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『背脂の選択、砂糖の裁定』
「選んで」
カナは、目の前に三つのどんぶりを並べていた。
どれも同じ、ギトギトの背脂が浮いた三郎系ラーメン。
ニンニクの盛りも、野菜の高さも、豚の厚みも……すべてが精密に「同じ」だった。
「……なにを?」
コウタは箸を構えたまま、困惑を滲ませた。
「どれを食べるか、だよぉ♡」
「……全部同じじゃないか」
「うん。でも、“最初に”食べるのは一個だけでしょ?」
カナは首をコテリと倒し、潤んだ瞳でコウタを見つめる。
その背中の翼が、期待と不安で小刻みに震え、背脂の粉末をパラパラと散らした。
「もし……真ん中を選んだら?」
「今日は安心ラブチュー。カナちんのこと、ちゃんと見ててくれてるんだなぁって」
「右は?」
「ちょっと不安。……カナたんのこと、リトル忘れちゃったかなぁって」
「左は?」
カナはそこで、不気味なほど可憐に微笑んだ。
「泣く。えーんえーん世界をピンクの火の海にして、カナ、一生泣き喚いちゃうもん
燃え尽きちゃうぞ♡」
冗談には聞こえなかった。
その笑顔の裏側に、底知れない「情念」が渦巻いているのを、コウタは肌で感じた。
コウタは迷わず、真ん中のどんぶりを引き寄せた。
「ぬふーっ」
カナの肩から力が抜ける。
その安堵の仕方は、まるですべての呪いから解放されたような、異様なものだった。
「なあ、カナ。これ……何のテストだ?」
「ラブ確認だよぉ♡」
即答だった。
「外したら?」
「……嫌われたって決めちうの。コウタきゅんにポイポイんされちゃったんだって」
「決める、って。事実は違うだろ」
「事実じゃなくても、カナたんのハートの中ではそう“する”の」
コウタは、背中を冷たい汗が流れるのを感じた。
カナの愛は、ただ重いだけじゃない。
一歩間違えれば、世界ごと自分を塗り潰しかねない「狂気」だ。
だが、彼は同時に、その危うさから目を離せなくなっていた。
カナは彼が選ばなかった左右の二つのどんぶりを、無造作に掴み上げた。
「それ、食べないのか? もったいないだろ」
「ううん。……“選ばれなかった”から」
ベチャッ、という脂の塊がゴミ箱に落ちる音が、静かな部屋に重く響いた。
カナは振り返って、唇に指を当ててニッコリと笑った。
その指先は、コウタが選んだ「真ん中」の脂で、テカテカと光っていた。
「ね。今日もちゃんと、カナちんがナンバーワンこのオンリーワンちゃんでしょ?」
『背脂の再生、あるいは泥の味』
「このっ……馬鹿野郎!!」
コウタは咄嗟に手を振り上げた。
カナの頬を引っぱたこうとしたその手は、しかし、彼女の肌を覆う特濃の脂によって、無様に「つるっ」と滑った。
「はぁ!女の子に手をあげるなんて最低……っ!」
カナは頬を膨らませて抗議したが、コウタは彼女を無視して、ゴミ箱の中へ手を突っ込んだ。
そして、今しがた捨てられたばかりのラーメンを、強引にどんぶりの中へと戻し始める。
「……食べ物を粗末にする奴は、俺が許さねえ」
「ってへん! コウタきゅん、それ土ついてるからぁ! ポンポン痛くなっちゃうよぉ……?」
カナが慌てて止めようとするが、コウタは聞く耳を持たなかった。
彼は最初に選んだ「綺麗な」ラーメンを、無造作にカナの前へと押しやった。
「お前はこっちを食え」
「え……?」
「俺は、こっち(落ちた方)を食う」
コウタは泥とゴミが混じった麺を、躊躇いもなく箸で掴み上げた。
それは、カナが「選ばれなかった」と切り捨てた絶望の残骸だ。
コウタはそれを口に運び、ガリッという土の感触ごと、豪快に飲み込んでみせた。
「コウタきゅん……」
カナの瞳が、驚きと、それ以上の深い情念で揺れる。
コウタは脂と泥で汚れた口端を拭い、彼女を真っ直ぐに見据えた。
「……一緒に食うぞ」
「……っ。……うん! しゅこ、コウタきゅん、しゅこしゅぎるぅぅっ♡」
カナは泣き出しそうな笑顔で、自分に与えられた「選ばれた一杯」を啜り始めた。
「選ばれなかったもの」すらも食らい、地獄の底まで付き合おうとする男。
そのあまりにも不器用で狂った優しさに、カナの心は、砂糖の塊が溶けるように甘く、ドロドロに崩壊していくのだった。
『勇者の凱旋、覇王の静止』
「……戻ったぞ」
コウタがギルドの扉を蹴り開けた瞬間、そこにあったのは静寂ではなく、割れんばかりの……いや、物理的に建物がミシミシと軋むほどの絶叫だった。
冒険者たちが窓に鈴なりになり、町の入り口で大人しく(?)巨大なラブ鍋を抱えて佇むカナの姿を、信じられないものを見る目で凝視している。
「……見たか! あの『歩く災害』が、大人しく待ってやがる……!」
「勇者が……あの覇王を完全に手なずけやがったぞおおおおお!!」
ドゴォォォォン!!
誰かが投げた酒瓶が壁で砕け、ギルド全体が爆発的な熱狂に包まれた。
それは、凶暴な魔獣を屈服させた英雄への、畏怖と羨望が入り混じった咆哮だった。
コウタがカウンターへ進むと、いつもは事務的な受付嬢が、まるで聖遺物を扱うかのように震える手で、一枚の依頼表を捧げ持ってきた。
「コウタさん……これ、ギルドマスターからの特命です。貴方にしか、頼めません」
恭しく差し出されたその紙には、血のように赤い文字で記されていた。
『緊急:狂乱のビッグボア大量発生――全個体の殲滅と回収』
「……ああ、受ける。カナが腹を空かせて待ってるんでな」
コウタは依頼表を無造作に懐へねじ込むと、再びテカテカの背中を向けて歩き出した。
「さすが勇者だ!」「俺たちの代わりに食われて、いや、食わせてくれ!」という無責任な歓喜を背に、コウタは愛する(狂った)パートナーの元へと戻る。
その足取りは、これから始まる「血と脂の宴」を予感して、かすかに弾んでいた。
『滑り出す救世主、あるいは脂の聖域』
「勇者サマだ! 勇者サマと、あの『脂の女神』が来てくれたぞぉぉおおおっ!!」
町を歩くコウタとカナの前に、悲鳴にも似た歓喜の嵐が巻き起こる。
だが、それは純粋な英雄への称賛ではなかった。
住民たちは、自分たちの生活を脅かす「ピッグ(魔獣)」よりも、それを食らい尽くす「さらなる怪物」に賭けたのだ。
「助けてください、コウタさん! ピッグどもに、うちの畑のヤサイを全部やられてしまって……! このままじゃ、今年の冬が越せません!」
一人の農夫が、涙を流しながらコウタの元へ駆け寄ってきた。
彼は感謝と懇願を込めて、コウタの両手を固く握りしめようとした。
「……あ。……あぁっ!?」
「ヌルリッ」
農夫の手は、コウタの肌に触れた瞬間に、氷の上の魚のようにあらぬ方向へとスライドした。
コウタの全身は、カナから受けた「ぎとぉぉ」という魔力治癒と、先ほどまで浴びていた三郎系の熱気により、一切の摩擦を拒絶する「絶対滑走領域」と化していた。
「……すまねえな。今、ちょっと滑りやすくなってんだ」
「コウタきゅん! あのおじさん、ヤサイが大変なんだってぇ! カナたち、お肉と一緒にヤサイもマシマシで回収してあげようよぉ♡」
カナは巨大なラブ鍋を軽々と肩に担ぎ直し、町の人々に愛想を振りまく。
だが、彼女の瞳は一ミリも笑っていない。
彼女にとってヤサイは、コウタという「肉」を美味しくいただくための、ただの彩りに過ぎないのだから。
「……へっ。任せとけ。そのヤサイ、俺たちが一枚残らずピッグの肉と一緒に『揚げ揚げ』してやるよ」
コウタは、滑り続ける農夫の肩を、摩擦ゼロの掌でポンと叩いた。
町の人々の絶望を背負い、勇者と覇王は、脂ぎった光を放ちながらピッグたちの待つ戦場へと滑り出していった。
「カナ、このままじゃヤサイが喰われてなくなっちまう。……行くぞ」
コウタは荒らされた畑を見つめ、低く鋭い声を飛ばした。
ビッグボアの群れは、今まさに住民たちが丹精込めて育てた巨大モヤシやキャベツを、その汚い口で蹂躙しようとしている。
「えぇー……。ヤサイ、カナたん、苦くて苦くてかもぉ……。ラーメンの中に入ってる、あのクタクタになったやつなら、しゅこだけどぉ」
カナは巨大なラブ鍋を担いだまま、露骨に嫌そうな顔をして唇を尖らせた。
彼女にとっての「ヤサイ」とは、あくまで背脂の海に沈めるためのオプションに過ぎないのだ。
「好き嫌いはダメだぞ。……ほら、シャキッとしろ」
「えーんえーん! コウタきゅんがいじめるぅぅう!!」
カナは嘘泣きをしながら、その溢れんばかりの情愛をぶつけるべく、コウタの胸元へと猛烈な勢いでダイブした。
「ぬおっ!?」
「ツルッ!!」
ドォォォォン!!
抱きつくはずだったカナの体は、コウタの全身をコーティングする特濃の脂によって完璧に受け流され、そのまま背後の大木へと音速で激突した。
木々が粉々に砕け散り、森に衝撃波が走る。
「あうぅ……っ。コウタきゅんのガード、しゅこしゅぎて弾かれちゃったぁ……♡」
カナは瓦礫の中からフラフラと立ち上がり、どこか恍惚とした表情で自分の腕を見つめた。
摩擦を失った二人の接触は、もはや愛の抱擁すらも「物理的な跳ね返り」へと変えていた。
「……へっ、余計なことしてねえで、あのピッグどもを片付けるぞ。ヤサイを守れば、今夜はマシマシのヤサイタワーを建ててやるからな」
「ヤサイタワー!? ……わかったぁ! カナ、頑張ってあの汚いピッグさんたちを、ヤサイの肥やしにしてあげるねぇっ♡」
カナは現金に目を輝かせると、再び出刃包丁を抜き払い、摩擦ゼロで地面を滑るようにピッグの群れへと突撃していった。
『背脂の饗宴、あるいは二日の永遠』
「……にしても、カナ。お前、それだけ食っててよくそのスレンダーな体形を維持できるな」
コウタは、山のように積み上げられたボアの「肉塊揚げ」と、巨大モヤシのタワーを交互に口に運びながら、隣に座る少女を盗み見た。
一九〇センチの長身。
細マッチョでありながら、強調された胸元と引き締まった腰つき。
背中では、背脂でギトギトに光る白い翼が、満足げにパタパタと揺れている。
「えへへへ♡ 全部ミートはオッパイとケツにいっちゃうから、しょうがないよねぇ? コウタきゅん、もっと見てもいいんだよぉ?」
「……そうだな。これだけの逸材を、周りの男どもは見る目がないぜ」
コウタが何気なく、ヤサイを噛み砕きながらそうこぼすと、カナの手が止まった。
黄金の脂に濡れた唇が、驚きに小さく開かれる。
「えええええっ!? コウタきゅん……もしかしなくても、カナたんのこと、『しゅこ』なの……?」
カナの瞳に、期待と狂気が混じった虹色の火が灯る。
「……ふっ。まだ会って二日の奴に言うセリフじゃないぜ」
「キャーーー! でもでもっ、カナたんね……みんなから避けられてるの。シクシク。……コウタきゅんは、カナたんのこと、嫌いにならないでね?」
カナは泣き真似をしながら、今にも抱きつこうと身を乗り出す。
だが、コウタは冷めたスープを啜り、鼻で笑った。
「ふっ。……それは約束できねえな」
「いやぁん! 意地悪しゅぎぃっ! おねがぁい、コウタきゅんの『しゅき』を予約させてぇぇんっ!!」
カナは地団駄を踏み、翼から脂の粉末を爆発させた。
そのあまりの騒がしさに、コウタは最後の一口を飲み込み、立ち上がる。
「……カナ、村に戻るぞ。納品も終わったし、ここも脂臭くてかなわねえ」
「わかったぁのばかったぁ! コウタきゅんが行くところなら、カナ、地獄の脂の底までついていっちゃうんだからぁ♡えんじぇるフォーリングラブリンだよぉ♡」
「へっ、堕天使になってんじゃねぇか」
「ヌフフ」
二人は、もはやどちらの体から漂っているのか分からないギャーリッキュの香りを纏い、夕闇に染まる村へと歩き出した。
握ろうとして滑り落ちた手は、それでもお互いの距離を、奇妙なほど近くに留めていた。
『背脂の夜、滑落する天使』
「コウタきゅん!! 夜はビビッドくるから、一緒にねんねちよぉ♡」
宿屋の狭いシングルルーム。
カナは脂でテカテカの翼をバタつかせ、今にもベッドへダイブせんばかりの勢いでコウタに迫る。
コウタは入り口のドアに背を預け、腕を組んで鼻で笑った。
「ふっ! 未婚の男女が一緒なんて、イケナイゼ、イケナイゼェ!!」
「えええーっ! そんなのカンケーにゃいよぉ! カナ、コウタきゅんの脂の匂いがないと眠れない体になっちゃったんだもんっ!!」
「お前一人でベッド使いな。……俺は入り口で座りながらでも寝れるぜ」
コウタの鉄壁の拒絶に、カナは頬をこれでもかと膨らませた。
「いやぁぁん! 一緒にねんねちよぉぉっ!!」
「ダメなものはダメだ」
「……フンッ! コウタきゅんなんか、もういいもんっ!!」
カナはぷいっと顔を背けると、当てつけのように窓枠に足をかけた。
そのまま夜風に吹かれてどこかへ飛び去るつもりだったのだろう。
だが。
「あ……」
「ヌルッ」
自慢の脚線美が窓枠を捉えた瞬間、全身を覆う特濃の脂が物理法則を裏切った。
カナの体は摩擦を失い、そのまま後方へと鮮やかに滑り落ちていく。
「おい、カナ!!」
「いたぴーーーーーーっ!! えーんえーん!!」
階下の地面から、派手な衝突音と、悲痛な(そしてどこか芝居がかった)泣き声が響き渡った。
コウタは慌てて階段を駆け下り、泥と脂まみれで転がっているカナの元へ駆け寄る。
「まったく……お前って奴は。ほら、部屋に戻るぞ」
コウタは彼女を抱え上げようと、その脇に手を差し入れた。
しかし。
「あ……っ、ちょ、待て……っ!」
「ツルッ」
「あうっ!?」
抱き上げようとするたびに、カナの体はコウタの腕からウナギのように滑り落ちる。
支えようとすれば滑り、持ち上げようとすればスライドする。
二人は暗闇の地面で、延々と「ヌルヌルとした揉み合い」を繰り返す羽目になった。
「ごめんね、コウタきゅん……カナ、脂ぎりすぎてて、持てないよねぇ……」
「……へっ、気にするな。……ほら、肩を貸せ。ゆっくり行くぞ」
結局、二人は互いの服の端を掴み合い、何度も滑って転びそうになりながら、一歩ずつ慎重に部屋へと戻っていった。
その光景は、端から見れば奇妙極まりないものだったが、二人の間には、泥と脂の味を共有した者だけが知る、温かな沈黙が流れていた。
「ねえコウタきゅん……こんな脂っこい女の子、嫌い?」
暗い部屋の中、床に座るコウタのすぐ傍で、カナが膝を抱えて呟いた。
窓から差し込む月光が、彼女の肌をヌメりと不気味に、それでいて神秘的に照らし出している。
コウタは目を閉じたまま、短く鼻を鳴らした。
「ん?……別に、嫌いじゃないさ」
「そうなんだ……よかったぁ。
でも、ホントはね、カナたん……さっきみたいに滑らないで、コウタきゅんに触りたいな……」
カナの声が、湿り気を帯びて鼓膜にまとわりつく。
「フン、男はべたべたしたらカッコ悪いぜ。……さっさと寝るぞ」
「ふふ……コウタきゅん、明日もよろしくね?」
「おうよ」
その短い返事を最後に、部屋には静かな寝息だけが残った。
……はずだった。
「……う、うおっ!?」
翌朝。
コウタが目を開けた瞬間、視界のすべてが「虹色のテカリ」に支配されていた。
カナの寝相は、もはや生物の域を超えていた。
彼女は寝ている間に無意識に魔力を暴走させたのか、その巨大な翼と長すぎる手足を、タコのようにコウタの全身に絡みつかせていた。
しかも、その結合部は「ぎとぉぉ」という音すら聞こえそうなほど濃縮された脂で密閉されている。
「おい、カナ……! 起きろ! 出られねえ……っ!」
コウタが脱出しようともがくたび、カナの肌から溢れ出す特濃の潤滑油が、彼の抵抗をすべて空回りさせた。
押せば滑り、引けばヌルリと逃げる。
まるで超高純度のワックスを塗られた檻の中に閉じ込められたようだ。
コウタの全身は、昨夜よりも数段増した「絶対滑走コーティング」により、鏡のように周囲の景色を反射して輝いていた。
「……ふぇ? あ、コウタきゅん……おあよぉ……♡ カナたん、幸せな夢……見てたよぉ……」
カナがとろけた顔で目を覚まし、絡めていた手足をゆっくりと解く。
その瞬間、摩擦を完全に失っていたコウタの体は、床の上を「シュパァァァン!」と凄まじい勢いで滑走した。
「おわあああぁぁっ!?」
「あ、コウタきゅんが飛んでったぁっ! しゅこーいっ、朝からアクロバティックだねぇっ♡」
壁に激突しても止まらず、部屋中をピンボールのように跳ね返りながら、コウタは悟った。
脂をひかえたほうがいいかもしれない。
『背脂の洗礼、あるいは強制の甘美』
「……くそっ、このっ……!」
宿の食堂。
コウタは朝食の丸パンを手に取ろうとしたが、指先が触れた瞬間、パンは生き物のように「シュパッ!」とあらぬ方向へ射出された。
カナの寝相によって全身を覆った超特濃の脂は、もはやパンの表面のわずかな摩擦すらも許さない。
「おい、待て……! 戻ってこい!」
二個目、三個目。
コウタが手を伸ばすたびに、パンは食堂の壁や天井をピンボールのように跳ね回り、絶望的な速度で窓の外へと消えていく。
「ああん、コウタきゅん。パンさんと仲良くできないなんて、カナたん悲しいよぉ……♡」
カナはテーブルの向かい側でニヤニヤとコウタを見つめていた。
その手には、自分の顔ほどもある巨大な「ボア肉マシマシモッコリサンドイッチ」が握られている。
「……笑ってねえで、なんとかしろ。俺は腹が減ってんだ」
「えへへ、しょうがないなぁ……。じゃあ、カナたんが『あーん』してあげるねぇっ!!」
カナは立ち上がると、テーブルを飛び越えてコウタの膝の上(のような場所)に陣取った。
もちろん、二人の接点は脂でヌルヌルと滑っているが、カナは驚異的な体幹と翼の羽ばたきで強引にポジションを固定する。
「ほらぁ、お口開けてぇ? カナたんの愛が詰まった、デリデリモッコリサンドだよぉ♡」
「……フン、男が『あーん』なんて、カッコ悪いぜ」
「いいからぁっ! はい、あーーーんっ!!」
カナは強引にコウタの顎を(滑りながらも)固定し、巨大な肉の塊を彼の口に押し込んだ。
口内に広がる、暴力的なまでのボアの脂とギャーリッキュの衝撃。
「……もぐっ。……へっ、悪くねえ味だ」
「でしょでしょぉ!? コウタきゅん、カナちんがいないとおまんま食べられないんだもんにぇぃ。
ずっとずっとずっとカナが、あーんしてあげるからねぇっ!!」
カナは恍惚とした表情で、コウタの口元に付いた脂を自分の指で拭い、それを慈しむように舐めとった。
一人では食事すらままならない不自由。
だが、それを「愛」と呼んで笑う女。
「カナたん、サイコーの気分……っ!! コウタきゅんのお世話、これ、よきだよぉ……っ!!」
カナは宿の食堂の中央で、食べ終えたサンドイッチの包み紙を紙吹雪のように散らしながら絶叫した。
一九〇センチの巨躯から放たれる声量は、食堂の窓ガラスをビリビリと震わせる。
「やばいやばいっ! ホントはカナたん、コウきゅんに甘やかされるのもよきだけどぉ……コウきゅんのお世話するのも、これまた、よきだよぉ!!」
カナは顔を真っ赤に染め、脂ぎった翼をバサバサと激しく羽ばたかせた。
その勢いで、隣のテーブルのスープが「ツルッ」と滑って床に落ちる。ガシャン。
「結論! コウきゅんは、全方位的に『よき』ですぅぅぅううっ!!」
「……カナ、恥ずかしいから大声で言うな」
コウタは顔を伏せ、テカテカに光る手の甲で額を押さえた。
周囲の冒険者たちが「あの覇王が、ついに壊れた……」「いや、勇者が壊したんだ……」とヒソヒソ声を漏らしているのが痛いほど聞こえる。
「えええーっ! だって、カナたんのハートは今、三郎系ラーメンみたいに熱々に沸騰してるんだもんっ! 隠しきれないよぉっ!」
カナは再びコウタにダイブしようとして、椅子の脚で滑り、そのままコウタの足元へとスライディングした。
「……へっ、騒がしい奴だぜ。だが、そのくらい元気な方が、俺のパートナーには丁度いい」
コウタは床に転がったカナの頭に、滑るのを承知で手を置いた。
案の定、掌はカナの髪の脂でヌルリと滑り落ちたが、その一瞬の接触に、カナは溶けた背脂のような甘い溜息を漏らした。
「ああん、コウきゅん……しゅきぃ……っ!!」
『背脂の剥落、あるいは清廉なる真実』
「……カナ、悪いがそろそろ一回、この脂を落とさせてくれ」
コウタは自分のテカテカに光る腕を見つめ、限界を感じていた。
歩けば滑り、掴めば飛んでいく。
このままでは勇者としての威厳以前に、物理的に社会生活が不可能だ。
「ええええっ!? ヤダヤダ! コウタきゅんからカナたんの成分がなくなっちゃうのヤダぁぁあ!!」
「……うるせえ、風呂だ。……あと、ついてくるなよ」
「カナもいくぅぅううう!! 背中流してあげるからぁっ!!」
結局、押し問答の末に「一人ずつ、順番に、徹底的に洗う」という条件で、二人は宿の大きな貸切風呂へと向かった。
一時間後。
脱衣所で先に着替えを終えたコウタは、戸を開けて出てくる「それ」を待っていた。
ガラリ、と湿った音を立てて木製の戸が開く。
そこから現れたのは、ギトギトの背脂も、ギャーリッキュの刺激臭も、すべてを洗い流した「一人の少女」だった。
「……コウタきゅん、お待たせぇ。……なんか、体、軽くなっちゃったかも」
コウタは思わず、言葉を失った。
そこにいたのは、一九〇センチのすらりとした長身はそのままに、透き通るような白い肌と、濡れてしっとりと肩に流れる銀色の髪を持つ、超がつくほどの「清廉な美人」だった。
羽も脂を落として真っ白に輝き、彼女が動くたびに、石鹸の淡く、どこか甘い、いい匂いがふわりと鼻をくすぐる。
「……カナ、か?」
「えへへ、変かなぁ? やっぱり、脂っこくないカナたんは、コウタきゅんの好みじゃない……?」
カナは不安そうに、長い睫毛を伏せて上目遣いでコウタを見る。
狂気も、絶叫も、今は鳴りを潜めている。
そこにあるのは、ただ圧倒的なまでに清潔で、美しい「天使」の姿だった。
「……ふっ。……いい匂いのする女なんて、柄じゃねえと思ってたが」
コウタは顔を背け、赤くなった耳を隠すように首筋をかいた。
脂が落ちて、ようやく露わになったその肌に、コウタは再び、正しく「目を奪われて」いた。
「悪くねえ。……いや、最高だぜ。カナ」
「……あ、あああああん! コウタきゅん、今『最高』って言ったぁぁぁっ!!」
感動のあまり、カナは再び突進しようとしたが、床に脂がないため、今度は滑ることなく、真っ直ぐにコウタの胸へと飛び込んだ。
「チョチョッチョチョッと、カナサン」




