第二十二話
梨央のアパートの廊下。
莉香はエレベーターのボタンをそっと押した。
その指はまだ震えている。
(りお……)
涙が、また溢れる。
目の前がぼやける。
急いで袖で拭う。
エレベーターが来る音を聞き、俯いたまま乗り込む。
ドアが閉まった瞬間、莉香はスマホを取り出した。
画面には、涼真とのトーク履歴。
莉香は指を動かす。
「涼真くん、りおに会ってきた。 やっぱり様子がおかしい。本当に深刻なことが起きてる気がする。すぐ連絡ほしい」
送信。
莉香は目を閉じる。
(絶対に諦めない。必ず助けるからね)
エレベーターが、ゆっくりと降りていく。
数字が減っていく。
5、4、3、2、1。
莉香は小さく呟いた。
「待ってて、りお」
***
ドアの閉まる音が、まだ耳に残っていた。
その余韻が消えるまで、梨央は動けなかった。
静かな部屋。
冷えた空気。
誰もいない。
—―はずなのに。
「……よく頑張ったね」
背後から聞き慣れた声。
目の前にはイマジナリー涼真が立っていた。
まるで最初からそこにいたかのように自然に。
梨央は唇をかすかに動かした。
「…………」
涼真は穏やかに微笑む。
「莉香、余計なこと言うよね」
梨央はゆっくり首を振った。
「余計じゃない……」
「え?」
「莉香は、私のこと……心配してくれてる」
その言葉に涼真の笑みがわずかに歪んだ。
「でも俺のこと探り入れてきたじゃないか」
「そうじゃなくて……」
「俺がいなくなったら、梨央は一人だよ」
静かな声。
やさしくて、でも逃げられない。
梨央の指先が小刻みに震えた。
「…………」
涼真は一歩近づく。
「いいの?それで」
その瞬間、梨央の目から涙が零れた。
「……やだ。一人は……嫌…」
涼真がそっと両腕を広げる。
その動きはまるで夢の中のように滑らかだった。
「大丈夫。俺はずっとここにいる」
梨央は泣きながら涼真にしがみつく。
その胸の感触は現実のように温かい。
「お願い……離れないで……」
「離れないよ。約束」
涼真の声が穏やかに響いた。
お互いの唇がそっと重なったその瞬間、梨央の涙が止まった。
まるで心のすべてを預けたように。
***
涼真の腕の中で、梨央は目を閉じる。
温かい。
安心する。
でも——
胸の奥には小さな痛みがあった。
(莉香……ごめんね)
その言葉は声にならない。
涼真の腕が少しだけ強くなる。
「俺がいれば大丈夫」
その囁きに梨央の意識が溶けていく。
(……大丈夫、だよね)
自分に言い聞かせる。
窓の外では夕陽がゆっくりと沈んでいく。
部屋の中の光が少しずつ赤く染まり、二人の影が重なって、ひとつになった。
その影のうち、どちらが本物なのかはもう誰にもわからなかった。
***
【東京】
涼真のアパート。
デスクの上には設計図が広げられている。
コーヒーを飲み、ため息をついたその時、スマホが震えた。
莉香からのメッセージだ。
涼真は画面を見つめた。
(梨央……)
彼女の笑顔が浮かぶ。
電話での冷たい声が蘇る。
「電波が悪い」
あれは嘘だったにだ。
涼真は立ち上がり、虚空を見つめた。
「今週末、福岡に行く」
スマホを開き、飛行機のチケットを検索する。
週末までそれまで梨央は大丈夫だろうか。
涼真は莉香に返信する。
「わかった。週末に行く。それまで梨央を頼む」
窓の外には東京の夜景が広がっている。
だが、涼真の心はすでに遠く離れた福岡にあった。
「待っててくれ、梨央」




