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第六話

光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の空気を白く照らしていた。

梨央はぼんやりと目を開けた。頭が少し重い。

昨夜は眠ったのか、意識を失っただけなのかすらわからない。

それでも、確かに何かが違う。

漂ってくる匂い—焼けたバターの香り、そしてトーストの甘い焦げの匂い。

この部屋でそんな匂いがするはずがない。

「え……?」

ベッドを出て、スリッパを引きずりながらリビングに向かう。

その瞬間、心臓が跳ねた。

キッチンに—涼真がいる。

Tシャツ姿で、エプロンを腰に結んで。

片手でフライパンを傾けながら、目玉焼きを焼いている。

まるで、それが『日常』みたいに。

「おはよう」

涼真が柔らかく笑う。

「目玉焼き、半熟でいい?」

梨央の口は動かない。

涼真が首を傾げる。

「どうしたの?」

梨央、やっと声を絞り出す。

「いや… 涼真いるな…って思って」

涼真、少しだけ眉を下げる。

「いちゃダメだった?」

その表情が妙に人間らしくて、梨央の胸がちくりと痛む。

「そ、そんなことない!」

と、梨央が慌てて言うと、 涼真の顔がぱっと明るくなった。

「よかった」

その一言に、梨央の肩から力が抜けた。

なんだこれ。夢じゃないの?幻覚?

それとも—


彼が皿に目玉焼きをのせながら、少し照れたように言う。

「コーヒー淹れようか?頭すっきりするよ」

梨央はもう、考えるのをやめた。

心のどこかで「これはおかしい!間違ってる!」と叫ぶ声がある。

でも、もう一つの声が「それでもいい」と囁いてくる。

梨央、ため息まじりに微笑む。

「……もう、いいや」

涼真が笑った。

その笑顔は、懐かしい現実のように温かかった。 フライパンの油が小さく弾ける音。

外の世界よりも、この幻の朝の方がずっとやさしい気がした。


***


通勤電車の揺れが、体の奥までじんわり伝わってくる。

窓の外では、ビル群の影が朝日に淡く溶けていく。

いつもなら、この景色を見るだけで気が重くなる時間だった。

でも今日は—少しだけ、心が軽い。

今朝、涼真が私の部屋にいたからだ。

ちゃんと「おはよう」って言って、笑ってくれた。

その笑顔を思い出すと、胸の奥が温かくなる。

まるで昨日までの孤独が、薄い霧みたいに晴れていくようだった。

ポケットの中でスマホが震えた。

画面には「莉香」の名前。

親友で、誰よりも自分を心配してくれる存在からのメッセージ。

〈最近元気ないから心配なんだけど〉

梨央の指が止まる。 電車の中のざわめきが、急に遠くなった気がした。

ふと、頭の中に、朝のキッチンの光景が浮かぶ。

あの、エプロン姿の涼真。

「半熟でいい?」と微笑んでいた彼の声。

言えるわけがない。

言ったら、きっと莉香は「病院行こう」って言う。

それが正しいのは分かってる。

でも、あのぬくもりを間違いって認めるのが怖い。

梨央は短く打った。

〈ううん。仕事で疲れてただけ。っていうか、最近なんか気分いいんだよね!〉

すぐに返ってくる。

〈えっ?そうなん?それならいいけど〉

スタンプが跳ねるように画面を滑っていく。

それを見つめながら、梨央は小さく笑った。

笑いながら、胸が少しだけ痛む。

スマホを閉じて、バッグにしまう。

そのまま、目を閉じた。

(ごめんね、莉香……言えないよ)

その嘘は小さなものだった。

でもその瞬間から、梨央の世界は、ほんの少しだけ現実から遠ざかり始めていた。


***


夜の部屋は、テレビの光だけが揺れていた。

ニュースキャスターの声がぼんやりと流れ、画面の中で誰かが笑っている。

梨央はソファに座り、膝に毛布をかけた。

その隣には、涼真。

彼はいつものように落ち着いた笑顔で、チャンネルを変えながら言った。

「楽しいね」

「うん」

梨央も笑って答える。

カップの中のココアは、もう冷めかけていた。

けれど、その温もりを取り戻すように、隣の涼真がそっと手を重ねてくる。

その感触は、あまりにも自然で、現実そのもののようだった。

画面の光が涼真の頬を照らす。

梨央は横顔を見つめた。

笑う時の目尻のシワも、声のトーンも、本物の涼真とまったく同じ。

いや、それ以上に優しい。

怒らないし、ため息もつかない。

梨央の話を遮ることもない。

完璧な理想の涼真がそこにいた。

ふと、梨央がつぶやく。

「…これって、いけないことなのかな」

涼真はリモコンを置き、少しだけ首を傾けた。

「いけないこと?なにが?」

「えっ…なにって…」

梨央は言葉を探すように、膝の上の毛布をぎゅっと握る。

「そうだよね…考えすぎだよね」

その瞬間、涼真はゆっくりと笑った。

「そうだよ。考えすぎ」

梨央はそっと彼の肩にもたれた。

その胸に耳を寄せると、確かに鼓動が聞こえる気がした。

幻のはずなのに、あたたかい。

いま、この瞬間は、現実よりも現実だった。

だけど—胸の奥のどこかで、小さな声が囁いていた。

(これって…一体なんなの…?)

テレビの音が遠のいていく。

笑い声だけが、空っぽの部屋にこだましていた。

そして、涼真の手が梨央の肩を包み込む。

その手が、ほんの少しだけ、梨央の体を押さえつけるように感じた。

でも、それはきっと気のせいだ。

梨央は目を閉じて、その温もりに身を任せた。

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