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第5話 夫の過去

今回は少し視点を変えて、夫・誠のお話です。

彼がなぜここまで父親に逆らえないのか。

いわゆる「毒親」による支配のトラウマを描いています。

 権田誠(二十九)は、悪夢を見ていた。


 大人になった今でも、疲れている時や精神的に追い詰められている時に必ず見る、あの日の夢だ。


 夢の中の誠は、十歳だった。

 昭和の香りが色濃く残る実家の茶の間。ちゃぶ台を囲んでいるのは、父と母、そして自分。


 夕食の時間だ。本来なら一家団欒の温かい時間であるはずのそれが、権田家においては「裁判」の時間だった。


『おい、誠』


 父・昭三の低い声が響く。

 それだけで、幼い誠の心臓は早鐘を打つ。箸を持つ手が微かに震える。


『はい……』


『箸の持ち方がなってねぇな。誰に教わった? 母さんか? ああん?』


『ご、ごめんなさい』


『謝る前に直せ! ったく、不器用な野郎だな。誰に似たんだか』


 父は機嫌が悪かった。

 仕事で何かあったのか、贔屓の野球チームが負けたのか、理由は分からない。


 父にとって、不機嫌になる理由はなんだってよかった。ただ、その鬱憤を晴らすためのサンドバッグが必要なだけだった。


『あなた、食事中ですよ……』


 見かねた母がおずおずと口を挟む。しかし、それが火に油を注ぐ。


 ――ダンッ!!


 父の拳がちゃぶ台に叩きつけられ、味噌汁の椀が跳ねて中身がこぼれた。


『口答えすんじゃねぇ! お前の教育が悪いから、こいつがこんな軟弱に育つんだろうが!』


『っ……すみません』


 母は小さく俯く。その姿を見て、誠は悟る。


(母さんでも勝てない。誰も父さんには勝てない)


 父の怒りは、理屈ではなかった。

 「俺が不快だ」と思えば、白も黒になる。


 反論すれば「生意気だ」と倍の声量で怒鳴られ、黙っていれば「聞いてんのか」と詰められる。泣けば「男のくせに」と人格を否定される。

 

 この家には、出口のない迷路のようなルールがあった。


 【父の機嫌を損ねないこと】


 それが唯一絶対の法であり、正義だった。


 ある日、誠が勇気を出して「僕はこう思う」と意見したことがあった。

 その結果は、二時間にわたる正座と説教、そして「お前は俺がいなきゃ何もできないクズだ」という呪いの言葉の連打だった。


 心が、ポキリと折れる音がした。


 それ以来、誠は学習した。

 心を殺せ。

 石になれ。

 嵐が過ぎ去るのを、ただじっと待つんだ。


 そうすれば、少なくとも身体的な痛みはない。母も巻き添えにならない。

 「事なかれ主義」は、幼い誠が身につけた、悲しき「生存戦略」だったのだ。


 ◇


「……っ!」


 誠は短い呼吸と共に跳ね起きた。

 背中は冷や汗でびっしょりと濡れている。


 暗い寝室。隣には、妻の美咲が静かな寝息を立てていた。

 誠は乱れる呼吸を整えながら、美咲の寝顔を見つめる。


(美咲……)


 彼女は強い。

 理不尽な父に対して、正面から「おかしい」と言える。母とは違う。

 だからこそ、誠は美咲に惹かれたし、彼女となら幸せな家庭を築けると信じた。


 だが、現実はどうだ。

 自分はまた、あの頃の「十歳の子供」に戻ってしまっている。


 父の怒鳴り声を聞くだけで思考が停止し、体がすくみ、美咲を盾にして隠れてしまう。


『離婚も、視野に入れてるから』


 数日前の美咲の言葉が、胸に突き刺さる。

 彼女を失いたくない。愛している。それは本当だ。

 けれど、父に逆らうことへの根源的な恐怖が、どうしても足を止める。


 父に「縁を切る」と言うこと。それは、誠にとって「神に逆らう」のと同義の絶望的な行為に思えた。


「……怖いんだよ、美咲」


 誠は誰にも聞こえない声で、暗闇に向かって呟いた。


 情けない自分の本音。

 三十歳にもなって、まだ親父が怖い。


 だが、もう時間がない。

 次の食事会。それがラストチャンスだと言われた。


 もし次も自分が逃げたら、美咲は本当にいなくなるだろう。彼女は、口先だけで脅すような女じゃない。


(俺は、どっちを選ぶんだ)


 支配と恐怖の象徴である父か。

 自由と愛情の象徴である美咲か。


 誠は震える手で、自分の顔を覆った。

 答えは決まっているはずなのに、体が言うことを聞かない。

 

 カレンダーの日付が変わる。

 運命の「焼き肉店」での食事会まで、あと二日。


 誠の覚悟が決まらぬまま、刻一刻と「審判の時」が迫っていた。


幼少期の呪縛というのは、大人になってもなかなか解けないものです。

でも、乗り越えなければ未来はありません。


次回、いよいよ運命の焼き肉店へ。

最強最悪のカスハラが始まろうとしています。

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