第二十九話
まぶしさでまぶたの裏が白く染まった。
梨央はゆっくりと目を開けた。
窓の隙間から射し込む光が、ほこりを照らしながらゆらゆらと揺れている。
部屋の空気がやわらかく金色に染まっていた。
朝だ。
胸の奥で何かがほどけていく。
ひと晩中、肩に乗っていた重たい石が、音もなく転がり落ちていくような感覚。
息が吸える。深く、深く。
昨日までとは違う空気が、肺の奥まで入ってくる。
それだけのことがこんなにも温かい。
身体を起こすと、視界の端に人影があった。
隣で静かに寝息を立てている涼真。
寝癖がついた髪の隙間から、少し日に焼けた頬が覗いている。
淡い影が落ちてその輪郭をやさしく縁取っていた。
眉間のしわも、いつもの緊張も、今は消えている。
一晩中、そばにいてくれたんだ。
その事実がじんわりと胸に広がる。
梨央の喉が震えた。
「……涼真」
小さな声に、彼のまつげがわずかに揺れる。
一度、二度。
やがてゆっくりと目を開けて、しばらくぼんやりと天井を見つめていた。
寝ぼけた目が次第に焦点を結んでいく。
そして…梨央の顔を見た。
「……おはよう」
その声は夜明けみたいに静かでやさしかった。
寝起きの掠れた声。
それなのにどこまでも温かい。
「よく眠れた?」
梨央は少し考えてから小さく笑った。
「うん……すごく」
本当だった。あんなに長い間、眠れなかったのに。悪夢にうなされることもなく、朝までぐっすりと眠れた。
涼真は安心したように口元を緩めた。
「よかった」
その笑顔を見て梨央の目頭が熱くなる。
カーテンの隙間から、朝の光が一筋、床に伸びている。
ゆっくりと移動する光の帯を、梨央はしばらく見つめていた。
やがて立ち上がり、カーテンに手をかける。
カーテンを開けた瞬間、部屋中に光が溢れた。
福岡の街が金色の光の中で目を覚ましていた。
ビルの窓ガラスがきらきらと輝き、遠くの川面が朝日を跳ね返している。
通りには車が走り始め、どこかで犬の鳴き声が聞こえた。
人の声、エンジン音、風の匂い。
どれもが生きている現実の証。
世界はちゃんとここにある。
「……きれい」
思わずこぼれた言葉に、涼真が立ち上がり、隣に並ぶ。
肩が触れそうなくらい近くに。
「うん」
それだけ言って、彼は窓の外を見つめた。
二人並んで、しばらく黙って街を眺める。
朝の冷たい空気が、開けた窓から流れ込んでくる。
梨央の髪を、涼真の髪を、やさしく撫でていった。
梨央は目の奥がじんと熱くなるのを感じた。
もう幻はいない。
あの完璧な微笑みも、計算された優しさも、もうどこにもない。
けれど、世界は確かにここにあって、温もりも、光も、ちゃんと戻ってきている。
不完全で、不器用で、でも…本物の涼真。
風が吹き込んできて、二人の髪をふわりと揺らした。
長い夜が静かに終わっていく音がした。
***
「朝飯作るわ」
涼真がそう言ったとき、梨央は思わず瞬きをした。
「……え、涼真が?」
「料理くらい俺も作れるぞ」
自信満々の声。
梨央は思わず口元を押さえる。
そんなこと、昔は一度も聞いたことがなかった。
料理は全部梨央の担当で、涼真はいつも「うまいうまい」と食べるだけだったのに。
涼真は袖をまくりながらキッチンへ向かう。その後ろ姿が、妙に頼もしい。
冷蔵庫を開ける。
しばしの沈黙。
「……あんまり食材ないな」
梨央はソファから、少し申し訳なさそうに答える。
「ごめん……最近、買い物行ってなくて」
「大丈夫。卵とベーコンがあれば十分」
頼もしく言ったものの、冷蔵庫の奥から取り出した卵を手に持つと、少し戸惑ったように見つめている。
卵を割る。
殻が少し混じった。
「……」
涼真が黙ってスプーンで掬い取る姿に、梨央は笑いを堪えた。
フライパンに油を引く音。ジュッと高い音が響いて、少し油がはねた。
「おおいい感じだ」
そう言った次の瞬間、焦げた匂いが立ちのぼった。
「やばっ」
慌ててフライパンを持ち上げる涼真。
梨央はつい吹き出してしまった。
「ぷっ……ふふっ」
「笑うなよ!久しぶりだから忘れてたんだよ」
涼真が振り返る。
少し頬を赤くして、でもどこか嬉しそうに。
「ごめん、でも……焦げてるよ、それ」
涼真は苦笑して、フライパンを覗き込んだ。
「……黒いベーコン、嫌いじゃないだろ?」
「そんなカテゴリないから」
梨央が立ち上がり、キッチンへ向かう。
涼真の隣に並んだ。
こんなふうに、二人並んでキッチンに立つなんて、どれくらいぶりだろう。
「手伝おっか?」
「頼む……」
二人、並んでフライパンとトースターの前に立つ。
梨央が卵を割り、手際よく焼き始めると、キッチンにやさしい匂いが広がった。
ジュウジュウという音、バターの溶ける香り。
涼真はトースターにパンを入れ、タイマーを回す。
「やっぱ梨央の方が上手いな」
「当たり前でしょ」
その言葉に自然と笑いがこぼれた。
卵が焼ける音。トーストの香ばしい匂い。窓から差し込む朝の光。
どれもが、少し前まで遠ざかっていた日常の音だった。こんなにも当たり前のことが、こんなにも愛おしい。
テーブルに皿を並べながら、涼真がぽつりと言った。
「やっぱ俺料理ぜんぜんだめだわ」
梨央の手が一瞬だけ止まる。
それから小さく笑った。
「でも私は好きだな、涼真の料理」
「…焦げてても?」
「焦げてるからいいの」
涼真が顔を上げた。
不思議そうに梨央を見つめている。
梨央は微笑んだ。
「完璧じゃないからいいんだよ」
涼真の目が少しだけ見開かれる。
それからゆっくりと笑った。
どこまでも優しい、本物の笑顔。
二人の笑い声が、やわらかい朝の光の中に溶けていった。
完璧じゃない現実が、こんなにも温かいなんて。
梨央はそう思いながらトーストにかじりついた。
少し焦げた端っこが、妙に美味しかった。
テーブルの上に、焦げたベーコンと半熟の卵。
湯気の立つコーヒーの香りが、静かな朝に溶けていく。
梨央はトーストを小さくちぎりながら、ぼんやりとその湯気を見ていた。
白い湯気がゆらゆらと立ち上り、やがて消えていく。
向かい側の涼真が、コーヒーカップを両手で包んだまま、少し迷うように口を開いた。
「……梨央」
「ん?」
梨央が顔を上げると、涼真は真っ直ぐに見つめていた。
「昨日の話、もう少し聞かせてくれる?」
その言葉に、梨央の指が一瞬止まった。
パンの欠片が皿の上に落ちる音が、やけに大きく響く。
心臓が、少しだけ速くなる。
「……うん」
涼真は小さく頷いた。
「無理はしなくていい。でも、ちゃんと知りたい。梨央の中で何が起きてたのか」
梨央は息を吸った。
深く、深く。
そして静かに吐いた。
目の前のコーヒーカップに映る自分の顔が、少し揺れている。
「あのね……」
声が、少し震えた。
「最初はただの幻聴だったの」
涼真は黙って聞いている。
カップを置いて、両手を組んで、じっと梨央を見つめている。
梨央は視線を落としたまま、言葉を続けた。
「涼真の声が聞こえるの。『おはよう』とか、『頑張って』とか。そんな何気ない声」
窓の外で車が走り去る音がした。
「最初は夢の続きみたいで、怖くなかった。むしろ……嬉しかった」
喉が少し詰まる。
「でも……だんだん、それが見えるようになって」
梨央の手が、膝の上で小さく震えた。
「気づいたら、もう一人の涼真がいた」
涼真の眉が、わずかに動く。
でも、彼は何も言わない。ただ、静かに待っている。
「それ……どんなやつなの?」
一瞬の沈黙が部屋を包み込んだ。
梨央は遠くを見つめるように目を細める。
「……完璧な涼真」
「完璧?」
「いつも優しくて、いつも私の側にいて」
息を吸う。
「私が求める言葉を全部言ってくれた」
涼真の表情が、少しだけ曇る。
それでも、彼は口を挟まない。
梨央は小さく息を吸い込んで、続けた。
「でも、それは……私が作った涼真だった」
コーヒーの湯気が、もう立ち上っていない。
「私の理想を映しただけの存在。本物じゃない、ただの……」
言葉が途切れる。
涼真は、その言葉を噛みしめるように静かに受け止めた。
部屋の中に、時計の針の音だけが響く。
カチ、カチ、カチ。
やがて、彼はゆっくりと頷いた。
「そうか……」
それ以上何も言わない。
責めるような言葉も、驚きの声も、何もない。
ただ、その一言だけ。
梨央はその一言に救われた気がした。
誰かを完璧に作り上げることよりも、こうして不器用に、言葉を交わす現実の方がずっと温かかった。
朝の光がテーブルの上をゆっくりと滑っていく。
その光の中で梨央は初めて自分の過去を、まっすぐ見つめることができた。
涼真はしばらく何かに迷ったように視線を落としたまま、黙りこんでしまった。
組んだ手が少し白くなっている。
やがてゆっくりと口を開いた。
「……梨央、ごめん」
梨央は顔を上げた。
涼真の声は低く、震えていた。
「俺がちゃんと構ってあげられなかったから」
梨央は慌てて首を振る。
「違うよ。私が勝手に、弱くなってただけ」
「違わない」
涼真の声が、今度ははっきりと響いた。
顔を上げた彼の瞳には、迷いがなかった。真っ直ぐに、梨央を見つめている。
「東京に行って仕事ばっかりしてた」
拳を握る。
「梨央が寂しいってわかってたのに……見ないふりをしてた。ちゃんと向き合わなかった」
梨央は息を呑んだ。
その声の奥にある痛みが、まっすぐに胸に届く。
「涼真……」
「俺、馬鹿だからさ」
涼真が少し笑う。
自嘲的な、苦しそうな笑み。
「言葉にするのが苦手で、優しくできない時も多くて」
一瞬、言葉が途切れる。
「でも――」
息を吸って、そしてその笑みの奥で言葉を絞り出すように続けた。
「でも、梨央のこと、本当に大切に思ってる」
梨央の視界がじわりと滲んだ。
涼真の目が真っ直ぐに梨央を見つめている。
「愛してる」
その一言が落ちた瞬間、梨央の目から涙がこぼれた。
止めようとしても、止まらない。
息を詰めるように、彼女は唇を押さえる。
涼真は椅子を引いて、梨央の隣に座った。
その手が、そっと彼女の手を包む。大きくて、少しごつごつした手。
温かい。
「これからはちゃんと伝える」
涼真の声が耳元で響く。
「言葉でも、行動でも、何度でも。電話も、メッセージも、ちゃんとする」
手が、強く、けれど優しく握り締められる。
「どんなに忙しくても、もう梨央をひとりにしない」
梨央の涙が、ぽたぽたと膝に落ちる。
「だから……」
涼真の目が、ほんの少し潤んでいる。
「もう一度、やり直させて。俺とこれからも一緒に生きてほしい」
梨央の喉が震えた。
言葉が出るまでに、少し時間がかかった。
涙で声がかすれて、うまく言葉にならない。
けれど、その沈黙の後に生まれた声は、確かなものだった。
「こちらこそ……お願いします」
その瞬間、梨央の中で何かがほどけた。
過去の痛みも、孤独も、自分を責めるような記憶も。
全部が光の方へと流れていくようだった。
涼真がそっと梨央を抱きしめた。
彼の胸の鼓動が、ドクン、ドクンと伝わってくる。
もう幻じゃない。
もう一人の「涼真」ではない。
ここにいる、温かい現実。
梨央は静かに目を閉じた。
涙は止まらないけれど、その涙は悲しみではなかった。
朝の光が二人を包み、カーテンの隙間から差し込む光が、まるで祝福のように揺れていた。
***
福岡空港のロビーは、夕日の光でゆっくりと目を覚ましていた。
ガラス越しに差し込む陽射しが、床にやわらかな影を落とす。
アナウンスの声と、スーツケースの転がる音。
旅立つ人と、見送る人たちのざわめきが、淡いノイズのように流れている。
梨央と涼真はゲート近くのベンチに並んで座っていた。
時間は刻一刻と過ぎていく。
「行っちゃうんだね」
梨央の声は少し震えていた。
涼真は優しく微笑んだ。
「うん。でも、すぐ戻ってくる」
「……寂しい」
「俺も」
短い言葉の中にいくつもの感情が詰まっている。
涼真は立ち上がり、梨央をそっと抱きしめた。
背中に回された腕の力が、少しだけ強くなる。
「そばにいられなくてごめんな」
梨央は彼の胸の中で頷いた。
「ううん。一人でも大丈夫」
「本当に?」
梨央は少しだけ彼から顔を上げて、微笑んだ。
「だって、涼真はちゃんといるから」
胸に手を当てる。
「ここに」
涼真は照れたように笑った。
少し頬を赤くして。
「それ、言ってて恥ずかしくない?」
「でも本当だもん」
二人の間にやさしい沈黙が流れた。
互いの存在を確かめるように、目を合わせたまま、しばらく動かない。
そのとき、搭乗アナウンスが響いた。
「東京行き〇〇便をご利用のお客様……」
出発の時刻が来た。
涼真は深く息を吸ってからゆっくりと離れた。
「じゃあ」
梨央は笑顔を作る。
「うん。気をつけて」
「また電話する」
「待ってる」
涼真はゲートへと歩き出す。
スーツケースを引きながら、少し名残惜しそうに。
途中で振り返り、手を振った。
梨央も笑いながら、大きく手を振り返す。
人の波の中に涼真の姿が小さくなっていく。
やがて見えなくなっても、梨央はそのまま立ち尽くしていた。
胸の奥に、静かに灯る温かさ。
前のような不安は、もうどこにもなかった。
小さく息を吐き、梨央は呟く。
「……頑張ろう」
その言葉に、自分で頷いて、歩き出した。
ガラスの外では、赤く染まった空がどこまでも広がっていた。
光の中へ向かうように、梨央は静かに空港を後にした。
(大丈夫。もう一人じゃない)
そう心の中で呟いて、梨央は歩き出した。
新しい日々へ向かって。
一歩、また一歩。
確かな足取りで。




