第二十三話
東京の小さなワンルームの窓の外では、ビルの明かりが点々と瞬いていた。
涼真はベッドの端に座り、スマホを両手で握りしめている。
画面には既読のつかないトーク画面。
梨央からの返信はまだない。
「……梨央」
かすかに呟いた声が、静まり返った部屋に吸い込まれていく。
涼真は小さくため息をついて、スマホを膝の上に置いた。
画面が暗くなる。
その黒い画面に映る自分の顔が妙に疲れて見えた。
ふと思い返す。
ここ数ヶ月、梨央の様子がどこかおかしかった。
電話をかけてもすぐ切られる。
メッセージは既読すらつかない日もあった。
最後にしたビデオ通話は、途中で唐突に切れた。
あの時の梨央の顔…何か怯えたような、焦ったような表情が、今も目に焼きついている。
「俺なにかしたか……」
膝の上に肘をつき、両手で顔を覆う。
指の隙間から蛍光灯の白い光がぼんやりと漏れてくる。
「仕事ばっかりで……ちゃんと構ってあげられなかったもんな」
言葉にした途端、胸の奥がきゅっと痛んだ。
梨央はもともと、強がりで、繊細で、何かあっても「大丈夫」と笑ってしまう性格だ。
だからこそ…気づいてあげなくちゃいけなかったのに。
いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。
甘え、怠惰、それがいま恐怖へと変わってしまった。
涼真はスマホを手に取りかけて、また置いた。
いまは何を言っても、届かないような気がした。
「でも……違う。なんか普通じゃなかった」
声に出した瞬間、背筋に冷たいものが走る。
彼の中で漠然としていた不安が、少しずつ形を持ちはじめていた。
あの日、莉香から来たメッセージが頭をよぎる。
『りおに会ってきた。やっぱり様子がおかしい。何か、本当に深刻なことが起きてる気がする』
涼真は静かに立ち上がり、机の上のカレンダーに目をやった。
週末の欄には赤いペンで書かれた一行。
《福岡へ》
「やっぱり…行くしかない」
その声には迷いはなかった。
どうか待っててくれ、梨央。
***
翌日、東京・建築事務所。
昼下がりのオフィス。
蛍光灯の白い光の下で、涼真は図面の前に座っていた。
だが、ペンは止まったまま。
視線はどこか遠くを見つめている。
「……なあ、神吉」
ぼそりと声が飛ぶ。
隣の席の上司が、コーヒー片手にじっと覗き込んでいた。
「お前大丈夫か? 最近ずっとゾンビみたいだぞ」
「あ、すみません……ちょっと寝不足で」
「寝不足ってレベルじゃねぇよ。顔が人生終わりましたって書いてあるぞ」
周囲のスタッフがクスクスと笑う。
涼真は苦笑いして図面に目を落とした。
コンパスの先が紙の上でぼんやりと揺れている。
「彼女のことか?」
「……わかります?」
「そりゃそんな顔してたらわかるよ。遠距離だったっけ?」
「はい。福岡なんです」
「へー博多美人か。そりゃ心配になるわな」
軽口を叩きながら、上司が机の端に腰をかける。
コーヒーカップから湯気が立ち上り、オフィスの乾いた空気に溶けていく。
「で、最近うまくいってない感じ?」
「そうですね。なんか…変なんです」
「変って?」
「電話してもすぐ切られるし、メッセージも既読にならないし……」
涼真の声が少しだけ震えた。
田中は軽く首を傾げ、それから肩をすくめる。
「それはあれだな。浮気だな。もしくは二股」
「いやそれは……ないと思いますけど…」
返答した涼真を見て、上司はにやりと笑った。
「なるほど神吉は完全に信じてるタイプか。でもさ、遠距離って信じるだけじゃもたないんだぞ」
「……どういう意味ですか?」
上司はコーヒーを一口飲んでから、ゆっくりと言葉を続けた。
「寂しさってな…ラグがあるんだよ。お前が頑張ろうって思ってるとき、向こうはもう無理かもって思ってたりするんだよ」
その言葉にペンが止まった。
心臓がどくんと跳ね上がる。
「忙しいのはいいことだけどさ。大事な人のことをあとで考えようって後回しにしてたら駄目だな。『あとで』なんて永遠に来ないぞ」
「…………」
オフィスの喧騒が一瞬、遠くに感じられた。
彼の頭の中で梨央の笑顔がよみがえる。
いつも明るくて、少し照れくさそうに笑う、あの顔。
「俺たちは普段ずっと図面ばっかり見てるけどさ。設計図には愛情の項目ないんだよな」
上司がからかうように笑う。
涼真はゆっくりとペンを置いた。
「たしかに俺……構ってなかったかもしれません」
「そうそう。恋愛も建築も放っとくと崩れるんだよ」
「それ、名言ですね」
「だろ?特許でも取ろっかな」
周囲がまた笑う。
だが涼真は笑えなかった。
彼の心の奥で、なにかが静かに固まっていく。
もう一度、梨央としっかり向き合わなければ。
図面の上に視線を落としながら、涼真は小さく息を吸った。
その目には先ほどまでの迷いはもうなかった。
***
その日の夜、涼真の部屋。
カーテンの隙間から、街のネオンが淡く差し込む。
机の上にはノートPC。
画面には「東京→福岡 往復航空券」という文字が光っていた。
涼真は椅子に座り静かに息を吐く。
マウスを握る手がかすかに震えていた。
「よし……行けるな」
画面に映る便の時刻を確認しながら呟く。
金曜の夜、羽田発。
日曜の夕方、福岡発。
行かなければ。
だが、マウスのカーソルは「購入」ボタンの上で止まったまま動かない。
「でも……」
小さく首を振る。
頭の中にここ数日のメッセージの画面が浮かぶ。
既読にならないメッセージ。
未送信の「会いたい」という文字列。
「梨央に行くって言っても……また断られるかもしれない」
心の奥に小さな不安が芽生える。
だが、それを押しつぶすように目を閉じ、深く息を吸った。
「いや、行こう」
その声は決意というより覚悟に近かった。
「サプライズで行こう。会ってちゃんと話そう」
再び画面を見る。
クリック。
わずかな間を置いて、購入完了の通知が表示された。
涼真の顔にほんの少しだけ光が戻る。
スマホを手に取り、メッセージを打つ。
『今週末、福岡に行く。俺と会ってくれ』
送信ボタンを押した瞬間、胸の鼓動が速くなった。
メッセージが送られていく。
画面には『今週末、福岡に行く。俺と会ってくれ』の文字。
涼真はスマホを机に置き、画面が暗くなるのを見つめた。
その反射に映る自分の顔をじっと見つめる。
「今度こそ、ちゃんと向き合う」
言葉にした途端、部屋の空気が少しだけ軽くなった気がした。
クローゼットからスーツケースを引っ張り出し、静かに荷物を詰めはじめた。
Tシャツ、下着、洗面道具。
手が勝手に動く。
外では夜風が吹き、遠くで電車の音が響く。
その音がまるで、彼の旅立ちを告げているようだった。
窓の外の東京の夜景を見つめる。
あの街の向こうに梨央がいる。
涼真は静かに立ち上がり、カーテンを閉めた。
部屋の中が暗さとは対照的に、心の中は小さな光が灯っていた。
今週末。
すべてが動き出す。




