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第三話

アラームの電子音が、薄暗い部屋にけたたましく響いた。

梨央は枕に顔を押しつけたまま、手を伸ばしてスマホを探す。

指先でスヌーズを押し、ようやく目を開けた。

天井の模様をぼんやりと見つめる。

白い、けれど少し灰色がかった天井。

毎朝同じ天井。

「……今日は火曜か」

声に出してみても、気分は上がらない。

体を起こす。ベッドの軋む音。 カーテンを開けると、やや曇り気味の空が広がっていた。

ベランダの向こう、どこまでも続く灰色の雲。 その下で、通勤ラッシュの車の音が遠くからかすかに聞こえる。

梨央は肩を回しながら、キッチンへと歩いた。

ルーティンの始まり。

ケトルに水を入れ、スイッチを押す。お湯が静かに沸き始める音。

棚から豆の袋を取り出し、ミルにざらざらと流し入れる。

ガリ、ガリ、と心地いい音。

その音を聞いていると、少しだけ安心する。

「コーヒーの匂いって、なんか落ち着くな……」

ぽつりと独り言。 寝ぼけた頭の奥が、ようやく少しずつ現実に馴染んでいく。

「おはよう」

その瞬間、梨央の手が止まった。

ミルの回転音が、空気の中で妙に浮いて聞こえる。

鼓動がひとつ跳ねた。

ゆっくりと振り返ると…誰もいない。

キッチンの奥、壁際の冷蔵庫。 流し台のステンレス。

どこにも、人の気配はない。

梨央は眉をひそめた。

一歩、後ずさる。

心臓が妙にうるさい。 耳を澄ます。冷蔵庫の微かなモーター音、外の車の音。

さっきの声はなに?

寝ぼけていたわけじゃない。 音の質も、距離感も、リアルだった。

あの声は…涼真の声だった。


梨央の喉が、乾いた。

思わず、口の中で呟く。

「…気のせい、だよね」

お湯が沸いた。

梨央は無理に笑って、マグカップを取り出した。

「疲れてるのかな……」

お湯を注ぎ、黒い液体が落ちていくのを見つめる。

コーヒーの香りがふわっと広がる。

その香りに、さっきの出来事が少し薄まっていく。

マグを両手で包み込み、ひと口。

苦味が喉を滑っていく。

その瞬間、心の奥のざわつきが少しだけ落ち着いた。

でも、ほんの少し、耳の奥で残響のように残っている。

「おはよう」 梨央は首を振って、それを振り払った。

「…寝ぼけてただけだよね」

言い聞かせるように呟いて、時計を見た。

7時40分。

そろそろ支度を始めないと。

カップを流しに置く。

残りのコーヒーが、しずくのようにぽたりと落ちた。

静かなキッチン。

その沈黙が、いつもより少しだけ、重く感じられた。


***


洗面台の鏡に、ぼんやりした自分の顔が映っている。

梨央は寝癖を手ぐしで整えながら、小さくあくびをした。

「…なんか、顔むくんでる」

冷たい水で頬を叩く。

ぴしゃり、ぴしゃり。

その音が、やけに静かな部屋に響いた。

鏡の下の棚には、いつも通りの化粧ポーチ。 ハンドクリーム、ヘアオイル、マスカラ。

どれも、涼真に褒められたことがあるものだ。

梨央ってセンスがいいよな。

その一言、ずっと覚えている。

梨央は髪を整えながら、つぶやいた。

「最近、寝不足だし…ストレスかな」

そう言ってみると、なんだか妙に現実的で、少し安心する。

幻聴なんて、大げさ。ただの疲れ。

そのとき—

「今日も可愛いね」

耳のすぐ横で、やさしい声がした。

ブラシが髪の途中で止まり、ぱさりと音を立てて落ちた。

息を呑んで、鏡越しに背後を見つめる。

…誰もいない。

洗濯物を干したままのハンガー、観葉植物。

何も変わっていない。

なのに、心臓の音が早く鳴っている。

声の響きが、やけにリアルだ。

耳の奥にまだ残っている。

低くて、あたたかくて…優しい。

「今のなに…?」

鏡の中の自分が、小さく呟く。

誰に言っているのかもわからない。

だけど、さっきよりも怖くなかった。

むしろ—ちょっとだけ安心したっていうか…。

声を聞いた瞬間、 胸の奥にふわっと温かいものが灯ったような気がした。

まるで誰かが「大丈夫だよ」って言ってくれたみたいに。

でも、すぐに疑問が浮かぶ。

(……涼真はこんなこと言わないのに)

そう、リアルの涼真は褒め下手だ。

「元気そうだな」とか「似合ってる」とか、そういう不器用な言い方をする。

「今日も可愛いね」なんて、スムーズに言えたことない。

その違和感が、一瞬胸をかすめる。

でも、梨央はすぐにその考えを打ち消した。

(疲れすぎだな…私)

梨央は鏡の前で立ち尽くす。

数秒後、ふっと笑って、首を振った。

「……やば」

そう言いながら、再びブラシを手に取る。

でも鏡に映る頬は、さっきよりほんの少しだけ赤い。

血が通ったような、そんな色。


***


朝の満員電車。

吊り革をつかみながら、梨央はスマホの画面を見つめていた。

通知はゼロ。

メッセージのトーク画面には、昨夜のまま。

「おやすみ。無理しないでね」

その下に、淡いグレーで光る既読なしの表示。

梨央はため息をついた。

窓に映る自分の顔が、少しだけ疲れて見える。

寝不足と、ほんのちょっとの期待。

「はぁ……」

窓の外を流れる景色に、ぼんやりと視線を預けたそのとき。

「今日も頑張ろうね」

耳元で、低く優しい声がした。

まるで息がかかるような距離感で。

その声、聞き覚えがありすぎる。

昨日の朝の、あの「おはよう」と同じ響き。

思わず口が勝手に動いた。

「……うん」

隣のスーツ姿の男性が、びくっとして振り向いた。

「え?」

梨央は一瞬で顔が真っ赤になる。

「ごめんなさい!独り言です!」

慌てて笑ってごまかす。

男性は「は、はあ…」と言って、じりじりと半歩下がった。

頭の中が真っ白になった梨央。

(やばい、声出ちゃった!!!)

心の中で叫びながら、スマホをいじるフリをする。

けれど、耳の奥にはまだあの声が残っていた。

「今日も頑張ろうね」

それが思い出されるたび、胸の奥が少し温かくなる。

まるで、ずっと会えていない恋人に励まされたみたいに…。

車内アナウンスが流れ、ドアが開く。

梨央は小さく息を整え、鞄の紐を握り直した。

(…なんか変。なのに…ちょっと嬉しい…かも)

人の波に押されながら、梨央は改札へ向かう。

頬にはまだ、さっきの照れくさい熱が残っていた。


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