第三十話[完]
涼真が東京に帰った日の夕方。
部屋に戻った梨央は窓際に立っていた。
カーテンを開けると、福岡の街が夕暮れに染まっている。
オレンジ色の光が、ビルの窓を照らしていた。
涼真はもう東京に着いた頃だろうか。
胸の奥に少しだけ寂しさが残る。
でも、以前のような不安はなかった。
スマホを手に取る。
画面を見つめて少し迷う。
指先が震える。
何度もホーム画面に戻り、また開いて。
心臓が早鐘を打っている。
梨央はゆっくりと文字を打った。
『莉香会える? 話したいことがある』
指が送信ボタンの上で止まる。
一秒、二秒。
息を吸って押した。
胸の奥が少し震える。
だが、その不安が返事を待つ間もなく消えた。
ピロン。
「いつでも!今から行っていい?」
梨央は思わず笑みをこぼした。
嬉しくて。
「うん待ってる」
***
ほんの数十分後、ドアのチャイムが鳴った。
ピンポーン。
梨央は深く息を吸い、ドアノブに手をかける。
扉を開けた瞬間——
「りお!」
莉香が全力で飛び込んできた。
その温もりが、梨央を包み込む。
強い力でまるで二度と離さないみたいに。
梨央は一瞬息を呑んだ。
「心配したんだから!」
その声は震えていて、泣き笑いのようだった。
莉香の腕の中で、梨央の目から涙がこぼれる。
「ごめん」
小さくかすれた声。
「謝らなくていいって!」
莉香は涙を拭って、少しだけ梨央の顔を覗き込んだ。
赤くなった目で。
「ちゃんとごはん食べてる?」
「……うん。最近は」
その言葉に、莉香はようやくほっと息をついた。
肩の力が抜けて、笑顔が広がる。
部屋の中に柔らかい空気が戻ってくる。
リビングの窓からは、夕暮れの光がやさしく差し込んでいた。
カーテンが風に揺れて、光が床に模様を描く。
二人の間に流れる空気は、どこか懐かしく、あたたかかった。
壊れた時間が、少しずつ元の形を取り戻していく。
それは春の陽だまりみたいに穏やかな再会だった。
***
リビングの空気は夕暮れの日差しにゆるやかに溶けていた。
テーブルの上には淹れたてのコーヒー。
カップから立ちのぼる湯気が、ゆらゆらと揺れている。
二人は静かに座っていた。
莉香が優しく笑いながらも、どこか真剣な目をして言った。
「で、何があったの?」
梨央は視線を一瞬だけ泳がせた。
コーヒーカップを見つめて、窓の外を見て、また手元に視線を落とす。
口を開こうとして閉じて。
深く息を吸った。
そして、ゆっくりと吐いた。
目の前のコーヒーカップに映る自分の顔が少し揺れている。
莉香は、まっすぐ梨央を見た。
「最近……幻覚が見えてたの」
言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が少しだけ揺れた。
時計の針の音だけが、カチ、カチと響いている。
莉香は驚いたように瞬きをした。
一度、二度。
それからすぐに表情を整えた。
動揺を見せないように、優しい顔のまま。
「涼真の幻覚」
小さくけれど確かに震える声で梨央は続けた。
「寂しくて、どうしようもなくて……その幻覚にすがってたの」
梨央の指先がカップを握る手に力を込めた。
莉香は唇を結んだまま、ただ静かに聞いていた。
責めるでも、否定するでもなく。
梨央の声の一つひとつを、胸で受け止めるように。
「完璧な涼真がいつも側にいてくれた。優しくて、温かくて……でもそれは本物じゃなかった」
涙が一粒、テーブルに落ちる。
ぽたりと小さな音。
「莉香を拒絶して現実から逃げて……本当に、ごめん」
「りお……」
梨央はうつむいた。
「ごめん。心配かけて。でも、もう大丈夫」
しばらくの沈黙のあと、椅子が音を立てた。
莉香が立ち上がり、梨央の隣に腰を下ろす。
そして何も言わずに抱きしめた。
梨央の肩に顔を埋めて、ぎゅっと。
「よく話してくれたね」
その言葉に、梨央の目から涙がこぼれた。堰を切ったように。
「ありがとう……」
莉香は梨央の背をゆっくりと撫でた。
優しいリズムで。
「これからは何でも相談してよ。どんなことでも」
「うん」
莉香はそっと笑った。
涙声で笑った。
「私、ずっと味方だから」
「……うん」
梨央は莉香の腕の中で、体の奥からじんわりと温かさが広がっていくのを感じた。
孤独で凍っていた心がゆっくりと溶けていく。
それは光の中で生まれ直した温もりだった。
***
莉香が帰った部屋。
明かりをつけると、柔らかなオレンジ色が空間を包み込んだ。
玄関の靴を脱ぎながら梨央は小さく息を吐く。
ふう。
静かだった。
けれど、あの頃のような「ひとりぼっちの静けさ」ではない。
そこには、穏やかな余白のような静けさがあった。
誰かを待つわけでもなく、誰かに怯えるわけでもなく。ただそこにあるやさしい沈黙。
バッグをソファに置き、窓際へ歩く。
福岡の夜はどこか柔らかい。
東京のような眩しさはないけれど、その分だけ温かい光がある。
以前はこの景色を見ても何も感じなかった。
ただ暗くて、遠くて、自分とは関係のない世界だと思っていた。
でも今は——
「きれいだな」
自然と言葉がこぼれた。
風が少しだけ揺らしていくレースの裾を見つめながら、梨央は微笑んだ。
そのとき、スマホが小さく震えた。
画面には「涼真」の名前。
指先が自然に動く。
もう迷わない。
ビデオ通話をつなぐとあの優しい声が響いた。
「無事着いたよ」
「よかった」
梨央が言うと画面の向こうで涼真が笑った。
少し疲れた顔だけど、でも嬉しそうに。
涼真の背景には、東京の夜景がぼんやり映っていた。高層ビルの灯り、車のヘッドライト。
見慣れた顔なのに、少し遠く感じる。
それでも、こうして声を交わしていると、距離はすぐに消えていった。
「梨央は?大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「本当に?」
涼真の声が少しだけやわらかくなる。
心配そうに、でも信じるように。
梨央は小さく頷いた。
「本当。ちゃんと一人でも大丈夫だよ」
その言葉に涼真の表情が緩む。
安心したように目を細めて「よかった」と呟いた。
ふたりはそのまましばらく他愛もない話をした。
夕飯の話。
今日食べたコンビニ弁当のこと。
仕事の話。
上司の愚痴。
近所のカフェのこと。
新しいメニューができたこと。
どれも特別なことではないのに、梨央の胸の中にはじんわりとした温かさが広がっていく。この「普通の会話」が、こんなにも幸せだなんて。
笑い声が途切れたあとの静けさすら心地よかった。
画面越しにただ互いの顔を見つめ合う。
「じゃあまた明日ね」
涼真が言う。
「うんまた明日」
その言葉がまるで約束のように響く。
当たり前の約束。
でも、その当たり前が愛おしい。
通話が切れても、笑顔はそのままだった。
画面の黒に映る自分の顔を見つめながら、梨央はそっと呟く。
「もう……大丈夫だよ」
部屋の静けさが、優しく包み込む。
ひとりの夜。
けれど、もう孤独ではなかった。
胸の奥に小さな灯が確かに残っていた。
涼真との会話が灯した、温かい光。
窓の外、夜空に星がまたたく。
梨央はカーテンを閉めず、そのまま光を見つめ続けた。
その光は遠く離れた誰かと静かに、確かに、繋がっていた。
***
夜の静けさがゆっくりと部屋に降りてくる。
街の灯りは遠く、窓の外にはかすかな車の音。
エンジン音が通り過ぎて、また静寂に戻る。
ベッドの上で梨央は横になっていた。
天井を見つめながら、穏やかな息を吐く。
白い天井に街灯の光がぼんやりと映っている。
あの頃のように胸がざわつくことはもうない。
眠れない夜も幻覚に怯える瞬間ももう訪れない。
だけど、不意に思い出してしまう。
もう一人の「涼真」のことを。
「……あの涼真、元気かな」
ぽつりと呟くと、少しだけ笑ってしまう。
「変なこと言ってるな、私」
自分でも可笑しいと思いながらも、その誰かを思い出すと、不思議と胸が温かくなる。
あの幻はたしかに自分を支えてくれた。
孤独に押し潰されそうな夜に寄り添ってくれた。
優しい言葉をかけてくれた。
笑顔を向けてくれた。
そのぬくもりを否定することなんてできない。
「ありがとう」
静かに言葉がこぼれた。
「私を支えてくれて」
その瞬間——
耳の奥で、微かに風が囁くような声がした。
「……幸せそうだね」
梨央ははっとして身を起こす。
部屋の中を見回すが、誰もいない。
ただ、カーテンが少し揺れているだけ。
レースが白く舞う。
「……気のせいか」
苦笑しながら胸に手を当てた。
その言葉が残した温度は確かだった。
まるで誰かがそっと背中を撫でてくれたように、心の奥に静かなあたたかさが広がっていく。
幻聴なのか、それとも——
もうどちらでもいい。
そう思えることが、梨央の中での答えだった。
梨央は目を閉じ心の中で答えた。
「うん、幸せだよ」
その言葉に応えるように、夜の空気が少しやわらぐ。
遠くで街の灯がひとつ瞬いた。
静寂の中で、梨央はゆっくりと呼吸を整える。
吸って、吐いて。
吸って、吐いて。
そのままゆっくりとまぶたを閉じると、穏やかな眠りが訪れた。
もう幻はいらない。
でもその存在は確かに、彼女の中に残響として生きていた。
それは、寂しさではなく、支えとして。
過去を乗り越えた証として。
窓の外で星がまたたく。
梨央は静かに寝息を立て始めた。
新しい朝がすぐそこまで来ていた。
おわり




