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第七話

朝、まぶたの裏に光が(にじ)んだ。

柔らかい香りが鼻をくすぐる。柑橘(かんきつ)と、ほんの少しだけシャンプーの匂い。

梨央が目を開けると、隣に涼真がいた。

枕に顔を寄せて、子どもみたいな寝癖をつけたまま笑っている。

目が合うと、彼が言った。

「おはよう」

声が、近い。温度を帯びて胸に落ちた。

梨央の心臓が跳ねる。

(そうだ。昨日からこの人いるんだった…)

「お、おはよう……」

声がかすれて、喉の奥で絡まる。

涼真が笑って、梨央の髪を撫でた。

指先が頭皮に触れる。

熱を帯びた感触が、髪の奥で生きているみたいだった。

「よく眠れた?」

「うん……」

朝の光が、カーテンの隙間から差し込む。

埃の粒がゆっくり漂って、光の筋の中で金色に瞬く。

その静けさが、あまりに優しかった。

涼真が言う。

「今日も可愛いね」

梨央は反射的に顔を赤らめた。

「朝からそういうの、やめてよ」

「だって本当のことだし」

思わず笑いがこぼれた。

(……本物の涼真には、こんなこと言われたことない)

でも、その思いはすぐに溶けて消えた。

「朝ごはん、一緒に作ろうか」

「え?」

思わず素っ気なく返してしまった自分に、胸がひやりとする。

梨央はまばたきを一度だけして、困惑を隠しきれないまま続けた。

「…いいの?」

「もちろん。なに作る?」

「じゃあ…卵焼き」

「了解」

涼真が伸びをして立ち上がる。

その姿が朝の光を浴びて、輪郭が柔らかく溶けていく。

まるで光そのものが彼を形づくっているようだった。

梨央は布団の上で、彼の背中を目で追った。

(……夢じゃない、よね)

キッチンから音がする。

卵を割る音。油が熱に反応して、ぱちぱちと小さく跳ねた。

フライパンの香ばしい匂いが、空気を温める。

梨央はスマホを手に取った。

画面に通知。

『おはよう。今日も早いから、もう出る』(6:32)

リアルの涼真から。

画面の白が、光に溶けて目に刺さった。

短い文。冷たい指先。

(……これが現実)

心の奥が、ずきりと痛む。

でも—

キッチンから声が飛ぶ。

「梨央、砂糖どこ?」

「あ、左の棚」

「ありがとう!」

その声が、やけに温かく響いた。

梨央はスマホを伏せて、ベッドを降りた。

床の冷たさが足裏を刺す。

現実の感触。

キッチンから聞こえる声は、それらよりも温かかった。


***


キッチンでは、涼真がエプロンを結んでいた。

フライパンの上で卵がゆっくりと固まっていく。

立ち上る湯気が、白く揺れる。

「料理、上手なんだね」

涼真が笑った。

「梨央のためなら、何でも覚えるよ」

梨央は一瞬、息を止めた。

(そんなこと……言われたことないな)

彼の横顔が朝の光で縁取られて、やけに眩しかった。

皿に盛られた卵焼きは、ふんわりしていて、まるで花びらのように黄色い。

ひと口食べる。

甘い。やさしい。

まるで記憶の中の味。

(あれ……)

リアル涼真には、甘めが好きだなんて言っていない。

料理の話なんて、最近してない。

けれど、彼は当然のようにそれを作った。

「……ねえ」

「ん?」

言いかけて、やめた。

口の中の甘さが、言葉を溶かした。

(気のせい、だよね)

「おいしい」

「よかった」

笑い合う声。

窓の外の光。

すべてが、完璧に調和している。

完璧すぎて、少しだけ怖い。

テーブルの上で、スマホが震えた。

また現実の音。

梨央は画面を見ず、裏返した。

その瞬間、涼真がそっと梨央の手に触れた。

「無理しないで」

その温度に、梨央の胸がふわりとほどける。

(こっちのほうが、本物みたい)

でも—心の奥で、小さな声が囁いた。

(本当にそう?)


***


身支度を済ませ、玄関で靴を履く。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

背後で、涼真の声が微かに揺れた。

頬に温かいものが触れた。

キス…された。

「頑張ってね」

彼の唇が離れたあと、空気が一瞬止まる。

梨央の顔が熱を帯びる。

「……ずるい」


ドアを開けると、冷たい空気が頬を撫でた。

振り返ると、涼真が手を振っている。

梨央は小さく笑って、ドアを閉めた。

廊下に立つ。

心臓がまだ、軽く跳ねている。

一歩、二歩。階段を降りる。

(……けっこう幸せかも)

電灯が、一瞬だけ明滅した。

梨央はふいに立ち止まる。

(……今のなに?)

思わず周りを見渡す。

誰もいない廊下。

白い蛍光灯の光だけが、冷たく照らしている。

胸の奥が、ざわついた。

(気のせいだよね)

もう一度、階段を降り始める。

背中に視線を感じる気がして、思わず足早になった。

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