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『絶対滑走の聖域、あるいは四郎系の蜃気球』


「……待て、カナ。この先は、何かが違う」


コウタは足を止め、視界の先にある一軒の店舗を睨みつけた。

まだ店構えすら見えていないというのに、大気から伝わってくる「圧」が尋常ではない。


「コウタきゅん……カナたん、怖いよぉ。なんだか、脂の津波に飲み込まれるみたい……っ!!」


カナもまた、その巨大な翼を震わせて立ち尽くしていた。

二人の脳内には、凄まじいイメージが逆流してくる。

地平線の彼方から押し寄せる、高さ百メートルの背脂の壁。

そして、固形燃料のごとき背脂の塊が、青白い炎を上げて燃え盛る地獄のキャンプファイヤー。

本能が、生存本能が、コウタの魂に激しい警鐘を鳴らしていた。


「(……い、行くな……。この先へ行けば、俺たちはもう、人間には戻れない……っ!)」


コウタは決死の覚悟で、その「脂の魔境」へ一歩を踏み出そうとした。

だが。


「ぐっ……お、おおっ!? なんだ、この重力は……っ! 進めねえ……っ!!」


どれほど力を込めても、体が前に進まない。

それどころか、足元が何かに捉えられたように、その場で激しくバタつくだけだ。


「コウタきゅん! カナたんも……カナたんも、見えない力に押し戻されて、前に行けないよぉぉっ!!」


二人は必死に、目に見えない「運命の壁」と戦った。

必死に足掻き、地を蹴り、もがき続けること数分。


「………………なあ、カナ」


「……なに、コウタきゅん」


「これ、ただの『脂』だよな。昨夜の俺たちが撒き散らした脂で、道がスケートリンクになってるだけだよな」


コウタが冷静になって足元を見ると、そこには自分たちの体から滴り落ちたバターとオイルが、街道を完璧にコーティングしていた。

前に進もうと力を入れれば入れるほど、摩擦係数ゼロの地面は彼らを無慈悲に元の場所へとスライドさせる。


「……あ。ホントだぁ。カナたん、てっきり四郎系の覇気かと思っちゃったぁ♡」


「……フン、紛らわしい脂だぜ。おいカナ、そこにあるヤサイのクズでも敷いて足場にしろ! 四郎系を前に、足踏みしてる暇はねえんだよ!」


二人は己の脂に足を取られるという、あまりにも情けない理由で戦慄していた自分たちを棚に上げ、再び(横滑りしながら)伝説の暖簾へと向かって進み始めた。



 『脂の濃霧、あるいは白濁の聖域』


「……よし、行くぞカナ。これが伝説の……四郎系だ」


コウタは、脂でヌルリと滑る右手に力を込め、重厚な木製の引き戸を掴んだ。

覚悟を決め、一気にその扉を開け放つ。


「「…………ッ!?」」


開いた瞬間、二人の視界は「白」に染まった。

それは雪のような清純な白ではない。

店内の異常な高火力で熱せられ、微粒子となって空間を埋め尽くした「霧状の背脂」による、完全なるホワイトアウトだった。


「……っ、前が見えねえ……! なんだこの湿度……肌に、脂が直接結晶化してやがる……っ!」


「あ、あふぅ……っ♡ コウタきゅん、息をするだけで……肺の中が、バターで満たされていくみたいだよぉ……っ!!」


湿度は、驚異の「脂一〇〇パーセント」。

吸い込む空気のすべてが、高密度の脂質を伴って肺胞をコーティングしていく。

視界を遮る白濁の霧の向こう側から、ドロドロと煮え立つ「深淵のスープ」の音と、麺を啜る亡者たちの「ズズッ……」という断末魔のような音だけが聞こえてくる。


「……フン、この視界の悪さ……。戦場を思い出すじゃねえか」


コウタは目を細め、油膜で曇った視界を拭うこともせず、脂の霧の中へと一歩踏み出した。

一歩進むごとに、服が、髪が、そして魂が、四郎系の「圧」によってさらにギトギトに塗り替えられていく。


「いらっしゃい」


霧の奥底から、揚げ物のように黄金色に輝く店主の声が響く。

もはやそこは飲食店ではない。

脂を信奉する者だけが辿り着ける、最果ての祭壇だった。



「……おい、おっさん。メニューはどこだ。……まさか、この霧で見えねえわけじゃねえよな」


コウタは脂の蒸気に咽せながら、カウンター越しに鎮座する店主、四郎を睨みつけた。

店主は、自身の脂でテカテカに光る無骨な指で、壁の一点を示した。


「うおっ!? コウタきゅん、見て! あそこに……一つだけ、文字が書いてあるよぉっ!」


カナが脂で濁った目を凝らして叫ぶ。

白濁とした霧の向こう、煤けた壁に唯一、血のような赤文字で書き殴られていたのは、料理名ですらない「一言」だった。


『 漢 ( お と こ ) 』


「……メニューが一つしかねえだと……っ!?」


コウタの背筋に、かつてない戦慄が走った。

トッピングの選択も、麺の硬さの指定も、増しの相談すらも許さない。

ただ、四郎が提示する「漢」という概念を、丸ごと飲み込めるかどうか。

それだけを問う、あまりにも傲慢で、あまりにも純粋な暴力。


「……ふっ、いいじゃねえか。選ぶ手間が省けるってな」


「ああん、コウタきゅんカッコいいぃっ! カナたんも、その『漢』……全部、もぎゅもぎゅしてあげるよぉぉっ!!」


カナは興奮のあまり、テーブルをバンバンと叩いた。

その衝撃で、カウンターに溜まっていた脂の池が「チャプッ」と跳ね、二人の顔をさらにテカテカに上書きする。


「……ガタッ」


四郎が無言で立ち上がり、巨大な寸胴から、液体というよりは「固体に近い何か」を掬い上げた。

もはやそれはラーメンではない。

四郎が魂を削り、脂を練り上げ、ギャーリッキュを凝縮させた「生命の塊」だった。

 

『 極 限 脂 道 、 あ る い は 愛 の テ ラ マ ウ ン テ ン 』


「……ニンニク、入れますか?」


四郎が、地鳴りのような低音で問いかけてきた。

その問いは、単なる確認ではない。

この「脂の深淵」に身を投じる覚悟があるかを問う、最終通告だ。


「フン……。ヤサイアブラニンニク、マシマシで頼むぜ」


コウタは不敵な笑みを浮かべ、カウンターを力強く(ヌルリと滑りながら)叩いた。

マシマシ。

それは一般の者にとっては死刑宣告に等しい呪文。

だが、隣に座る覇王の瞳には、不満の色が宿っていた。


「コウタきゅん、甘いよ! キランッ!」


カナの瞳が、脂の蒸気の中で鋭く輝く。

彼女は大きく口を開け、四郎を飲み込まんばかりの勢いで身を乗り出した。


「くわっ……!! ヤサイメガフレイム! アブラギガスプラッシュ! ニンニクテラマウンテンお願いします、ラブ注入ぅぅぅうううっ!!」


「……ッ!? テ、テラマウンテンだと……っ!?」


コウタの頬を、冷や汗(という名の液状脂)が伝い落ちる。

それは、四郎系における伝説の禁忌。

盛るという概念を超え、物理法則を無視した「脂の山脈」を築く狂気のオーダーだ。


「………………承知した」


四郎の目が、初めて見開かれた。

彼は巨大なザルを手に取ると、一九〇センチのカナにふさわしい「絶望的な質量」を盛り付け始める。


「「ドォォォォォンッ!!」」


目の前に置かれたのは、もはや丼から溢れ出すどころではない。

煮え滾る脂のマグマが噴火し、ニンニクの破片が雪崩のように押し寄せ、ヤサイの壁が天空を突く、文字通りの「テラマウンテン」だった。


「あ、ありぁ……っ♡ 見てコウタきゅん! これだよ、これがカナたんの欲しかった『漢』だよぉぉっ!!」


カナは恍惚とした表情で、そびえ立つニンニクの頂を熱っぽく見つめた。

強烈すぎる刺激臭に、周辺の空気が黄色く変色し始めている。

二人は、この人類未踏の脂の峰を制覇すべく、同時に割り箸(脂で滑ってなかなか割れない)を手に取った。

 

『静寂の背脂、あるいは再誕のテラマウンテン』


「………………」


「………………」


「テラマウンテン」の頂を制覇し、最後の一滴……いや、最後の一塊の背脂を飲み込んだ瞬間。

世界から音が消えた。

あまりにも過剰なニンニク(テラマウンテン級)が脳のシナプスを焼き切り、猛烈な「あへぇ」の向こう側にある、真っ白な平原へと二人を導いたのだ。


「……コウタ。俺たちは、何を求めていたんだ。……脂か。それとも、脂という名の救済か」


コウタは、脂でテカテカに光る己の拳を見つめ、静かに悟りを開いた。

もはや恥じらいも、空腹も、嫉妬もない。

ただ、宇宙の真理(背脂)と一体化したような、深く澄み渡った「賢者モード」がそこにあった。


「……そうだよ、コウタきゅん。万物は脂であり、脂こそが万物……。カナたん、今なら……世界のすべてを、滑らかに包み込める気がするよ……」


カナもまた、恍惚とした表情のまま、聖母のような慈愛に満ちた(ただし口の周りはニンニクだらけの)微笑みを浮かべている。

二人の体からは、もはや湯気ではなく「神々しい脂の光輪」が放たれていた。


「店主」


賢者となったカナが、静かに、けれど揺るぎない声で口を開いた。


「おかわり。……同じのを、もう一杯……ください」


「…………なっ!?!?!?!?!?!?!?!?!?」


コウタの賢者モードが、一瞬で粉砕された。

あまりの衝撃に、彼の目から脂の涙が「シュパッ」と飛ぶ。


「お、おいカナ! 正気に戻れ! 今、お前は真理に辿り着いたんだろ!? 悟りを開いたはずだろ!?」


「そうだよ、コウタきゅん。悟りを開いたからこそ、わかったの。……カナたんの宇宙は、一杯のテラマウンテンじゃ、まだ満たされないって……♡」


カナは賢者の瞳のまま、四郎に向かって「キランッ」とウィンク(脂で瞼がくっつきそうになる)を放つ。


「いいだろう。……お前こそ、真の『漢』だ」


四郎は震える手で、再び伝説のザルを握りしめた。

コウタは悟った。

この女の欲望には、真理も、宇宙も、物理法則も……ましてや「満腹」という概念すら存在しないのだと。



 『背脂の残響、あるいは咆哮する恋心』


「ういー……食った、食ったぁ……」


四郎系の店から這い出してきたコウタは、膨れ上がった腹をさすりながら、夜風に当たった。

体中の毛穴からギャーリッキュの香気が噴き出し、もはや歩くバイオテロと化している。


「はら、いっぺぇじゃ……。……ゲフッ」


隣を歩くカナが、巨躯を震わせて豪快な濁音を放った。

静まり返った夜の街道に、湿り気を帯びた排気音が虚しく響き渡る。


「……カナ。ゲップなんて、はしたないぞ」


「いやぁぁん! コウタきゅんに聞かれちゃったぁ……っ! でもぉ、コウタきゅん、カナたんのこと『しゅき』だから許してくれるよねぇ? きゅぴぴぴぃんっ!!」


カナは脂でテカテカの顔を赤らめ、乙女チックに首を傾げた。

その仕草一つで、彼女の肩からバターの雫が「ポタリ」と地面に落ちる。


「ったく、しょうがないな……。……ぐっ、えっぷぅあ……っ!!」


「コウタきゅんもゲップしてんじゃん! もうっ!! カナたんの前では、コウタきゅんは『紳士メン』じゃないと、いやいやんなんだからねっ!!」


カナは頬を膨らませ、脂ぎった拳でコウタの肩をポカポカと叩いた。

叩くたびに「ヌチャッ、ヌチャッ」と不気味な粘着音が響く。


「フン! おもしれえ女だな。自分はよくて、俺はダメなのかよ」


コウタは鼻で笑い、脂で滑る前髪をかき上げた。


「……ま、覚えておいてやるよ。……いつまで、こうして笑っていられるかわからねえけどな」


コウタの口角が、わずかに皮肉な形に歪む。

「脂の向こう側」を知ってしまった二人に、平穏な未来など残されているのか。

いつかこの過剰な愛と脂が、二人を破滅へと導くのではないか。


「もう! コウタきゅんのイジワル! ……いいもんっ!!」


カナはぷいと顔を背けたが、その口元には隠しきれない幸福の脂が滲んでいた。



「コウタきゅん……おいしかったよぉ。また、こようねぇ♡」


カナは脂で重くなった体をゆらゆらと揺らし、コウタの腕に自身の「ヌメリ」を預けた。

二人の間には、もはや言葉では言い表せない、重厚なガーリックの絆が結ばれている。


「……ああ。次に来る時は、もっと胃袋を鍛え直してこなきゃな」


コウタは前を見据え、一歩ずつ、確実に脂の上を滑りながら答えた。

「またこよう」

その何気ない約束が、今の彼にとっては、どんな甘い言葉よりも深く、重く、胃の底に沈んでいく。


「えへへ。次こそは、カナたん、三杯いっちゃうかもぉ……っ」


「……よせ。それこそ、この街の生態系が壊れるぞ」


コウタは呆れたように吐き捨てたが、その視線は優しく、隣を歩く「覇王」のテカテカな横顔を捉えていた。

いつかこの脂が乾く日が来るのか。

それとも、二人がこのまま油膜の霧に溶けて消えてしまうのか。


「(……ま、それでもいいか)」


コウタは、カナの指の隙間から溢れ出す脂の温もりを、ぎゅっと握り返した。

夜の街道に、二人の「ヌチャッ……ヌチャッ……」という確かな歩みが、どこまでも長く、光る跡を残していく。




「ねぇ、コウタきゅん。……カナたん、やっぱり、はしたない……?」


夜風に吹かれ、少しだけ正気に戻ったカナが、不安げに上目遣いで覗き込んできた。

その瞳は、脂の蒸気で少し潤んでいる。


「ん? 何がだよ」


「だってぇ……女の子なのに、四郎系のテラマウンテン、二杯も食べちゃって……」


カナは自身の指先をいじりながら、シュンと肩を落とした。

その動作のたびに、彼女の巨躯からはガーリックの香りが「ふわぁ」と漂い、夜の空気を黄色く染める。


「いや、お前……。ラーメンの前に、ビッグボア丸々一頭食ってただろ。今さら何を言ってんだよ」


コウタは呆れ果てたように、けれど確かな足取りで隣を歩き続ける。


「あ……。そ、そういえば、そうだったぁ……」


「お前の胃袋が化け物なのは、出会った時から分かってたことだ。四郎系二杯くらい、誤差の範囲だよ」


「コウタきゅん……優しいねぇ。……ねぇ、カナたんのこと、怖くない?」


カナの足が止まった。

自分の内側にある、底知れない飢え。

全てを喰らい尽くし、脂に変えてしまう自分という存在。

それを、この目の前の小さな(けれど頼もしい)男はどう見ているのか。


「……もう、慣れたよ」


コウタは前を向いたまま、ぶっきらぼうに言い放った。


「怖がってたら、お前と一緒にメシなんて食えねえだろ。それに……お前が食ってる時の顔、意外と嫌いじゃねえしな」


「…………っ!!」


カナの顔が、脂のテカりとは別の、熱烈な赤色に染まった。

彼女は一瞬、言葉を失って固まっていたが、やがてその口元が、かつてないほど邪悪で、かつてないほど幸福な形に歪む。


「にしししっ……♡」


「……なんだよ、その笑い方。怖えよ」


「なんでもなーいっ! コウタきゅん、大好きぃぃぃっ!!」



カナは感極まった叫びとともに、全力でコウタの細い体に飛びついた。

一九〇センチの巨躯が、愛という名の質量を伴ってコウタを押し潰そうとする。


「お、おいカナ! よせ、今はマズ……ッ!?」


衝突の瞬間、コウタの危惧は的中した。

今の二人は、四郎系の「テラマウンテン」を二杯も完食し、毛穴という毛穴から新鮮な背脂とガーリックオイルを噴出している状態だ。

物理的な摩擦など、一ミクロンも存在しなかった。


「あ……」


「あ?」


ガシッ、と抱きしめたはずのカナの腕が、コウタの胴体をヌルリと一周して空を切る。

同時に、二人の体は磁石の反発のように、あらぬ方向へと加速した。


「「あわわわわわわっ!!」」


二人の体は、まるで氷の上のバターのように、滑らかに、かつ超高速で地面を滑り始めた。

抱きついたままの姿勢で固定され、回転しながら夜の街道を「ツルッ」と滑走していく。


「待て! 止まれカナ! ブレーキをかけ……っ、足が、足が空転する……っ!!」


「無理だよぉぉ! コウタきゅんが、コウタきゅんがツルツルすぎて、掴むところがどこにもないよぉぉっ!!」


二人は一つの巨大な「脂の塊」と化し、街灯の光を虹色に反射させながら、夜の闇へと一直線に滑り落ちていく。

どこまでも、どこまでも。

摩擦のない世界で、二人の笑い声(と悲鳴)だけが、ギトギトの轍と共に夜風に溶けていった。


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