出してきたが、まさか初陣でその代金を、文字通り「命がけ」で釣り上げるとは。
「……カナ。……ありがとな。お前が支えてくれなきゃ、今頃俺は、あの世でボラになってたぜ」
「何言ってるのぉ、コウタきゅん! カナたんにあの竿とリールをくれたのは、コウタきゅんだよぉ? これは、二人の『愛』の共同作業の結果なんだからぁっ!!」
カナは龍脂玉を抱えたまま、脂まみれの体でコウタにドロリと飛びついた。
その衝撃で、コウタの懐にあった空っぽの財布が、虚しく地面に落ちる。
だが、二人の手には、どんな金貨よりも重い『覚悟』と『愛』の感触が、確かに刻まれていた。
「(……借金完済。……さて、次はどの海を『愛』で壊しに行くかね)」
コウタは、カナの脂の匂いに包まれながら、遠く沈みゆく夕日を見つめた。
「……親父、これで文句ねえだろ。……『地龍の龍脂玉』だ。釣り銭は……その辺のボラでも買って、猫にでも食わせてやってくれ」
コウタは釣り具店『銀鱗堂』のカウンターに、黄金色に輝く巨大な塊を「ドォォォォンッ!!」と叩きつけた。
店主が腰を抜かし、泡を吹いて倒れるのを背に、二人は堂々と店を後にする。
手元には、支払いを終え、真の相棒となった『覚悟』と『愛』。
コウタの懐は今、地龍の残りの素材を換金した、見たこともないほどの金貨で膨らんでいた。
「にしししっ! コウタきゅん、カナたんお腹ペコペコだよぉ! 今日は街で一番お高い、あの『白銀の真珠亭』で、脂のフルコース食べちゃおうよぉぉっ!!」
「……ああ、今日くらいは贅沢してもバチは当たらねえな。……行くか、カナ」
二人は鼻歌(と駆動音)を響かせながら、貴族や大商人が集う超高級料亭へと向かった。
だが、その豪奢な門をくぐろうとした瞬間。
真っ白な手袋をはめた門番が、鼻をヒクつかせ、汚物をを見るような目で二人を遮った。
「……止まりなさい。ここは選ばれし者が集う聖域です。……そのような、下水とボラと、得体の知れない脂の臭いを撒き散らす『不潔な浮浪者』が足を踏み入れて良い場所ではありません」
「(……ッ!?)」
コウタの体が、屈辱でピクリと震えた。
自分はいい。チー牛と呼ばれ、蔑まれることには慣れている。
だが、隣で目を輝かせていたカナの顔が、みるみるうちに「無」へと変わっていくのを見て、コウタの血管が怒りで逆流した。
「……おい、今、なんて言った。……こいつは、伝説の地龍を……ッ」
「にしししっ。……コウタきゅん、いいよ。……このおじさん、カナたんたちの『愛』が……足りないみたいだもんねぇ……♡」
カナの声が、地龍を屠った時と同じ「深淵のトーン」に落ちた。
彼女がスッと手を広げると、料亭の白亜の外壁に、カナの影が巨大な「触手のような脂」となって這い上がっていく。
「ねぇ、おじさん……。このお店、とっても美味しそうだねぇ……。カナたん、まるごと……『だいしゅきホールド』、してあげようか……?」
「ひっ、ひぎぃぃっ!? な、何だこの脂は! 建物が、建物がヌルヌルに……溶けていくぅぅっ!!」
カナの魔力が暴走し、高級料亭『白銀の真珠亭』が、一瞬にして特濃の背脂でコーティングされ始めた。
門番が腰を抜かして逃げ出す中、カナは恍惚とした表情で、建物ごと抱きしめるように指先をくねらせる。
「……カナ、待て! 店ごと食うな! 俺たちの祝杯が物理的に消滅しちまうだろ!!」
『 卑 屈 な 凱 旋 、 あ る い は チーズ 牛 丼 の 多 幸 感 』
「さ、さーせんっしたぁぁぁあああッ!!」
コウタは直角に近いお辞儀を門番に叩きつけると、脂で溶け始めた高級料亭の壁から無理やりカナを引き剥がした。
地龍を屠った覇王の威厳など、一秒で霧散した。
彼はカナの脇の下に腕を差し込み、ジタバタと暴れる彼女を小脇に抱えて、高級住宅街を脱兎のごとく駆け抜ける。
「コウタきゅぅぅん! あのおじさん、カナたんたちのこと臭いって言ったんだよぉぉ! ギトギトの刑に処すべきだよぉぉぉっ!!」
「馬鹿野郎! あんな場所で暴れたら、金貨を全部罰金で持っていかれちまうだろ! 俺らには俺らにふさわしい、最高の聖域があるんだよッ!!」
二人が肩で息をしながら辿り着いたのは、街の片隅でオレンジ色の看板を掲げる24時間営業の牛丼チェーン店だった。
洗練された静寂などない。
そこにあるのは、煮込まれた肉の脂の香りと、店員の無機質な「いらっしゃいませー」の声。
そして、コウタにとって実家よりも落ち着く、低コストな幸福の気配だった。
「……すんません。『チーズ牛丼・ヘブン盛り』二つ。あと、背脂追加オプション、あるだけ全部」
「「お待たせしましたぁ」」
運ばれてきたのは、もはや肉の姿が見えないほど、三種類のチーズが溶岩のように覆い被さった巨大な丼だった。
コウタの執念で追加された背脂が、チーズの隙間から「にちゃぁ……」と溢れ出している。
「にしししっ! コウタきゅん、これだよぉ……! カナたん、こういう『本物の脂』が食べたかったのぉぉっ!!」
「……ふっ。……食え、カナ。これが俺の、世界で一番好きな景色だ」
二人は同時にスプーンを突き立て、チーズと脂の絡まった米を口いっぱいに放り込んだ。
地龍の脂のような神秘性はない。
だが、このジャンキーで、暴力的で、血管が悲鳴を上げるような背徳的な旨味こそが、戦いを終えた二人の魂を、ヘブン(天国)へと導いていく。
「(……ああ、これだ。……地龍の龍脂玉なんていう大層なもんより、俺にはこの、三五〇円の追加トッピングが一番似合ってやがる……)」
コウタは、チーズで口元をドロドロにしたカナの笑顔を眺めながら、自分もまた、ヘブン盛りを無我夢中でかっ喰らった。
高級料亭に拒絶された二人の、これが最高に「お似合い」な勝利の祝宴だった。




