第八話
【午前10時】
社内の空気は、コーヒーとプリンターの匂いが混ざっていた。
梨央はモニターに向かって、デザインデータをいじっている。
集中していると、世界がモニターの中だけになる。
その時間が好きだった。
—はずなのに。
「それ、いいデザインだね」
不意に横から声がする。
「……え?」
梨央が顔を上げると、涼真が隣に立っていた。
白いシャツにネイビーのジャケット。
出勤スタイル、完璧。
「え、ちょっと待って。なんでここにいるの?」
声をひそめながら、周囲を確認。
斜め前の田中さんは、あいかわらずイヤホンをしてノリノリでタイピング。
誰も気づいていない。
涼真が、当たり前みたいに答える。
「梨央が呼んだから」
「呼んでない!」
焦って小声で言い返す。
涼真が軽く笑う。
「でも、会いたいって思ったでしょ?」
「…………」
図星だった。
朝の別れ際、ちょっと寂しくなった。
それは確かに思った。
一瞬だけ。
でも、それだけで—
「……思ったけど!それとこれとは—」
「同じだよ」
あっさりと言って、涼真は梨央の隣の空いてる椅子に座る。
完全にくつろいでいる。
梨央は小声で「ちょっ、やめてって……!」と声を上げた。
でも涼真は笑って、梨央のモニターを覗き込む。
「この色、いいね。前より柔らかくなった」
「……ありがとう。でも今は仕事中だから…」
「知ってる。見てるだけ」
涼真は机に肘をついて、梨央の手元をじっと見ている。
その視線がくすぐったい。
(やめてよ……集中できない……)
それでも、どこか嬉しい。
彼が見ていてくれることが、心地いい。
マウスを握る手が、少し震える。
「ねえ、ここの文字、もう少し左がいいんじゃない?」
「え?」
思わず画面を見ると、確かに少しバランスが悪い。
カーソルを動かして調整する。
「……ほんとだ。ちょっと良くなった」
「ほらね」
涼真、満足そうに微笑む。
その笑顔を見て、梨央もつられて笑った。
(いやいや、ダメでしょこれ……)
頭ではわかってる。
でも心の奥は、静かにときめいている。
***
「ねえ、昼休み一緒に食べよう」
「ここで!?」
「うん。梨央のお弁当、美味しいもん」
「……見てたの?」
「だって昨日、夜中に作ってたでしょ?」
梨央、固まる。
昨夜、誰にも言ってないのに。
一人で台所に立って、卵焼きを巻いた。
その時、涼真は—
(いなかった、はず)
「……夢の中で見たんだよ」
涼真が冗談っぽく笑った。
梨央は苦笑いする。
「もう、やめてよ。心臓に悪い…」
「冗談だって」
でも、その笑顔は冗談には見えなかった。
プリンターがガガガと音を立てる。
その現実の音が、場を切り替えるように響く。
梨央は深呼吸して、マウスを握り直した。
「もう……ほんとに、集中できない」
「それは俺のせい?」
「100%そうだよ」
涼真、笑って頬杖をつく。
「じゃあ、光栄だね」
梨央は呆れたように笑いながらも、顔の筋肉が少し緩む。
(……ほんと、どうしよう)
目の端で彼の姿を確認する。
そこにいる。
まるで普通の恋人みたいに。
モニターの光が、涼真の輪郭をわずかに透かしていた。
梨央は、それに気づかないふりをした。
***
【午後2時】
会議室の蛍光灯が、少し白すぎる。
梨央はノートPCの画面をプロジェクターに映し、資料をめくっていく。
「それでは、次のスライドに移ります」
声が少し震える。
緊張のせいでもあり、眠気のせいでもある。
昼食後の会議は、社会人の敵だ。
(落ち着け……落ち着け……)
その時、右側の席に"誰か"が座る気配。
視線をそっと向けると——
涼真が、にこっと笑っていた。
「大丈夫、梨央ならできるよ」
梨央の耳元で、柔らかく囁く。
息がかかるような距離。
一瞬、全身がふっと軽くなった。
心臓の鼓動がゆるむ。
(そうだね…私ならできる…)
梨央は深呼吸して続けた。
「今回のデザインコンセプトは、日常の中の特別感です」
よし、できた。
上司もうなずいている。
と思ったの次の瞬間—
「この部分、もう少し詳しく説明できる?」
上司の声。
鋭いトーン。
梨央、思わず言葉に詰まる。
(どうしよう…ここ、どう説明しよう…)
「ユーザー目線で、具体例を出せばいいよ」
耳のすぐ近くで温かい声。
反射的に—
「あ、そっか。ありがとう」
空気がピタリと止まった。
……え?
梨央がゆっくり顔を上げる。
上司も、同僚も、全員が梨央を見ていた。
「……え???」
時間が、異様にゆっくり流れる。
頭の中でサイレンのような音が鳴る。
「……あ、いえ! えっと、独り言です!」
梨央の顔が熱くなり、みるみるうちに真っ赤になった。
「その、ユーザー目線で……具体例を……!」
声が裏返る。
慌ててプレゼンを続けるが、口が空回りしている。
斜め向かいの席から、同僚のヒソヒソ声。
「今、ありがとう…って言ってたよね……?」
「うん、言ってた…」
「誰かになんか言われてたっけ?」
会議室の空気が微妙にザワつく。
梨央の心臓が、爆発しそうだった。
(やばい、やばいやばいやばい)
ふと横を見る。
—涼真が笑っている。
まるで、何も起きていないかのように。
優しく微笑んで、梨央を見守っている。
(……お願い、今だけは黙ってて)
梨央は資料に目を戻し、声を絞り出した。
「えっと……たとえば、朝の通勤時間に感じる小さな幸せ——」
なんとか言葉を繋ぐ。
震える手でマウスを操作し、スライドを進める。
「上手いよ、その言い方」
梨央の背筋がピクッと跳ねた。
顔を上げられない。
目線を上げたら、誰かに見られる気がした。
—現実の誰かじゃなくて、もっと別の何かに。
会議が終わると同時に、梨央は深く息を吐いた。
隣を見ると—
涼真の姿が、ゆっくりと薄れていく。
まるで朝霧が晴れるように。
あたりを念入りに見回しても、そこには誰もいなかった。




