第二十六話
木曜日の夜。
部屋の空気はもう「静か」と呼べるものではなかった。
それは沈黙というより、重い膜のように空間を覆い、息苦しさを作り出していた。
ソファに座る梨央の目の前でスマホが震える。
テーブルの上、画面が白く光るたびに、薄暗い部屋の壁がわずかに明滅する。
莉香からの着信だ。
梨央の手がわずかに動いた。
だが、その動きをイマジナリー涼真の声が止める。
「出なくていいよ」
静かな、しかし命令にも似た響き。
梨央は指を止めた。
「……うん」
着信音が規則正しく鳴り続ける。
その音が心臓の鼓動と重なって、不気味に響いた。
やがて通話が切れ、部屋に再び沈黙が戻った。
だが、すぐに『ピロン』とメッセージが届く。
白い光が再び梨央の顔を照らす。
画面には莉香からのメッセージが並んでいた。
『りお…返事して』
『会社休んでるって聞いたよ。大丈夫?』
『お願い連絡して』
文字はまるで助けを求める手のように、画面の向こうから伸びてくる。
梨央は喉の奥が熱くなるのを感じた。
手が震える。
でも返信はできない。
スマホをそっと伏せる。
その様子をイマジナリー涼真が見ていた。
彼は笑っていたが、その笑みはいつもの優しさとは違った。
どこか、冷たく、無機質な笑み。
「莉香しつこいね」
梨央は小さく首を振った。
「心配してくれてるだけだよ……莉香は優しいから……」
涙が頬を伝う。
(ごめん、莉香……)
心の中で謝る。
でも声には出せない。
涼真の声が少し低くなる。
「でも余計なお世話だよ」
梨央は何も言えなかった。
涼真の声がまるで頭の中に直接響いてくるようだった。
考えるよりも先に、その言葉に支配されてしまう。
「俺たちの邪魔をしてる」
その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
冷房もつけていないのに、肌がひやりとする。
梨央は無意識に体を縮めた。
「邪魔って……そんなこと……」
声が震える。
「だって、莉香がいると梨央は俺を疑うでしょ」
涼真がゆっくりと近づく。
その瞳は暗闇の中で微かに光を帯びていた。
優しさの残滓を装っているけれど、底にあるのは怒りのようなもの。
「俺たちはやっと二人きりになれたんだよ」
梨央は何か言おうとした。
でも喉が動かない。
言葉が出ない。
まるで口の中に見えない手を差し込まれたみたいに。
涼真の指が梨央の頬をなぞる。
「大丈夫。俺がいる。誰も梨央を傷つけたりしない」
その声は優しい。
だからこそ怖かった。
優しさに包まれているのに心の奥が凍っていく。
梨央は目を閉じた。
暗闇の中で莉香の声が遠くで聞こえる気がした。
『りお、お願い、返事して』
それは幻聴だったのかもしれない。
イマジナリー涼真が梨央の耳元で囁く。
「もう誰にも会わなくていいよ。俺が全部わかってる」
梨央の頬にひとすじの涙が伝った。
それなのに、その涙を拭おうとする手は動かなかった。
涼真の腕の中でゆっくりと身を委ねていく。
その腕が檻のように感じられるのに。
そこから逃げようという気力ももう残っていなかった。
外の世界でスマホが小さく震える。
未読のままのメッセージが、またひとつ増える。
『梨央、お願い』
莉香の声がデジタルの文字に閉じ込められて震えていた。
梨央は聞こえないふりをした。
いや、本当に聞こえなかったのかもしれない。
涼真が彼女の髪を撫でながら言う。
「いい子だね、梨央。俺の言うことちゃんと聞けて」
梨央はかすかに笑った。
その笑みにはもう意思などなかった。
部屋の隅でスマホの画面がまた光る。
だが、誰もその光を見ようとはしない。
部屋の闇がすべてを呑み込んでいく。
外の世界との最後の糸が静かに切れた。
***
金曜日の夜。
雨が降り出していた。
窓ガラスを細い筋が滑り落ち、カーテンの隙間から漏れる街灯の光を歪ませている。
部屋は静かだった。
テレビも音楽もついていない。
ただ、時計の針の音だけが、妙に大きく響いていた。
その静寂を破ったのはスマホの着信音だった。
突然の音に梨央の体がびくりと跳ねる。
テーブルの上でスマホが震えている。
『着信:涼真』
梨央の心臓がドクン、と強く鳴った。
手が勝手に伸びる。
だが画面に触れる前に、
「出ちゃダメだよ」
と声がした。
すぐ隣。
耳元で。
振り向けばそこにはイマジナリー涼真がいた。
いつの間に現れたのか、わからない。
ただ穏やかに笑っている。
「でも……」
「俺だけを見るって約束したでしょ?」
その言葉に梨央の指が止まる。
画面の通話ボタンの上で、指先が震えている。
「約束……」
「うん。約束」
優しく言う。
その優しさの裏に、鋭いものが潜んでいるのわかっていた。
着信音はまだ鳴り続けていた。
規則的な音が部屋の空気を震わせる。
梨央の呼吸が浅くなる。
涼真が静かに言った。
「リアルの俺に会ったら、俺はいなくなる」
梨央はその言葉を理解できずに瞬きをする。
「……え?」
「だって俺は梨央が作った涼真だから」
その声は少しだけ震えていた。
悲しそうにも、寂しそうにも聞こえる声。
梨央は唇を噛む。
「そんな……」
「リアルの俺が来たら、俺の居場所はなくなるんだ」
梨央の目から涙がこぼれた。
ぽたりと手の甲に落ちる。
「嫌だ……いなくならないで……」
涼真は微笑んだ。
その笑みが痛いほど優しくて、残酷だった。
「だったら出ないで」
梨央はスマホを見つめた。
画面の中で着信の光がまだ瞬いている。
それなのに、指は動こうとしない。
(ごめん……涼真……)
心の中で謝る。
(助けて……でも……)
叫びたいのに唇が動かない。
——音が止まった。
通話が切れたことを告げる短い電子音。
画面が暗くなり、部屋が再び闇に沈む。
梨央はスマホを胸に抱きしめた。
「涼真……ごめん……」
嗚咽が漏れる。
声にならない泣き声。
その肩をそっと包み込む腕。
涼真が背後から抱きしめた。
ぴたりと密着して囁く。
「いい子だね」
梨央の涙が止まらない。
「……離れないで」
「うん。ずっと一緒」
その声は優しくて、あたたかくて、けれどどこか無機質で、深い闇の底から響いてくるようだった。
梨央は目を閉じた。
そのまま、涼真の胸に顔を埋める。
現実の肌触りのように感じるその温もりを信じたかった。
窓の外では、雨音が強くなっていた。
まるで誰かが扉を叩いているように。
その音はもう梨央には聞こえていなかった。
彼女の世界はイマジナリー涼真の腕の中だけで完結していた。




