表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

第3話 地獄の食事会①

ステーキハウス編です。

「マニュアル通りの接客にキレる」という、よくある理不尽なカスハラです。

 店内に響いた義父の怒声に、周囲の客が一斉にこちらを見た。


 優雅にナイフとフォークを動かしていた老夫婦、楽しそうに談笑していたカップル。

 彼らの視線には、明らかに「なんだあれ」「迷惑だな」という色が混じっている。


 私は反射的に店員さんに駆け寄った。


「すみません! この席で大丈夫です。お義父さん、ここ、窓際で景色もいいですよ。ね?」


「はんっ。まあ美咲ちゃんがそう言うなら座ってやるか。気が利かねぇ店だ」


 義父は鼻を鳴らし、ドカッと椅子に座り込んだ。


 店長らしき男性が飛んできて「申し訳ございません」と深々と頭を下げる。

 何も悪くないのに。ただ予約通りの席に通しただけなのに。


 私は申し訳なさで胸が潰れそうになりながら、小さく会釈をして席に着いた。


 だが、これはまだ序章に過ぎなかった。

 本当の地獄は、注文の時に訪れた。


「ご注文の確認をさせていただきます。国産牛サーロインステーキが三つ、焼き加減は……」


 担当してくれたのは、まだあどけなさの残る若い男性店員だった。

 彼がマニュアル通り、丁寧に注文を復唱し始めた時だ。


 ダンッ!


 義父がテーブルを拳で叩いた。カトラリーがチャリと音を立てる。


「お前、俺の話を聞いてたのか?」


「は、はい……?」


「俺は『ミディアムで』ってさっき言ったよな? なんでまた聞くんだ? 俺がボケてるとでも言いたいのか?」


「い、いえ! 確認のために復唱を……」


「それがマニュアルか? マニュアル通りにしか喋れねぇのか最近の若いのは! 客の顔を見て、会話をしろよ会話を!」


 店員さんの顔が青ざめ、唇が震え始める。

 義父の説教スイッチが入ってしまった。こうなると長い。


「いいか、接客っていうのは心だ。ロボットみたいに復唱すりゃいいってもんじゃねぇんだよ。俺が現役の頃はだな……」


 私は助けを求めるように、隣に座る夫を見た。


 誠。お願い、何か言って。あなたの父親でしょ。


 しかし、誠はそこに「いなかった」。


 彼は両手でグラスを握りしめ、氷が溶けていく様をじっと見つめていた。まるで、そのグラスの中に全世界の真理が隠されているかのように。

 私がテーブルの下で彼の足をコツンと蹴っても、反応しない。完全に気配を消している。石像の方がまだ愛嬌があるレベルだ。


「……お義父さん」


 私はまたしても、自分が動くしかなかった。


「店員さんも確認しなきゃいけない決まりなんですよ。それに、お肉、一番美味しい状態で焼いてもらいたいじゃないですか。ね、楽しみましょう?」


「……ふん。美咲ちゃんは優しすぎるんだよ。こういう時にガツンと言ってやらねぇと、こいつのためにならんのだ」


 義父は不満げにナプキンを首にかけたが、説教はようやく止んだ。

 店員さんは逃げるように厨房へ戻っていった。


 その後も、スープが熱すぎるだの、パンを持ってくるのが遅いだの、義父の文句は止まらなかった。

 運ばれてきた高級なステーキは、砂を噛んでいるような味しかしなかった。


 誠は一言も発さず、ただ黙々と肉を口に運び、咀嚼し、飲み込む作業を繰り返していた。

 この空間にいる全員――義父、私、店員、そして周囲の客――にとって不幸な時間が、永遠のように続いた。


 ◇


 食事会が終わり、義父を実家に送り届けてからの帰り道。

 私たちの車内は、行きよりもさらに重苦しい空気に包まれていた。


「……美味しかったな、肉」


 誠が沈黙に耐えかねたように、場違いな感想を漏らした。

 その一言が、私の導火線に火をつけた。


「美味しかった?」


 私は低い声で聞き返した。


「あんな空気の中で、よく味が分かったわね」


「美咲、怒ってる?」


「怒ってるように見えないなら、眼科に行った方がいいよ」


 私は助手席で誠の方を向き、語気を強めた。


「ねえ、なんで一言も喋らなかったの? 店員さんが怒鳴られてる時、あなた何してた? 水飲んでただけじゃない」


「だって……隙がなかったし」


「隙なんて作るものよ! 『親父、いい加減にしろ』って一言言えば済む話でしょ!」


「言えるわけないだろ!」


 突然、誠がハンドルを叩いて叫んだ。

 普段温厚な彼が声を荒らげたことに、私は一瞬たじろいだ。


「……言ったら、もっと酷くなるんだよ。父さんは俺が口答えすると、ターゲットを俺に変えて、過去の失敗まで全部掘り返して何時間でも罵倒し続けるんだ。俺はそれが……怖いんだよ」


 誠の声は、怒りというより、悲鳴に近かった。

 彼の横顔が、街灯の光で一瞬照らされる。その表情は、三十近い大人の男のものではなく、父親に怯える無力な子供のそれだった。


「子供の頃からずっとそうだった。母さんが泣いてても、俺が熱を出しても、父さんの機嫌が最優先だった。俺には、あの人を止める回路が備わってないんだよ……」


 誠の吐露は、悲痛だった。

 彼の心の傷が深いことは分かる。同情もする。


 でも。


(……それでも、私たちは大人だ)


 私は冷えていく心を自覚しながら、静かに告げた。


「誠の気持ちは分かった。でもね、あなたのその『沈黙』は、お義父さんの暴力を肯定してるのと同じなの。共犯者なのよ」


 誠はまた口を噤んだ。


 私は窓の外に目を向ける。

 このままでは、いつか取り返しのつかないことになる。

 そしてその予感は、数日後、最悪の形で的中することになる。


 その夜、私はなかなか寝付けなかった。

 義父が過去に起こしたという「ある事件」の噂を、ネットで検索しようとして、怖くてやめた。


 ただ、私の限界リミットは、もうすぐそこまで迫っていた。


夫の「親父が怖い」という気持ち、分からなくもないですが……妻としてはたまったもんじゃありません。


次回、ついに主人公がブチギレます。

「離婚」の二文字が出てきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ