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第五話

リビングの照明は、いつもと同じ柔らかなオレンジ色。

けれど、部屋の空気はどこか重く沈んでいる。

梨央はソファに座り込み、両手で顔を覆ったまま、何も言えずにいた。

指の隙間から覗く視界の端で、涼真がゆっくりとしゃがみ込む。

目線を合わせて、彼は穏やかに首を傾けた。

「大丈夫? 顔色、悪いよ」

優しい声。 聞き慣れた、何百回も夢で聞いた声。

でも、それが今、自分の目の前から聞こえる。

梨央は、口を開けても声が出なかった。

数秒遅れて、ようやく、掠れた言葉がこぼれた。

「……あなた、誰?」

涼真は、少し驚いたように眉を上げたあと、ふっと笑った。

「えっ?神吉(かみよし) 涼真(りょうま)だけど」

まるで、昨日も今日もずっと隣にいたみたいな自然さで。

梨央は、唇を噛んでゆっくり首を振る。

「でも……涼真は、東京にいる……。仕事で……」

声が震える。喉の奥が痛い。

現実を確認するたびに、世界が壊れていく感覚。

涼真はその言葉を聞いて、ゆっくりと頷いた。

「そうだね」

間を置いて、穏やかに続ける。

「でも、俺はここにいる」

梨央の呼吸が止まった。

「意味わかんない……どういうこと……?」

「梨央が俺を呼んだんじゃない?」

その一言で、空気が変わった。 なんか時間が止まったような…。

梨央の目が揺れる。

「私が呼んだ……?」

「うん」

涼真は微笑む。その表情には一片の疑いもない。

「寂しかったんでしょ?」

その瞬間、梨央の胸の奥がきゅっと締めつけられた。

目の奥が熱くなる。

こみ上げてくるものを抑えきれず、ぽつりと涙が頬を伝った。

涼真は、何も言わずに立ち上がると、そっと梨央の肩に手を置いた。

あたたかい。

すごくあたたかい。

涼真の手だ。

「だから、俺が来たんだ」

その声に、梨央の中で何かが崩れ落ちた。 自分の中でずっと押し込めてきた孤独が、形を持って目の前に現れたような気がした。

ぽろぽろと涙がこぼれる。

止まらない。


涼真は静かに彼女を抱きしめた。

胸に顔をうずめると、シャツの布越しに感じる温もりがあまりにもリアルで、息が詰まる。

梨央が呟いた。

「私、おかしくなっちゃった…」

涼真は少し間を置いて、柔らかく答える。

「大丈夫、俺はここにいるから」

その言葉が、梨央の心にすっと沈んでいく。

正しいとか、間違ってるとか、もう考えられなかった。

ただ、誰かの腕の中で泣けることが、あまりにも久しぶりで。

彼女は涼真の胸の中で、声を殺して泣いた。

嗚咽(おえつ)が静かにリビングの空気を震わせる。 涼真の手が、髪を優しく()でた。


***


夜、静まり返った部屋に時計の針の音だけが響いていた。

梨央はベッドに仰向けになり、天井をぼんやりと見つめていた。

ついさっきまで、そこに涼真がいた。

「おやすみ」と微笑んで、まるで夢が消えるように姿を消した。

手のひらには、まだ温もりの残り香がある気がした。

けれど、その温もりを確かめようと指を握っても、ただ冷たい空気が絡まるだけ。

現実が少しずつ戻ってきた。

その現実が怖かった。


梨央は枕元のスマホを手に取った。

指先が震えて、文字を打つのに時間がかかる。


「幻覚 恋人 見える」


検索ボタンを押す。

すぐに無数の記事が表示された。


『ストレス性の幻覚』

『一時的な妄想』

『統合失調症の初期症状の可能性』


スクロールする指が止まる。

その文字列を見た瞬間、心臓の奥がひやりと凍る。

「……やばい。私、病気……?」

声に出した途端、現実が重くのしかかってきた。

胸がぎゅっと締めつけられる。

息を吸っても、どこかで空気が詰まるような感覚。

だれど—次の瞬間、頭の奥に浮かぶ。

あの優しい声。

「寂しかったんでしょ?」

そう言ってくれた涼真の微笑み。

そして、抱きしめられたときの、確かに感じた温もり。

その記憶を思い出した瞬間、梨央の目から静かに涙がこぼれた。

あれは幻でも、夢でも、何かの発作でもいい。

あのときだけは、誰かに受け入れられた気がした。

誰かが自分を必要としてくれていると、心から思えた。

「どうしよう……」

枕を抱きしめながら、ぽつりとつぶやく。

どうしようもない不安と、どうしようもない安堵。

その二つが胸の中でせめぎ合って、涙が止まらなかった。

「幻覚」なのに、「現実」よりも優しい。

その事実が、いちばん怖かった。

でも同時に、 その腕の中で感じた温もりがあまりにも心地よくて、 梨央は静かに目を閉じた。

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