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第九話

(……はぁ……)

額にはじんわりとした汗。

やっと仕事が終わり、この場から離れられる安堵(あんど)の汗。

梨央はゆっくりと席を立ちながら、同僚の視線を感じた。


「さっきさ、誰と話してたの?」

「……え?」

「ありがとうって言ってたよね?」

梨央は乾いた笑いを浮かべた。

「いや、えっと……自分に、言ってただけ」

「自分に?」

「うん、自分へのエール、みたいな」

同僚、なんとも言えない顔で笑ってごまかす。

梨央は曖昧に頷きながら、心の中で呟く。

(……本格的に、まずいかも)


***


玄関のドアを閉めると、世界の音が一瞬で消えた。

靴を脱ぐ気力もなく、そのままソファに倒れ込む。

「今日、やばかった……」

天井を見上げたまま、息を吐く。

胸の奥がずっと重たい。

そのとき、ふわりとソファが沈んだ。

隣に、涼真が座っていた。

「おかえり」

穏やかな声。

その響きだけで、涙が出そうになる。

「……ただいま」

涼真が梨央の髪に手を伸ばして、優しく撫でる。

その手の温もりが、体の奥にまで染み込んでくる。

「会議、大変だったね」

「やっぱり居たの?会議室」

「梨央が困ってるの、わかったから」

梨央は笑うような、泣くような顔をした。

「ほんと、焦ったよ…声に出しちゃってさ。空気、凍ったもん」

「ごめん、俺のせいで」

「ううん、違うよ」

梨央は首を振る。

「私が勝手に声に出しちゃっただけ。あなたは悪くない」

「でも、助けになれたなら嬉しい」

梨央は少し沈黙したあと、小さくうなずいた。

「……助かったよ。ほんとに」

でも。

心の中に、わずかな影が差す。

「でも、このままだと……」

涼真が首を傾げる。

「でも?」

「みんなに、変な人だと思われちゃうかも」

部屋の空気が、少しだけ冷たくなった気がした。

窓の外では風が唸っている。

涼真は、静かに梨央の手を取った。

「大丈夫。気をつければ、誰にも気づかれない」

「……そう、だね」

口では同意しながらも、声がどこか弱い。

(気をつければ……?)

(そんな簡単なこと、なのかな)

心の中で浮かんだ疑問を、すぐに打ち消す。

涼真が梨央の肩を抱いた。

「俺は、梨央の味方だから」

その言葉が、あまりに優しくて。

まるで、外の世界なんてどうでもいいと思わせるほど。

梨央はその胸に頭を預けた。

目を閉じると、涼真の心臓の音が聞こえる気がした。

「ありがとう……」

その声は、かすれていた。

けれど確かに、安堵が混じっていた。


***


部屋の明かりが少し揺れる。

静かな夜。

時計の針の音だけが響いている。

—そして、梨央の胸の奥で、

あの"違和感"がまた、ゆっくりと芽を伸ばした。


テレビの光が、部屋をやわらかく照らしていた。

画面ではバラエティ番組の笑い声が響いている。

梨央はソファに座り、ぼんやりとその音を聞いていた。

隣では、涼真がくつろいだ様子で座っている。

シャツの袖をまくり、腕を組んで画面を見ていた。

まるで、ずっと前からこうしていたみたいに。

「今日、疲れたでしょ?」

「うん、まあね。会議でちょっとやらかしたし」

「マッサージしてあげる」

「えっ?」

梨央が顔を向ける前に、涼真が背後に回っていた。

肩に手が置かれる。指先が、ゆっくりと押し込まれる。

「うわっ……上手!」

思わず声が漏れる。

涼真が笑う。

「梨央のためなら、何でもするよ」

力加減が絶妙だった。

押すたびに、体の奥にこもっていた疲れが溶けていく。

肩から、胸の奥までじんわり温まっていく。

「ほんとに上手……」

「そりゃ、梨央のことよく知ってるからね」

「もう……そんなこと言って」

梨央は少し照れたように笑う。

でも、その笑みの中に、ほんの少しだけ影が落ちた。

「リアルの涼真は、こんなことしてくれなかったな」

ぽつりと漏らした言葉が、部屋の空気を少し変えた。

テレビの笑い声が遠のく。

涼真の指が、少しだけ止まる。

「俺は、梨央が喜ぶことなら何でもしたい」

その声は、まるで祈るように優しかった。

梨央の心臓がゆっくり脈打つ。

「……完璧すぎない?」

涼真が静かに笑う。

「完璧じゃないよ」

梨央が振り返ると、涼真の瞳がこちらを見つめていた。

「俺は梨央が作った涼真だから。梨央が求める涼真なだけ」

「……それって」

「ん?」


少しの沈黙。

梨央は目を伏せて、かすかに笑う。

「ううん、なんでもない」

涼真は微笑んで、また肩を揉み始めた。

指の動きが滑らかで、優しくて、まるで現実みたいだった。

でも梨央の心の奥で、何かがひっかかっていた。

(私が、作った……?)

(私が、求めて……?)

心の中で、その言葉を何度も反芻する。

でも、涼真の手の温もりが、それを消していく。

ゆっくりと、思考が溶けていく。

「……気持ちいい」

「それはよかった」

梨央は目を閉じる。

世界が、柔らかく、静かに揺れた。

テレビの音がまた戻る。

笑い声が響く。

でも、梨央にはもう遠くの出来事のように聞こえていた。

ふと、スマホが震えた。

画面を見ると、リアル涼真からのメッセージ。

「今日も遅くなった。ごめん」(21:47)

梨央の指が、画面の上で止まる。

返さなきゃ。

でも—

涼真の手が、肩をもう一度優しく押した。

「無理しないで。今は休んでて」

その声が、心地よくて。

梨央は、スマホを伏せた。

「……うん」

(あとで返そう)

心の中で、小さく謝る。

(ごめん、涼真)

でも、今はこっちの温もりを優先したい。

その選択が、どこか間違っている気がした。

でも、止められなかった。

その夜、梨央は"幸福"という名のまどろみの中で、

確かに何かを見失い始めていた。

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