5
『燻る秘め事、あるいは磯の香の誘惑』
「(……コウタきゅんに、バレてないよね……っ)」
宿へと戻る道すがら、カナはコウタの半歩後ろを歩きながら、自身の懐をそっと押さえた。
そこには、四郎系ラーメンの強烈な余韻にも負けない、別の「香り」を放つ小さな包みが隠されている。
「(カナたん……実はお魚しゃん、ダイシュキなんだもん……っ。特に、くさやや干物系が……だいしゅきホールドなんだよぉ……♡)」
カナは恍惚とした表情で、こっそりと懐の中の包みに鼻を近づけた。
凝縮された海の脂と、発酵がもたらす禁断の芳香。
背脂とはまた違う、脳の芯を直接痺れさせるような「熟成の魔力」が、彼女の理性をとろつかせていく。
「(……にしししっ。これを夜中にこっそり炙って食べたら……あ、頭がしびれちゃうよぉ……っ♡)」
想像しただけで、カナの口元からは新たな「黄金の雫」が溢れ出し、夜道にヌルリと滴り落ちる。
「おいカナ、何ニヤニヤしてんだ? さっきから歩くのが遅いぞ」
「ひ、ひぎぃっ!? な、なんでもないよぉ! コウタきゅんの背中が、あまりにも『漢』で、カナたん見惚れちゃってただけだもんっ!!」
カナは慌てて懐を隠し、脂で滑る足を必死に動かしてコウタに並んだ。
「……ふーん。まあ、お前が大人しいのは珍しいけどな」
「えへへ……。コウタきゅん、ダイシュキっ♡」
カナは「秘密」を抱えたまま、コウタの腕にヌルリと絡みついた。
背脂の鎧の下に、さらなる「磯の深淵」を隠し持っているとは露ほども知らないコウタを、カナはどこか共犯者のような、熱い視線で見つめ続けるのだった。
「……スゥ……スゥ……」
宿のベッドで、コウタが深い眠りについている。
四郎系ラーメンの猛攻に耐え、脂とニンニクの熱に浮かされながら、彼は今、静かに「脂の平穏」の中にいた。
「(……コウタきゅん、寝たかな……?)」
闇の中で、カナが音もなく(ただし体表面の脂がシーツに張り付くヌチャッという音と共に)身を起こした。
その瞳は、暗闇の中で獲物を狙う獣のように、あるいは狂おしい恋に落ちた乙女のように、怪しく発光している。
「(にししし……。今こそ、カナたんの『黄金時間』だよぉ……っ♡)」
カナは羽の隙間から、大切に隠し持っていた「特選・超熟成くさや」の包みを取り出した。
封を解いた瞬間、密閉されていた「海の呪い」のような異臭が、部屋の脂蒸気と混ざり合い、化学反応を起こす。
「(……っ!! これ、これだよぉ……。鼻がもげちゃいそうなくらい、いい匂い……っ!!)」
本来なら炙って食べるべき代物だが、今のカナにそんな猶予はない。
火を使えばコウタが起きてしまう。
カナは、その硬く、黒光りする「禁断の肉片」を、生身のまま口へと運んだ。
「(……もぎゅっ……)」
咀嚼した瞬間。
塩分と、発酵が極まったアミノ酸の爆弾が、カナの口内で炸裂した。
脳漿を直接、塩の針で突き刺されるような衝撃。
鼻腔を突き抜ける、深海のアビスより深い「あの匂い」。
「(……はぁっ、はぁぁあ……っ!! あ、あへぇぇぇぇ……っ!!)」
カナはあまりの刺激に、声を殺しながら全身を激しく震わせた。
背脂でコーティングされた舌に、くさやの強烈な旨味がヌルリと絡みつく。
頭の中が真っ白になり、意識の端々が火花を散らしてショートしていく。
「(……しびれる、しびれちゃうよぉ……。コウタきゅんの知らないところで、カナたん、こんなに……いけないこと、してるぅ……っ♡)」
カナは涙目になりながら、悶絶のあまりベッドの上で「の」の字にのたうち回った。
背脂とくさや。
地上最強の「重」と「臭」が、カナの内側で混ざり合い、彼女をさらなる「向こう側」へと突き落としていくのだった。
『 悪 夢 の 目 覚 め 、 あ る い は 異 臭 の 結 界 』
「……ッ!? なんだ、この……この世の終わりみたいな……っ!!」
コウタは、暴力的なまでの「死の予感」に跳ね起きた。
鼻腔を突き抜けるのは、昨夜の四郎系を凌駕する、強烈な発酵臭と濃厚な脂が混ざり合った「未知の瘴気」。
脳が瞬時に警鐘を鳴らし、生存本能がコウタを戦場へと引き戻した。
「おいカナ! 起きろ! 魔物の奇襲だ……っ、それも、とびきりヤバい奴だぜ……!!」
コウタは枕元に置いていた剣をひったくり、脂で滑る床を這うようにして立ち上がった。
視界は、カナが昨夜から発し続けた脂蒸気と、謎の異臭成分が化学反応を起こし、黄緑色の「毒霧」のようなものが部屋の隅に淀んでいる。
「……ふぇ? コウタきゅん……おはよぉ……あへぇ……」
「挨拶してる場合か! 感じねえのか、この死臭を! 新種の腐肉食いか、それとも古龍のブレスか……っ!!」
コウタは窓を蹴破らんばかりの勢いで身構え、部屋の闇を睨みつけた。
だが、その視線の先で、カナはベッドの上で「くさや」の残滓を口角につけたまま、まだ夢うつつで自分を指差している。
「……んぅ? そんなの、どこにもいないよぉ? ここにいるのは、世界で一番コウタきゅんを愛してる、カナたんだけだもん……♡」
「……お前、その口の横についてる『黒い破片』は何だ」
コウタの瞳が、スッと細められた。
カナの周囲に漂う、明らかに「四郎系」とは系統の違う、深淵の海の如き、熟成され尽くした死の香り。
コウタは剣を握り直したまま、一歩、また一歩と、愛する女(と、彼女が発する強烈な防衛結界)へと歩み寄った。
「……カナ。……正直に言え。お前、昨夜……何をした?」
「にしししっ! ……ないしょだよぉ、コウタきゅんっ♡」
カナは脂でテカテカの顔を背け、乙女の恥じらいを込めて「ぷい」と頬を膨らませた。
だが、その背後から立ち昇る「くさや」の余韻は、もはや隠しきれるレベルを遥かに超え、宿の壁を侵食し始めていた。
「……カナ。お前、さっきからその口の端についてるの……干物だよな。……魚、好きだったのか?」
コウタは剣を鞘に収めると、呆れを通り越して、どこか意外そうな表情でカナを見つめた。
くさやの猛烈な残り香に鼻を曲げながらも、その瞳には、今まで見せたことのない種類の「熱」が宿っている。
「……ひぎぃっ!? ば、バレちゃったぁ……。そうだよぉ、カナたん、お魚しゃんダイシュキなの。……引かないで、コウタきゅん……っ」
カナは脂で濡れた手で顔を覆い、巨躯を縮めて震えた。
だが、次の瞬間、コウタの口から漏れたのは、拒絶ではなく「低く、野性的な笑い」だった。
「……フン、そうかよ。……実を言うと、俺は『釣り』が趣味なんだ。……まさか、お前と魚の話ができるとは思わなかったぜ」
「…………えっ!?!? コウタきゅん、釣り好きなのぉぉっ!?!?」
カナは驚きのあまり、ベッドを派手に軋ませて飛び起きた。
衝撃で、彼女の体から新たな背脂が「ピチャッ」と壁に飛び散る。
「ああ。……獲物が針にかかった時の、あの指先に伝わる痺れるような感覚……。そして、釣り上げたばかりのピチピチした銀鱗を、その場で捌く時の喜び……。……たまらねえんだよ」
コウタは遠い目をして、虚空で竿を振るような動作を見せた。
その指先は、戦う時よりも繊細に、獲物との「対話」を思い出しているようだった。
「あ、あへぇぇ……っ♡ コウタきゅん、釣りしてる時もそんなにカッコいいのぉぉっ!? カナたん、コウタきゅんが釣ったお魚、全部その場で丸呑みしちゃうよぉぉっ!!」
「丸呑みすんな、味わえよ! ……よし、決まりだ。次の目的地は川か海だ。……俺が釣り、お前が食う。……『獲れたての脂』を、とことん堪能させてやるよ」
「にしししっ! コウタきゅん、ダイシュキーっ!! カナたん、お魚しゃんのために、お口をテラマウンテン・オープンにして待ってるねぇぇっ!!」
二人の新たな共通点、「魚」。
背脂とガーリック、そして今度は「獲れたての海の幸」という新たな要素が、二人のギトギトな関係をさらに深く、そして香ばしく塗り替えていく。
「……しゃあ! かかったぜ……ッ!!」
海風に吹かれ、コウタの持つ釣り竿が満月のように大きくしなった。
波打ち際で暴れるのは、まるまると太った巨大な「寒ボラ」。
世間では泥臭いと敬遠されることもあるが、その身に蓄えられた脂の乗りは、ある意味で四郎系ラーメンにも匹敵する。
「コウタきゅん、すごぉぉいっ! ピチピチしてるぅ! カナたん、もう我慢できないよぉぉっ!!」
「おい、待てカナ! 今引き上げるから……ッ、うわっ!?」
コウタが釣り上げるより早く、カナが「だいしゅきホールド」の体勢で波打ち際へダイブした。
彼女は暴れるボラを素手でガシッと押さえ込むと、鋭い爪で一閃。
一瞬にして解体されたボラの身からは、太陽の光を反射して虹色に輝く「天然の脂」が溢れ出した。
「あはぁ……っ♡ 見てコウタきゅん、この脂の層! テラマウンテン級だよぉ! いただきまぁぁすっ!!」
「おいカナ、それ泥臭いだろ! ボラは血抜きと下処理をしっかりしねえと……っ」
コウタの制止も虚しく、カナはボラの身をバリバリと豪快に貪り始めた。
だが、その口元から漂うのは、予想に反して爽やかな「花の香り」と「清涼感のある魔力」だった。
「チッチッチぃ! コウタきゅん、甘いよぉ! ちゃんと、カナたん特製の『マジカル塩水』と『マジカルお酒』で洗ってるんだからねっ♡」
カナは誇らしげに、指先から溢れ出すキラキラした液体の瓶を振ってみせた。
彼女の魔力によって純化された塩水とお酒が、ボラの泥臭さを一瞬で中和し、純粋な「脂の旨味」だけを抽出しているのだ。
「……それ、マジカルいるか? 普通の塩水と酒で十分じゃねえのか?」
コウタは呆れ顔で、自分の獲物を無慈悲に(かつ魔法的に)美味しくいただく覇王を見つめた。
「いるもんにぃ♡ コウタきゅんが釣ってくれたお魚しゃんだもん! 最高の魔法で、最高の脂にして食べなきゃ失礼だよぉっ!! うみゃああああ……っ!!」
カナは魔法と脂が混ざり合った至高の刺身を咀嚼し、再び頭を痺れさせて波打ち際で転げ回った。
コウタは溜息をつきながらも、次なる獲物を狙って再び竿を振る。
潮風と脂、そしてほんの少しのマジカルな香りが、二人の新しい釣り場を支配していた。
「ねぇっ! コウタきゅん、釣り上手すぎない!? また釣ったよぉぉっ!!」
カナは波打ち際で、脂の乗ったボラを両手に抱えながら飛び跳ねた。
コウタの足元には、すでに数匹の巨ボラが転がり、銀色の鱗を月光に晒している。
そのどれもが、針を飲み込む暇もないほど完璧なタイミングで仕留められていた。
「ふっ。……そんなこと、ないぜ……ええぇいっ!!」
コウタは謙遜を口にしながらも、その腕は淀みなく、獲物を捉えた竿を力強く振り抜いた。
空を切る鋭い音と共に、海面から再び巨大な銀の塊が、重力に逆らって「ぶっこ抜かれ」てくる。
「「ドォォォォォンッ!!」」
砂浜に叩きつけられたのは、これまでのボラを遥かに凌ぐ、丸太のような巨体だった。
暴れる魚体から飛沫が舞い、コウタとカナの頬を新たな海の脂で濡らしていく。
「にしししっ! すごぉぉい、コウタきゅん! もう、カナたんのお口が追いつかないよぉぉっ!!」
「……フン、まだだ。……お前の胃袋が満足するまで、海を空っぽにしてやるよ」
コウタは不敵な笑みを浮かべ、再び針に極太の餌をセットした。
釣りの才能すら、カナという「底知れぬ飢餓」を満たすための道具に過ぎない。
コウタは鋭い眼光で暗い海面を睨み据え、次なる一撃を叩き込むべく、静かに、けれど激しく竿を構え直した。
「……おい、カナ。これ、ちょっとおかしくねえか?」
コウタは引き上げた竿を握ったまま、戦慄に目を見開いた。
月光に照らされた海面が、銀色にうごめいている。
それは波の反射ではない。
数千、数万というボラの背中が隙間なく海面を埋め尽くし、もはや水面が見えないほどの「ボラ絨毯」と化していた。
「ひぎぃっ!? 投げなくても、針を置くだけで釣れちゃうよぉぉっ!!」
コウタが軽く竿を振るたびに、二匹、三匹とボラが芋蔓式に「ぶっこ抜かれ」てくる。
もはや釣りの醍醐味などない。
それは、空から降ってくる銀色の脂をひたすら処理する、終わりのない重労働だった。
「コウタきゅんも、ほら! はい、あーんっ♡」
カナは「マジカル塩水」で一瞬にして洗浄したボラのハラスを、コウタの口元へ突き出した。
滴る脂が、コウタの唇をテカテカに上書きする。
「……もぐっ。……ッ、うみゃあああああああ!!」
あまりの鮮度。
そして、過剰なまでの「天然の脂」の暴力。
コウタの脳内で、四郎系ラーメンのニンニクと、ボラの濃厚な旨味が激突し、爆発した。
「うめえ……うめえよカナ! だが、減らねえ! 釣っても釣っても、ボラが海から湧き出してきやがる……っ!!」
「にしししっ! いいよコウタきゅん、もっと釣ってぇ! カナたんが全部、魔法で最高の脂に変えてあげるからぁっ!!」
背後には、すでにカナの身長を超えるほどの「ボラの山」が築かれていた。
二人の周囲は、飛び散る鱗と脂、そしてマジカルな酒の香りに包まれ、外界から遮断された「銀色の聖域」へと変貌していく。
「(……俺は、一体何を釣っているんだ。……魚か、それともこの『狂気』か)」
コウタは自問自答しながらも、反射的に次の獲物をぶっこ抜いた。
脂にまみれ、魚臭さに溺れながら、二人は終わりのない宴の深淵へと、ヌルリと沈んでいった。
「……ふぅ、一回お片付けしなきゃ。よいしょぉっ!」
カナは、山のように積み上がったボラの頭と骨、そして無数の尻尾を両腕で抱え上げると、豪快に海へと放り投げた。
「ドッシャァァァンッ!!」という、巨大な水柱が夜の海に立ち昇る。
「「…………ッ!?」」
その直後だった。
あれほど海面を埋め尽くし、銀色の絨毯のようだったボラたちが、一斉に反転した。
同胞たちの残骸が降ってきた恐怖に、無限の軍勢がパニックを起こし、猛スピードで沖へと逃げ去っていく。
「…………あ」
「…………あらら。やっちゃいましたね、奥さん」
コウタは、空っぽになった釣り針をぶら下げたまま、静まり返った海面を呆然と見つめた。
つい数秒前までの熱狂が嘘のように、波打ち際にはただ、穏やかで冷たい夜の波だけが打ち寄せている。
「ああああん! カナたんの、カナたんのボラちゃんたちがぁぁっ!!」
カナは砂浜に膝をつき、遠ざかっていく銀色の光を求めて、脂でベタベタの手を虚空に伸ばした。
「だいしゅきホールド」で抱きしめるべき獲物は、もう一匹も残っていない。
「……ま、あんなに捨てりゃ、魚だってビビるだろ」
コウタは苦笑いしながら、脂でヌルつく釣り竿をゆっくりと畳んだ。
「……にしししっ。……でもぉ、最後の一欠片まで、ちゃーんと『あへぇ』って味わったから、後悔はしてないもんっ!!」
カナはすぐに立ち直ると、脂と鱗でコーティングされた顔で、満足げに鼻を鳴らした。
ボラはいなくなった。
だが、二人の胃袋の中には、確かな重みと、暴力的なまでの「天然の脂」が今も熱く鎮座している。
「……帰るか。お前、歩くたびにボラの匂いがすんぞ」
「えへへ……。コウタきゅんこそ、全身『お魚しゃんのラメ』でキラキラだよぉ……♡」
二人は、静かになった海辺を背に、月光に照らされた「脂の轍」を再び刻みながら、宿へと歩き出した。
「……ふぅ。食った食った。……けど、そういやボラと言えば、卵も獲っておけばよかったな。あれも脂が乗ってて、酒の肴には最高なんだが……」
コウタが夜風に当たりながら、ふと独り言のように呟いた。
その瞬間、隣を歩いていたカナの動きがピタリと止まる。
「…………えっ?」
「あ?」
「……からしゅみ……? ボラちゃんの、たまごしゃん……?」
カナの瞳が、暗闇の中でらんらんと怪しい輝きを放ち始めた。
脳内で「カラスミ」というワードが「極上の脂の塊」として即座に変換され、彼女の食欲という名のエンジンが、再びレッドゾーンまで吹き上がる。
「からしゅみぃぃっ!! ダイシュキ! カナたん、カラスミだいしゅきホールドぉぉぉおおおおおっ!!」
「うおっ!? おい、カナ!?」
カナは猛然と反転すると、宿とは逆方向、先ほど離れたばかりの海に向かって、全速力で突進を開始した。
巨躯が夜風を切り裂き、その振動で地面に残った背脂が「ピチャピチャ」と音を立てる。
「待て、カナ! もう全部捨てちまっただろ! 諦めろ!!」
「やだぁぁぁ! カナたん、カラスミさんと結婚するぅぅ! 待ってて、カナたんの黄金の宝物ぉぉっ!!」
「無理だっての! 魚はもう一匹もいねえよ!!」
コウタは慌ててその後ろ姿を追いかけ、ヌルリと滑るカナの腰に必死でしがみついた。
だが、カラスミへの執着に燃える覇王の突進は止まらない。
「離してコウタきゅん! 今ならまだ、波打ち際に落ちてるかもしれないもんっ!!」
「あるわけねえだろ! ……ったく、お前は本当に『脂』のことになると見境がねえな!!」
月の下、カラスミを求めて暴走するカナと、それを必死で引き止めるコウタ。
二人のドタバタな影は、静まり返った夜の街道に、再びギトギトで滑稽な、けれどどこか楽しげな軌跡を刻んでいくのだった。
「カナたんね、コウタきゅんといっしょに……すきなことできて、とってもうれしいよぉ……♡」
カラスミへの未練をコウタに「だいしゅきホールド(物理)」で制止され、ようやく落ち着きを取り戻したカナが、トロンとした目でコウタを見つめた。
彼女の頬には、まだボラの鱗が宝石のように一枚、キラリと張り付いている。
「……。まあ、俺も釣りに理解あるやつと出会えて、正直うれしいわ」
コウタは少し照れくさそうに視線を逸らし、愛用の竿を肩に担ぎ直した。
「ほんとに!? えへへ……うれしいなぁ……っ」
「ああ。女で釣りなんて、なかなかやらねえだろ?……って、お前は釣る前から食ってばっかだったけどな」
「にしししっ! コウタきゅんだって、ボラボラボラぁ! って、すっごくおいしそうに食べてたもんねぇ?」
「……否定はしねえよ。あんなに脂の乗ったボラは初めてだった」
コウタは足を止め、月明かりに照らされた波の音に耳を傾けた。
ただ食らわせるだけでなく、いつかはこの「覇王」に、獲物を仕留める瞬間のあの痺れる感覚も教えてやりたい。
そんな思いが、胸の奥で静かに熱を帯びる。
「……カナ。今度は、二人で釣りしようぜ」
「…………っ!!」
カナの動きが、今日一番の衝撃を受けたかのように止まった。
食べる専門だった彼女にとって、それは「コウタの世界」への招待状だった。
「ふたりで……? カナたんも、コウタきゅんとお揃いの竿、持ってもいいの……?」
「ああ。お前なら、とんでもねえ大物を引きずり出しそうだしな」
「あへぇぇぇ……っ♡ やる、やるよぉ! カナたん、コウタきゅんにビシバシ教えてもらって、海中の脂を全部釣り上げちゃうんだからぁっ!!」
カナは興奮のあまり、コウタの腕をヌルリと、けれど今度は優しく抱きしめた。
「……あ」
「……ッ、おわっ!?」
感動的な沈黙を切り裂いたのは、物理法則という名の無慈悲な現実だった。
互いの手のひらに蓄積された、四郎系の背脂と、ボラの濃厚な脂。
「ぎゅっ」と力を込めた瞬間、二人の手は結合を拒む磁石のように、あらぬ方向へとヌルリと射出された。
「あははははっ! コウタきゅん、手が、手がツルツルだよぉぉっ!!」
「お前こそ、どんだけ脂溜め込んでんだよ! 全然力が入らねえっ!!」
繋がっていたはずの手が虚空を掻き、勢い余って二人は左右の茂みへと、まるでバターを塗った石鹸のように滑り込んでいった。
「……くっ、ふふ……っ。はははははっ!!」
「にししししっ! あーあ、せっかくのいいシーンだったのにぃっ!!」
泥だらけ、脂だらけのまま、二人の笑い声が静かな街道に響き渡る。
弱さを晒す一歩手前で訪れた、滑稽なまでの「日常の歪み」。
けれど、その「滑り」こそが、今の二人にとっては心地よい絆の証だった。
「……ったく。ま、俺たちらしいか。……ほら、立てよ。もうすぐ宿だ」
コウタは苦笑いしながら立ち上がり、今度は滑らないように、カナの服の袖を掴んで引き寄せた。
「(……コウタきゅん、やっぱり優しいなぁ……♡)」
カナは幸せを噛みしめながら、コウタの後ろ姿を追う。
夜の闇の中、二人の体からは、背脂とボラ、そして「くさや」の余韻が複雑に混ざり合った、この世に二つとない濃厚な香りが立ち昇っていた。
「(……カナたん、もう嘘はつかないよぉ。コウタきゅんと一緒に、もっともっと……美味しい『脂の世界』を釣るんだからぁ……っ!!)」
宿の灯りが見えてくる。
明日の朝、この「異臭」に包まれた自分たちがどんな顔をして目覚めるのか。
そんな不安さえも、今の二人にとっては、分かち合える愉快な「秘め事」に過ぎなかった。




