第二十五話
次の日、梨央は会社を無断で休んだ。
カーテンの隙間から差し込むはずの光は、厚手の布に遮られて部屋を照らさない。
時計の針が進む音だけが、薄暗い空間にこもっている。
梨央は会社に電話をしなかった。
正確には「かけられなかった」
スマホの画面を見つめたまま、指を動かす力が出なかった。
眠ったのか、意識を失っていたのか、自分でもわからない時間が続いている。
リビングのテーブルには、冷えたコーヒー。
飲みかけのまま、何日も放置されたカップの表面にうっすら膜が張っている。
その横には開封したまま固くなったパンの袋。
食べた記憶が曖昧だ。
「今日、会社休むの?」
ソファの向かい側から、イマジナリー涼真の声がした。
低く、穏やかで、少し心配そうな声。
梨央はソファに体を沈めながら、ゆっくり頷いた。
「うん……なんか疲れてて…」
涼真は少し微笑んだ。
「そっか。無理しなくていいよ。俺がいるからね」
梨央は力なく笑った。
「……ありがとう」
涼真がそっと梨央の頭を撫でる。
その感触は、確かに温かいように思える。
でも、それが本当に「触れている」のか、自分が勝手に感じているだけなのか、もうわからなかった。
テレビは消えたまま。
スマホも机の上で静かに眠っている。
メッセージの通知が数日前から溜まり続けていることを梨央は知っている。
だけど、見て確認する気にはなれなかった。
カーテンの向こうで車の音がした。
世界は回っているのに、自分だけが止まったまま。
「外、うるさいね」
涼真が呟いた。
「うん……」
「無理に出なくていいよ。疲れてるんだから」
「そう…だね」
会話の間に空気が沈む。
けれどその沈黙はもう梨央にとって苦ではなかった。
現実よりも静かで、優しい。
涼真は隣に座り、梨央の肩に手を回した。
「ねえ、梨央。覚えてる? 初めて会ったときのこと」
梨央は小さく目を開けた。
「……うん。覚えてる。あのカフェでしょ」
「そう。あのときの梨央、緊張してたな」
「してたね……あの頃の私……」
梨央はそこで言葉を止めた。
あの本当の涼真を思い出したくなかった。
それを思い出すと、この涼真が霞んでしまいそうだから。
「俺さ」
涼真が優しく囁く。
「ずっと思ってた。梨央とこうやって一緒に暮らしたいなって」
梨央の胸がわずかに痛んだ。
「……でも、これって……現実じゃ……」
「現実なんて関係ないよ」
涼真の声が静かに重なる。
「ここにいる俺が、梨央の現実なんだ」
梨央は目を閉じた。
涼真の言葉が心の奥に沈んでいく。
心が少し楽になった。
現実を直視するよりも彼の声に包まれている方が、ずっと楽。
気づけば時間の流れが曖昧になっていた。
昼なのか夜なのかもわからない。
部屋の時計は止まっている。
いや、電池が切れて止まったのか、それとも自分が見るのをやめただけなのか。
「ねえ、梨央」
涼真の声が近づく。
「このままずっとこうしていよう」
梨央は答えられなかった。
なにか言えば何かが壊れてしまいそうで…。
頷く代わりに彼の方へ体を傾けた。
涼真の手が彼女の髪を撫でる。
その仕草はあまりに自然で、優しすぎて、逆に不気味だった。
「どこにも……行きたくない」
「行かなくていいよ」
「……本当に?」
「うん。俺がいるから」
その「俺がいるから」が、少しずつ呪文のように響いてくる。
梨央の世界を縛る言葉。
安心と束縛が紙一重で絡み合っていた。
冷蔵庫の中にはコンビニの惣菜。
食べた記憶が曖昧だ。
味もしない。
眠っても夢を見ない。
ただ涼真の声が、現実と夢の境を曖昧にしていく。
「……ねえ、涼真」
「ん?」
「もし本物の涼真が来たらどうしよう…」
その問いにイマジナリー涼真はしばらく沈黙した。
薄暗い部屋の中で、その輪郭が少しだけ滲んで見える。
「来ないよ」
「そうかな…」
「来ない。梨央のところに来る理由なんてもうないよ」
梨央の胸に冷たいものが落ちた。
「……でも来るって言ってた」
涼真の表情がゆっくりと曇っていく。
「それ、誰から聞いたの?」
梨央は無意識にスマホの方を見た。
机の上の画面の向こう。
現実の涼真があの世界にいる。
イマジナリー涼真がその視線を追う。
そして…笑った。
「そんなのもう関係ないよ」
梨央は息を呑んだ。
「関係ないって……」
「だって俺がいるじゃないか」
涼真の声がさっきより低くなっていた。
「梨央、俺のこと信じてるよね」
「……うん」
「だったらもう他のこと考えなくていい」
梨央の胸に不安と安堵が混ざる。
このままではいけないとどこかでわかっているのに、体が動かない。
信じたいという弱さが彼女を支配していく。
やがて涼真が立ち上がり、カーテンを少し開けた。
外の光がわずかに部屋に差し込む。。
「まぶしいね」
「うん……」
涼真はすぐにカーテンを閉めた。
「外はもういいよ。俺とここにいよう」
その声に梨央は小さく頷いた。
時計は止まったまま。
部屋の空気は少しずつ澱み始めている。
昼夜の区別が消え、現実の輪郭が薄れていく。
梨央の中で外の世界という概念が静かに溶け始めていた。
彼女の日常はゆっくりと夢に侵食されていった。
イマジナリー涼真は優しい声で囁く。
「俺がいる限り梨央はもう寂しくないんだから」
その言葉に梨央はかすかに微笑んだが、その笑みには温度がなかった。
世界がゆっくりと沈んでいく。
音も、光も、外の声も消えていく。
残るのは二人だけの静かな檻。
そしてその檻の中で、梨央は少しずつ現実を忘れていった。




