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第四話

その日の夜。

玄関のドアを閉める音が、いつもより響く。

「ただいま」と口にしても、もちろん返事はない。

部屋は静まり返っていて、冷蔵庫のモーター音が唯一の生活音。

梨央はバッグをソファに投げ、キッチンでエプロンを手に取った。

生地の紐を首にかけると、少しだけ背筋が伸びる。

「さてと、何作ろうかな…」

冷蔵庫の扉を開けると、ひんやりした空気が頬をなでた。

野菜室にはニンジンとピーマン。 上の段には鶏むね肉。

手慣れた動作で取り出して、まな板に並べる。

鶏むね肉、二枚。 玉ねぎ、二個。 ふと、手が止まった。

「……あれ?」

梨央は首をかしげ、しばらくそれらを見つめた。

「…なんで二人分?」

一瞬、何かが胸をかすめた。 でも、すぐに小さく笑う。

「まあ、余ったら明日食べればいいか」

包丁を握り、玉ねぎの皮をむく。

シャリッという音が指先を伝う。

玉ねぎを半分に割ると、涙腺にじわりと刺激が走った。

「うわ、目にしみる……」

笑いながら涙をぬぐう。 リズムよく包丁がまな板を叩く。

コンロの火をつけ、油を垂らす。

その香ばしい匂いが、部屋中に広がっていく。

ふと、背中の方で床がきしっと鳴った…気がした。

でも梨央は振り返らなかった。

生活の中にはいくらでも気のせいがある。

フライパンの上で、鶏肉がじゅっと音を立てる。

梨央は、ひとりごとのように呟いた。

「……ねえ、これ美味しくできるかなあ」

返事はない。

けれど、なぜか聞かれている気がした。

その感覚を、不思議と心地よく思いながら、 梨央はそっと火加減を弱めた。

湯気の向こうに、ふともう一人分の影が揺れた。


キッチンには焦げた玉ねぎの匂い。

換気扇を回す音が、妙にうるさく聞こえる。


目の前に…涼真。


腕を組んで、にこっと笑っている。

あのいつもの、少し照れたような笑顔。


は?


—いや、いつものって何言ってるの? 

だって彼、今東京にいるはずでしょ。

梨央は心臓を押さえながら、そろそろとスマホを手に取った。

テーブルの上。画面には、昨夜のやり取りが残っている。

「今日も残業だった。明日も早いから寝る。おやすみ。」

そう。間違いなく、彼は東京にいる。

「……夢? いや、夢じゃない。だって痛いし、煙いし」

自分で頬を軽くつねる。痛い。しっかり現実。

ちら、と涼真のようなものを見る。

彼はキッチンの壁にもたれて、まるでここに住んでますけど何か?という顔をしている。

それが余計に怖い。

いや、怖いというより、混乱する。

「ちょっと待って…確認、確認…」

自分に言い聞かせるように呟きながら、スマホの通話アプリを開く。

手が微妙に震えている。押す指がずれる。

発信。

コール音。

ぷるるるるる……

部屋の空気が張りつめる。

目の前の涼真は、相変わらず穏やかな顔をしている。

彼のポケット、鳴らない。 彼はスマホを持っていない。いや、それ以前に、出る気配すらない。

ぷるるるるる…

ぷるっ

呼び出し音のリズムが、なぜか心臓の鼓動にシンクロしてくる。

目の前の涼真は壁から離れ、こちらに近づいてくる。

「なにしてんの?」

涼真の声。優しい声。

でも、同じ声がスマホのスピーカーからも流れてきた。

「もしもし?」

え? え? 

えええ?

目の前の涼真は口を動かしていない。

なのに、耳からははっきりと—東京にいる彼の声。

「もしもし? 梨央? どうした?」

「……あ」

脳がフリーズする。

何をどう説明すればいい? 説明できる? いや無理。

とりあえず、反射的に 「あ、ご、ごめん、間違えた!」

通話終了。

スマホを胸に押し当てる。

鼓動がバクバクして、酸素が足りない。

さっきまで温かかった空気が、急にひんやりする。

その時。

「誰から?」と、目の前の涼真が首をかしげた。

笑ってる。

普通に。

まるで、そこにいるのが当然みたいに。

「………………え」

喉から音が出ない。 口がぱくぱく動くだけで、魚みたいに空気を飲み込む。

「だ、誰…? って……いや、誰って……あなた……え??」

「どうしたの?」

その声が優しいほど、世界がぐにゃっと歪んでいく。

「……無理……ちょっと、無理……」

壁に手をついて、一歩、二歩、下がる。

膝が笑う。腰が抜けそう。

「無理無理無理……待って待って待って、え、なにこれ、ホログラム? AI? え、なに?これ夢?」

早口でまくしたてながら、スマホを握る手が震える。

目の前の涼真が、一歩、こちらに歩み寄る。

「大丈夫?」

—その瞬間、梨央の足がすべって、床にぺたんと座り込んだ。

スカートの裾を押さえたまま、呆然と彼を見上げる。

「……夢じゃない……の?」

涼真はしゃがみ込み、目線を合わせる。

「夢?」

彼は軽く笑った。あの、優しい、あの笑い方で。

なんか怖い。

「……わけ、わかんない……」

髪の毛が頬にかかる。

涼真の姿は消えない。

影も、呼吸も、全部現実のもののようにそこにある。

「疲れてるのかも」

彼の声が、優しく落ちてくる。

「でも、大丈夫だよ。俺がいるからさ」

その言葉で、梨央の心の糸がぷつんと切れた。

恐怖と安心がごちゃ混ぜになって、笑いが漏れる。

「はは……そう、だね……ありがと……」

顔を(おお)って笑う梨央の瞳から、涙が一粒、ぽとりと落ちた。



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