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『はじまりのギトギト・ラブリー』
「°・(ノД`)・°・えーんえーん! 誰も、きゃわいいカナと組んでくれないよぉ……っ!」
王都の冒険者ギルド。
喧騒を切り裂くような、あまりにも作為的で、それでいて鼓膜に直接響く高音の泣き声が響き渡っていた。
そこには、真っ白な翼を力なく垂らし、床に座り込んで滝のような涙を流している少女――カナがいた。
彼女からちょうど五メートルほど離れた場所。
新人の冒険者登録を済ませようとしていたコウタは、思わずペンを止めた。
「……°・(ノД`)・°・えーんえーん!」
カナは一度泣き止み、チラリとこちらを伺うように目を向けた。
「[壁]_-)……っ。°・(ノД`)・°・えーんえーん! このままじゃ、お金なくなって路頭に迷っちゃうよぉ……っ! ひもじくて、お砂糖も脂も買えないよぉ……っ!」
不自然なほど「孤独」を強調するその姿。
だが、ギルド内の荒くれ者たちは、彼女を助けるどころか、まるで猛獣の檻を避けるかのように、不自然なほど彼女の周囲にだけ大きな空白地帯を作って素通りしていく。
コウタはたまらず、窓口の受付嬢に声をかけた。
「……ねぇ。あの子、どうしたの? あんなに泣いてるのに、誰も声をかけないなんて――」
その瞬間、受付嬢の顔から血の気が引いた。
彼女は返事をする代わりに、猛烈な勢いで首を横に振った。
その動きは「関わるな」「死ぬぞ」と、言葉以上に雄弁に物語っている。
だが、まだこの街の、いや、この世界の「カナ」という理不尽を知らないコウタは、ため息をつきながら彼女の元へ歩み寄った。
「……おい。大丈夫か、あんた」
声をかけた瞬間。
ギルド内のガヤガヤとした騒がしさが、一瞬で「悲鳴」に近いざわめきに変わった。
「あ、おい! あの新人、声をかけやがったぞ……!」
「死んだな……。あいつ、自分が何を『召喚』したか分かってねぇ……」
周囲の戦慄を余所に、カナがゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた瞳。
だが、その奥で「獲物」を捉えたかのような、底知れない黄金の光がキラリと蠢いた。
「……え? コウタくん……? カナに、話しかけてくれたの……? えへへ……しゅこしゅぎぃっ♡」
カナは一瞬で涙を止めると、弾かれたように立ち上がり、コウタの胸元へ飛び込んだ。
その瞬間、彼女の背中の翼が力強く羽ばたき、ギルド内に強烈な「ニンニクと砂糖の香り」が爆散した。
コウタの鼻腔を突いたのは、エンジェルから漂うはずのない、暴力的で野蛮な刺激臭だった。
あまりの臭気に、彼は思わずのけぞり、鼻を押さえる。
「うっ……お前、ニンニク食べたのか?」
コウタの問いに、カナは人差し指を唇に当て、首をコテリと倒した。
背中の白い翼が、恥じらうようにパタパタと小刻みに震える。
「ノンノン! ニンニクじゃなくて、ギャーリッキュだよぉ♡ カナたん、ギャーリッキュだいしゅきなんだぁ! コウタきゅんはぁ?」
ギャーリッキュ。
呼び方を変えたところで、この暴力的なまでの臭いは誤魔化しようがない。
だが、コウタはそれ以上に致命的な違和感に気づき、背筋に冷たいものが走った。
「……待て。なんで俺の名前を知ってるんだ? まだ誰にも名乗ってないはずだろ」
問い詰められたカナは、両手で自分の頬を包み込み、もじもじと身体をくねらせた。
彼女の足元の床が、溢れ出た謎の「甘い脂」でじわじわと変色していく。
「それはねぇ……コウタきゅんが登録してるところぉ、エチエチ覗きしちゃったからだよぉ♡ きゃっ、言っちゃったぁ! カワイイから、ゆるしてね?」
カナはペロッと舌を出し、上目遣いでコウタを見つめた。
「エチエチ覗き」というパワーワードの破壊力に、コウタの脳が処理落ちを起こす。
周囲の冒険者たちは、まるで「見てはいけない儀式」を目撃したかのように、さらに数メートル後ずさった。
「……ゆるして、くれるよねぇ? コウタきゅんも、カナのギトギトな愛、知りたいよねぇ……♡」
カナの手が、コウタの服の裾をぎゅっと掴む。
その指先から、ほんのりと温かい、そして恐ろしく粘り気のある「脂」の感触が伝わってきた。
「へっ……おもしろい女だな!
お前みたいなやつ、嫌いじゃないぜ!!」
コウタがそう叫び、カナの脂に濡れた手を力強く握り返した瞬間だった。
ギルドの空気が一変した。
静寂は一瞬、次の刹那には、建物全体が物理的に震動するほどの咆哮と衝撃が吹き荒れる。
「勇者だ……! 今、ここに真の勇者が誕生したぞぉぉ!!」
「死を恐れぬ者がいた! あいつだ! あいつが歴史を変えるんだ!!」
酒場を埋め尽くしていた冒険者たちが、割れんばかりの拍手と共に椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。
窓ガラスが衝撃波で粉々に砕け散り、天井のシャンデリアが爆発するように光り輝く。
それはもはや祝福ではなく、生贄を捧げた際の狂喜乱舞だった。
そんな狂乱の中心で、カナは頬を火照らせ、翼を限界まで広げてコウタを見つめていた。
「きゅぴいいいんっ☆ コウタきゅん、しゅこ! しゅこしゅぎぃぃっ! カナのこと嫌いじゃないなんて……ボインレー両想い確定だねぇっ♡」
カナの喜びが爆発した瞬間、彼女の背中から「ギャーリッキュ」と「角砂糖」が混ざり合った、七色の光の柱が天を衝いた。
ギルドの床は瞬く間に黄金の背脂でコーティングされ、周囲の冒険者たちはその滑る脂に足を取られながらも、涙を流して「勇者誕生」を称えている。
「えへへ、カナとコウタきゅんの『愛の旅』、はじまりはじまりぃ♡ まずはねぇ、カナのギトギトなお部屋で、入団の儀式をしようねぇっ!」
カナはコウタの腕を、鋼鉄の万力のような力で抱きかかえると、阿鼻叫喚と歓喜が混ざり合うギルドを後にし、軽やかなステップで「彼女だけの世界」へと彼を引きずり込もうとしていた。
『狂喜の解放宣言』
「コウタさん! ちょっと、コウタさんっ!!」
カナに引きずられてギルドを去ろうとするコウタの背中に、受付嬢の悲鳴に近い絶叫が突き刺さった。
彼女はカウンターから身を乗り出し、形相を変えて、人差し指をコウタに向かって突きつけている。
「いいですか、コウタさん! 次にギルドへ来るときは、必ず! ……絶対に、貴方一人でお越しください! 分かりましたね!!」
それは、事務的な連絡などではない。
この世の終わりの瀬戸際で、一縷の望みを託すような、魂の警告だった。
コウタが呆然と頷いたその瞬間。
ギルドマスターが、酒樽を叩き割らんばかりの勢いで立ち上がった。
「……皆の者、聞いたかぁぁ!!」
彼の咆哮と共に、ギルド内の空気が一変する。
「ニンニクと! 脂と! 砂糖の地獄から! 俺たちは今、解放されたぞぉぉぉぉ!!」
「うおおおおおぉぉっ!」
「勇者コウタ万歳!」
「これでやっと、普通の飯が食えるぞぉぉぉっ!!」
怒涛のような歓声が巻き起こり、冒険者たちが抱き合って涙を流す。
それは、長きにわたる圧政から解き放たれた民衆の歓喜そのものだった。
だが、そんな狂乱を背に、カナはコウタの腕をギュッと抱きしめ、幸せそうに目を細めていた。
「えへへ、みんなコウタきゅんに嫉妬してるんだねぇ♡ カナのギトギトを独り占めできるのは、コウタきゅんだけだもんねっ!」
カナがパチンと指を鳴らすと、ギルドの重い扉が背後でバタンと閉まった。
そこには、もうニンニクの臭いも、砂糖の粒子も、カナの「愛」もない、ただの平和な日常が戻ったはずだった。
……ただ一人、カナに連れ去られるコウタを除いて。
「さぁ、コウタきゅん! お外は不潔だから、早くカナのラブリーハウス(宿屋)に行こうねぇ♡」
『鋼鉄の胃袋、覚醒の刻』
「……いや、早速で悪いんだがクエストやりたいんだ。手持ちなくて、ごめんな」
コウタが財布の軽さを打ち明けると、カナは雷に打たれたような顔をして、自分の頬を両手で包み込んだ。
「気づかなくてごめんなさい! 脂ゲットするにはマネーが大切だもんね♡ カナたん、クソザコナメクジだけど……コウタきゅんに守って欲しいなぁ」
カナは潤んだ瞳でコウタを見上げ、小刻みに翼を震わせる。
その儚げな姿に、コウタは思わず胸を張った。
「ああ、俺に任せとけ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、カナの姿がぶれた。
音速。
彼女は文字通り目にも止まらぬ速さで掲示板へ肉薄し、一枚の依頼表を豪快に引き剥がしてきた。
「えへへ、これにしよぉ? コウタきゅん、きっとレインボー覚醒で一緒にこのクソでかピッグ倒そうよぉ♡」
「ビッグボアか。わかった、受けよう」
コウタが依頼表を受け取ると、カナは「きゅぴいん☆」と効果音が聞こえそうなウィンクを飛ばす。
「じゃあ、カナたん、ラブ鍋持ってくるから、町の入り口で待っててね? 女の子の準備はタイムがらりっちゃうからねぇ♡」
カナはそう言い残すと、翼から背脂の粒子を撒き散らしながら、宿屋の方へと風のように消えていった。
残されたコウタは、彼女が言った「ラブ鍋」という不穏な単語を反芻しながら、重い足取りで町の入り口へと向かうのだった。
『三郎、あるいは地獄の入り口』
「……なあ、あの子、いい子じゃないか? 何か問題でもあるのか?」
カナが「準備」のために去った後、コウタは入り口付近に固まっていた冒険者たちに、ごく自然な疑問を投げかけた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、一人のベテラン冒険者が、震える手でコウタの肩を掴んだ。
「……いや、お前。鼻ぶっ壊れてんのか? やばいだろ、あの脂とニンニク臭!!」
「そうだよ! あいつが来てからというもの、ギルド中の臭いが取れねえんだよ! 換気魔術師を三雇っても追い付かねえんだぞ!」
「壁も床も、あいつが通った後は全部ギトギトだ! 依頼書を出すにも指が滑って、この前なんか指名手配犯の首がどっか飛んでったんだぞ!!」
四方八方から飛んでくる悲痛な叫び。
だが、コウタは動じなかった。
むしろ、どこか懐かしそうに、遠くを見つめて小さく笑う。
「ああ……。俺、三郎系ラーメン好きだからな。あのくらいのパンチ、むしろ落ち着くよ」
コウタのその一言で、ギルド全体が凍りついた。
(……いや、そういうレベルじゃねえだろ……)
(三郎系ってなんだよ……魔界の食い物かよ……)
(終わった。この新人も、あの子と同類の『化け物』だ……)
冒険者たちは、絶望に満ちた目でコウタから距離を置いた。
もはや彼を勇者と呼ぶ者はいない。
そこには、毒に侵され、それを「心地よい」と笑う、救いようのない狂戦士が立っているだけだった。
『鋼鉄のラブリー・クッカー』
「……お待たせぇぇえええええっ♡」
地響き。
それは、巨大な魔獣の足音よりも重く、等間隔に地面を揺らしながら近づいてきた。
町の入り口で待っていたコウタの視界に、砂埃を巻き上げながら現れた「それ」が飛び込んでくる。
「コウタきゅぅぅん! カナ、頑張って持ってきちゃったぁ♡」
それは、鍋と呼ぶにはあまりにも巨大すぎる鉄の塊だった。
直径は優に三メートルを超え、厚みは攻城槌を跳ね返すほどに分厚い。
中にはなみなみと「秘伝のラブリー背脂(黄金色)」が満たされ、歩くたびにチャプチャプと、致死量の脂が不気味な音を立てている。
カナはその巨大な質量を、片手でひょいと頭上に掲げ、軽やかなステップで――一歩ごとに地面を五センチ沈ませながら――駆け寄ってきた。
「お待たせ、コウタきゅん♡ 女の子の準備って、どうしてもこれくらい時間はかかっちゃうんだよぉ? らりっちゃうくらい重かったけど、コウタきゅんのためだもんっ!」
ズゥゥゥゥン!!
カナが鍋を置いた瞬間、街道の石畳がクモの巣状にひび割れた。
立ち上る、暴力的なまでのギャーリッキュの香り。
コウタは、その鍋の淵にこびりついた、得体の知れない「魔獣の骨」の残骸を見つめ、静かに息を呑んだ。
「……ああ。待った甲斐がある、いい鍋だな」
「えへへ、しゅこっ♡ じゃあ、この鍋で、あのクソでかピッグさんをまるごと『あーげあげ』しちゃおうねぇっ!」
カナは巨大な鍋の横で、可憐にピースサインを作ってみせた。
『咆哮する肉塊、断たれる理』
「……来たか」
巨木の根を砕き、湿った土を跳ね上げて、ソレは姿を現した。
クソでかピッグ――通称、ビッグボア。
体長五メートルを超える巨体は、鋼鉄のような剛毛と、幾多の剣を弾き返してきた重厚な脂層に覆われている。
地を削る蹄の音と共に、森の空気が濁った殺気で膨れ上がった。
「フシューッ!!」
ビッグボアの鼻から放たれた蒸気が、周囲の草木を瞬時に腐らせる。
コウタは剣を低く構え、重心を落とした。
背後の遠くからは、カナがニンニクを叩き切る「ドゴォォォン!」という爆音がいまだに響いている。
守るべきヒロイン(物理)と、待っている三郎系。
負ける理由は、どこにもなかった。
「……はぁぁああっ!!」
踏み込みと同時に、コウタの体が弾丸と化した。
ビッグボアの突進――家屋をも粉砕するその質量を、コウタは紙一重でかわし、すれ違いざまに腹部へ一閃を叩き込む。
ギチィィッ!!
金属が軋むような嫌な音が響く。
剣先は確かに肉に届いた。
だが、あまりにも分厚い「脂」が、致命傷を許さず、刃を滑らせる。
「へっ……流石だな。だが、その脂、俺の食欲をそそるだけだぜ!」
反転するビッグボア。
逆巻く土煙の中、巨獣の牙がコウタの脇腹をかすめる。
衝撃で肺の空気が強制的に押し出されるが、コウタの瞳は曇らない。
激痛の中、彼は感じていた。
細胞のひとつひとつが、カナから受けた「ラブリー脂」と「角砂糖」の残滓に反応し、内側から沸騰し始めているのを。
「熱い……体が、最高のコンディションだぜ……!」
コウタの全身から、虹色の蒸気が立ち上り始めた。
血管を流れるのは血液か、それとも彼女に流し込まれた「秘密の液体」か。
極限状態の中、彼の脳裏にカナの「しゅこしゅぎぃっ♡」という声が響く。
「おおおおおおおぉぉぉ!!」
コウタの剣が、七色の光を纏う。
それを見たビッグボアが、本能的な恐怖に瞳を剥いた。
『泥濘の饗宴(マッド・三郎)』
「……チッ、しぶてぇな、この豚野郎……!」
コウタのレインボー覚醒は、勝利への確定演出ではなかった。
むしろ、肉体の限界を強制的に引き上げたことで、ビッグボアの「脂」との、泥沼の消耗戦へと突入してしまった。
ビッグボアもまた、本能で察していた。
目の前のニンゲンに食われれば、自分は二度と森へは戻れない。
黄金の脂の海で揚げられ、ギャーリッキュの藻屑となる。
その恐怖が、獣を「泥試合」の化身へと変えていた。
「フシューッ!! ブフォォォォッ!!」
ビッグボアが地面を猛烈な勢いで掘り返し、周囲をドロドロの泥と脂が混ざり合う泥濘へと変えていく。
コウタの足元が深く沈み、自慢のフットワークが殺された。
七色の光を放つ剣を振り下ろしても、ボアが撒き散らす泥と、体表から溢れ出したヌメる脂が、攻撃の威力をことごとく受け流していく。
「ぐっ……お、重てぇ……っ!」
一撃、また一撃と、互いの肉体がぶつかり合う。
だが、それは洗練された武芸ではない。
ドロドロに汚れ、互いに相手の肉を掴み、泥の中に顔を押し付け合う、無骨で無様な「揉み合い」だった。
コウタの頬に、ボアの剛毛が突き刺さり、泥と混じった鉄錆の味が口内に広がる。
対するボアも、コウタの執念深い一撃で、片方の牙をへし折られ、苦悶の声を漏らしていた。
「はぁ、はぁ……っ。いいぜ、泥臭いのは嫌いじゃねぇ……。お前を……最高のチャーシューに……するまでは……ッ!」
コウタの意識が、熱気と泥で朦朧とする。
全身の毛穴から虹色の汗が吹き出し、ボアの脂と混ざり合って、森の地面に不気味な輝きを持つ「特濃の沼」が形成されていく。
もはやどちらが捕食者で、どちらが獲物かもわからない。
泥塗れの二つの肉塊が、ただひたすらに、地を這い、喘ぎ、絡み合っていた。
『血と脂のキッチン・コロシアム』
「ああん、私の勇者さま大丈夫ぅ? ……いけないピッグさんはぁ……」
泥と脂が混じり合う地獄の底。
朦朧とするコウタの視界に、ひょこっと、場違いなほど可憐な天使が舞い降りた。
カナは泥濘に膝をつくことすら厭わず、倒れ伏すコウタの頬をそっと撫でる。
だが、彼女の視線がビッグボアに向けられた瞬間、喉の奥から不穏な音が漏れた。
「ジュルリ……。カナちゃんが、やっつけちゃうんだからぁ♡」
カナが指先をピッグに向けた。
直後、目にも止まらぬ速さで空気が爆ぜる。
彼女の手には、いつの間にか身の丈ほどもある巨大な出刃包丁(ピンクのラメ入り)が握られていた。
「せいっ☆ とうっ☆ はい、血抜き完了だよぉっ!」
「ブギャッ!?」という断末魔さえ途切れるほどの神速。
カナは鼻歌を歌いながら、巨体の関節を的確に外し、皮を剥ぎ、内臓を仕分けしていく。
返り血を全身に浴びて真っ赤に染まりながらも、その手つきは「おままごと」のように軽やかだ。
「下ごしらえはちゃんとしないと、いいお嫁ガールになれないもんねっ♡ コウタきゅん、カナのためにこんなにボロボロになって……カナ、ちょー感動ウレCだよぉ!!」
カナは興奮のあまり、血塗れの包丁を放り出してコウタに抱きついた。
彼女の体温と、ボアの体温、そしてドロドロの泥が混ざり合い、コウタの感覚をさらに「歪ませて」いく。
「へっ……お前も、なかなかやるじゃねえか……!」
コウタは泥を吐き出し、口端を吊り上げて笑った。
目の前で巨獣を秒速で解体した怪物を、彼は最高のパートナーとして真っ向から受け入れた。
「えへへ、しゅこしゅぎぃっ♡ じゃあ、この新鮮な『お肉さん』を、町の入り口のラブ鍋にダンクシュートしに行こうねぇ! コウタきゅん、おんぶしてあげよっかぁ?」
『背脂の聖痕、勇者の凱旋』
「よせやい……。男がすたるぜ」
コウタは泥を払い落とし、解体されたばかりの巨大なボアの肉塊を、その逞しい肩へと担ぎ上げた。
ずっしりとした質重量が、限界に近い筋肉に食い込む。
だが、彼は不敵に笑ってみせた。
「ギルドに納品してくるぜ。お前は……ここで準備して、待っててくれ」
その無骨な背中に、カナの瞳が限界を超えて潤んだ。
彼女の背後の白い翼が、歓喜のあまりバタバタと激しく羽ばたき、周囲の木々をなぎ倒す。
「あああんっ、かっこよしゅぎぃいっ!!!!! コウタきゅんのためなら、カナ、なんでもしちゃうんだからぁ! カナたんのメタラブ回復ちゅー魔法……」
「ぎとぉおおぉおおおっ!!」
カナはコウタの首筋に飛びつくと、そのうれた唇を、彼の頬や傷口に情熱的に押し当てた。
瞬間、傷口から虹色の光が溢れ出し、肉体が瞬時に再生していく。
だが、その代償はあまりにも「重かった」。
治癒した箇所は、カナの唾液と魔力によって、鏡のように光り輝く「特濃の脂」でコーティングされ、テカテカと不気味な光沢を放ち始めたのだ。
「……へっ。乙女の唇、安売りするもんじゃないぜ」
コウタはテカテカに光る首筋を拭いもせず、ボアを担ぎ直して森の出口へと歩き出した。
その背中は、脂で輝き、夕日に反射して誰よりも眩しかった。
「えへへ……安売りじゃないもん。コウタきゅんだけの、大安売りなんだもんっ♡ いってらっしゃぉーい! カナ、最高のギトギトを用意して待ってるからねぇっ!!」
背後から届く、鼓膜を震わせるほどの愛の咆哮。
コウタは、自分の体がもはや普通の人間には戻れないほど「脂ぎっている」ことを自覚しながらも、ギルドという名の「戦場」へ凱旋する。
『勇者の背中は語る』
バォォォン!!
ギルドの重厚な扉が、内側からの衝撃ではなく、担ぎ込まれた「肉の質量」によって押し開かれた。
全身が鏡のようにテカテカと光り輝き、背脂の蒸気を纏ったコウタが、解体されたビッグボアをカウンターにドォォォォンと叩きつける。
「……納品だ」
静まり返るギルド。
受付嬢は、コウタの首筋から放たれる「ぎとぉぉ」という異様な治癒の輝きに、開いた口が塞がらない。
しかし、その場にいた冒険者の一人が、震える声で叫んだ。
「……あんた、男だよ……っ!」
その一言を皮切りに、ギルド内は再び爆発的な熱狂に包まれた。
「あのエンジェルの脂を全身に浴びて、生きて帰ってくるなんて!」
「見てくれ、あのテカり! もはや人間じゃねえ、神の脂だ!」
男たちは涙を流し、互いの肩を抱き合いながら、死地から生還した勇者を称えて叫ぶ。
「勇者コウタ! 今夜は酒だ! ギルドの奢りでパーティーだぁぁ!!」
誘いの声が飛び交う中、コウタは一度も振り返らず、出口へと歩を進めた。
「よせやい。……あいにくだが、カナが待ってるんでな」
クールに言い捨てたその言葉に、ギルドの連中は息を呑んだ。
あの「地獄のエンジェル」の元へ、自ら進んで戻るというのか。
コウタの背中は、夕陽と脂の反射で誰よりも眩しく、そしてどうしようもなく狂っていた。
「あばよ」
背後で再び巻き起こる「漢だ……!」「死に急ぎやがって……!」という嗚咽混じりの歓声を聞き流し、コウタはカナの待つ「ギトギトの調理場」へと戻っていった。
『三郎、あるいは無言の献身』
「……おまたしぇ、コウタきゅ……あ」
町の入り口に戻ったコウタが目にしたのは、先ほどまで「食材」だったはずのビッグボアの山が、綺麗さっぱり消滅している光景だった。
そこには、お腹をぽっこりと膨らませ、口の周りをギトギトの脂と血で染めたカナが、空っぽの骨を片手に呆然と立ち尽くしていた。
「ああごめんコウタきゅん……ピッグしゃん、きえちった。なんでだろう??? カナたん、わかんにゃあーい♡」
カナはてへっ、と首をかしげ、膨れたお腹をポンと叩いた。
五メートル級の魔獣をほぼ一人で「完食」したという事実に、普通の冒険者なら腰を抜かすところだが、コウタは動じない。
彼は無言で、持ってきた荷物の中から麺の束と、大量の「ヤサイ」を取り出した。
「……コウタきゅん?」
コウタはカナの問いかけに答えず、巨大なラブ鍋の前に立った。
ボアの旨みが溶け出し、カナの魔力で黄金色に煮えたぎる「特濃スープ」の中に、極太の麺を豪快に叩き込む。
ニンニクを拳で砕き、背脂を親指の腹で濾しながら、彼はただ黙々と、二人分の「三郎系ラーメン」を作り上げていく。
やがて、山のようなモヤシと、カナが食べ残したわずかな肉片が盛り付けられた、地獄のように美しい一杯が完成した。
「食え。……お前のは、ヤサイ抜き・アブラマシマシ・ギャーリッキュトリプルだ」
コウタがどんぶりを差し出すと、カナは瞳を宝石のように輝かせ、再びヨダレをジュルリと零した。
「え、えへへ……コウタきゅん、カナのために作ってくれたのぉ? あんなに食べちゃったのに、コウタきゅんのラーメン見たら、またお腹がしゅこしゅこ鳴っちゃうよぉ……っ♡」
「へっ……いいってことよ」
コウタは自分の分のどんぶりを手に取り、脂の膜を割りながら麺を啜り上げた。
カナの「食欲」という名の底なし沼さえも、彼は自らの「料理」で包み込もうとしていた。
カナの「全部食べちゃった(確信犯)」を、コウタは怒るどころか「三郎系」で上書きするという圧倒的な包容力を見せました。
『背脂と砂糖の誓い』
「コウタきゅん……デザート、欲しいなぁ……♡」
空になった巨大な鍋の横で、カナは膨れたお腹をさすりながら、蕩けたような瞳でコウタを見上げた。
その口元にはまだ、三郎系の特濃脂がキラキラと光っている。
コウタは口元の脂を乱暴に拭うと、鼻で笑った。
「男はデザートなんて甘ったるいもんは食わねえぜ。……カナ、何が欲しいんだ?」
「え、ブロックしゅがぁ……♡ コウタん、だめぇ……?」
「待ってろ」
コウタは一度、背後の荷物へと手を伸ばした。
そして取り出したのは、一キログラムはあろうかという巨大な砂糖の袋だった。
ドサリ、と重苦しい音を立ててカナの前に置かれる。
「湿気てて中身が全部固まってやがったから、安く手に入ったぜ。……ほら、好きなだけ齧れ」
袋の中で巨大な「塊」と化した砂糖。
それはもはや調味料ではなく、甘味の鈍器だった。
カナはその「砂糖の岩」を凝視し、次の瞬間、絶頂したかのように全身の翼を激しく打ち振るった。
「あああああああ!! コウタきゅん、もうだめぽぉぉぉぉ!! 結婚しちくれぇえええええ!!」
カナは砂糖の塊を抱きしめたまま、その場でのたうち回った。
野生の獣が獲物を解体した時よりも、その声は悦びに震えている。
「へっ、おもしれえ女だな。……だが、そんなに自分を安売りしたらだめだぜ」
コウタは呆れたように肩をすくめたが、その瞳にはカナという「異常」への確かな愛着が宿っていた。
「あああああああ!! しゅきいいいい!! コウタきゅんの脂に巻かれて死にたいぃぃっ!!」
「……まぁ、これからもよろしくな」
コウタが何気なく右手を差し出した。
カナは弾かれたように飛び起き、その手に自分の手を重ねる。
ギュッ、と力が込められた。
だが。
「……ヌルッ」
「……あ」
二人の手は、互いの肌から溢れ出した「特濃の脂」によって、滑稽なほど滑らかに滑り落ちた。
一度ならず二度、三度。
握手をしようとするたびに、二人の手は接触の瞬間にあらぬ方向へとスライドしていく。
「えへへ……しゅこしゅぎて、手が滑っちゃうねぇ♡」
「……フッ、全くだ。……あばよ、今日のところはな」
二人は最後まで握手を完成させることはできなかった。
だが、重なり合わなかった手のひらに残るヌメるような熱量こそが、これから始まる「歪んだ日常」の確かな契約となった。




