第3話 地獄の食事会①
ステーキハウス編です。
「マニュアル通りの接客にキレる」という、よくある理不尽なカスハラです。
店内に響いた義父の怒声に、周囲の客が一斉にこちらを見た。
優雅にナイフとフォークを動かしていた老夫婦、楽しそうに談笑していたカップル。
彼らの視線には、明らかに「なんだあれ」「迷惑だな」という色が混じっている。
私は反射的に店員さんに駆け寄った。
「すみません! この席で大丈夫です。お義父さん、ここ、窓際で景色もいいですよ。ね?」
「はんっ。まあ美咲ちゃんがそう言うなら座ってやるか。気が利かねぇ店だ」
義父は鼻を鳴らし、ドカッと椅子に座り込んだ。
店長らしき男性が飛んできて「申し訳ございません」と深々と頭を下げる。
何も悪くないのに。ただ予約通りの席に通しただけなのに。
私は申し訳なさで胸が潰れそうになりながら、小さく会釈をして席に着いた。
だが、これはまだ序章に過ぎなかった。
本当の地獄は、注文の時に訪れた。
「ご注文の確認をさせていただきます。国産牛サーロインステーキが三つ、焼き加減は……」
担当してくれたのは、まだあどけなさの残る若い男性店員だった。
彼がマニュアル通り、丁寧に注文を復唱し始めた時だ。
ダンッ!
義父がテーブルを拳で叩いた。カトラリーがチャリと音を立てる。
「お前、俺の話を聞いてたのか?」
「は、はい……?」
「俺は『ミディアムで』ってさっき言ったよな? なんでまた聞くんだ? 俺がボケてるとでも言いたいのか?」
「い、いえ! 確認のために復唱を……」
「それがマニュアルか? マニュアル通りにしか喋れねぇのか最近の若いのは! 客の顔を見て、会話をしろよ会話を!」
店員さんの顔が青ざめ、唇が震え始める。
義父の説教スイッチが入ってしまった。こうなると長い。
「いいか、接客っていうのは心だ。ロボットみたいに復唱すりゃいいってもんじゃねぇんだよ。俺が現役の頃はだな……」
私は助けを求めるように、隣に座る夫を見た。
誠。お願い、何か言って。あなたの父親でしょ。
しかし、誠はそこに「いなかった」。
彼は両手でグラスを握りしめ、氷が溶けていく様をじっと見つめていた。まるで、そのグラスの中に全世界の真理が隠されているかのように。
私がテーブルの下で彼の足をコツンと蹴っても、反応しない。完全に気配を消している。石像の方がまだ愛嬌があるレベルだ。
「……お義父さん」
私はまたしても、自分が動くしかなかった。
「店員さんも確認しなきゃいけない決まりなんですよ。それに、お肉、一番美味しい状態で焼いてもらいたいじゃないですか。ね、楽しみましょう?」
「……ふん。美咲ちゃんは優しすぎるんだよ。こういう時にガツンと言ってやらねぇと、こいつのためにならんのだ」
義父は不満げにナプキンを首にかけたが、説教はようやく止んだ。
店員さんは逃げるように厨房へ戻っていった。
その後も、スープが熱すぎるだの、パンを持ってくるのが遅いだの、義父の文句は止まらなかった。
運ばれてきた高級なステーキは、砂を噛んでいるような味しかしなかった。
誠は一言も発さず、ただ黙々と肉を口に運び、咀嚼し、飲み込む作業を繰り返していた。
この空間にいる全員――義父、私、店員、そして周囲の客――にとって不幸な時間が、永遠のように続いた。
◇
食事会が終わり、義父を実家に送り届けてからの帰り道。
私たちの車内は、行きよりもさらに重苦しい空気に包まれていた。
「……美味しかったな、肉」
誠が沈黙に耐えかねたように、場違いな感想を漏らした。
その一言が、私の導火線に火をつけた。
「美味しかった?」
私は低い声で聞き返した。
「あんな空気の中で、よく味が分かったわね」
「美咲、怒ってる?」
「怒ってるように見えないなら、眼科に行った方がいいよ」
私は助手席で誠の方を向き、語気を強めた。
「ねえ、なんで一言も喋らなかったの? 店員さんが怒鳴られてる時、あなた何してた? 水飲んでただけじゃない」
「だって……隙がなかったし」
「隙なんて作るものよ! 『親父、いい加減にしろ』って一言言えば済む話でしょ!」
「言えるわけないだろ!」
突然、誠がハンドルを叩いて叫んだ。
普段温厚な彼が声を荒らげたことに、私は一瞬たじろいだ。
「……言ったら、もっと酷くなるんだよ。父さんは俺が口答えすると、ターゲットを俺に変えて、過去の失敗まで全部掘り返して何時間でも罵倒し続けるんだ。俺はそれが……怖いんだよ」
誠の声は、怒りというより、悲鳴に近かった。
彼の横顔が、街灯の光で一瞬照らされる。その表情は、三十近い大人の男のものではなく、父親に怯える無力な子供のそれだった。
「子供の頃からずっとそうだった。母さんが泣いてても、俺が熱を出しても、父さんの機嫌が最優先だった。俺には、あの人を止める回路が備わってないんだよ……」
誠の吐露は、悲痛だった。
彼の心の傷が深いことは分かる。同情もする。
でも。
(……それでも、私たちは大人だ)
私は冷えていく心を自覚しながら、静かに告げた。
「誠の気持ちは分かった。でもね、あなたのその『沈黙』は、お義父さんの暴力を肯定してるのと同じなの。共犯者なのよ」
誠はまた口を噤んだ。
私は窓の外に目を向ける。
このままでは、いつか取り返しのつかないことになる。
そしてその予感は、数日後、最悪の形で的中することになる。
その夜、私はなかなか寝付けなかった。
義父が過去に起こしたという「ある事件」の噂を、ネットで検索しようとして、怖くてやめた。
ただ、私の限界は、もうすぐそこまで迫っていた。
夫の「親父が怖い」という気持ち、分からなくもないですが……妻としてはたまったもんじゃありません。
次回、ついに主人公がブチギレます。
「離婚」の二文字が出てきます。




