第二話
午後一番の空気は、どこか湿っていた。
ランチを終えた社員たちが次々と席に戻り、キーボードを叩く音が再び鳴り始める。
オープンスペースにはエアコンの低い唸りと、プリンターの作動音だけが響く。
梨央は画面を睨みながら、先ほどの会話を思い返していた。
「男って放っておくと浮気するじゃん?」
吉田さんの無邪気な笑い声。田中さんの相槌。 どちらも悪気なんてなかった。ただの雑談。
でも、その『ただ』が、胸の奥で刺さったままだ。
マウスを握る手に力が入る。クリックのたびに指先が震える。
─大丈夫。 そう口の中でつぶやいた。
声にならない声。
その音が、自分にしか届かないのが妙に心地よかった。
「藤咲さん、さっきのバナーの色味、もう少し明るくしてもらえます?」
隣の席の田中さんが軽く覗き込む。
梨央はわずかに肩を跳ねさせた。
「うん、わかった」
笑顔を作る。できるだけ自然に。
田中さんはそれを見て満足そうに頷くと、自分の席へ戻っていった。 静けさが戻る。
それでも、まだ心がざわついている。
スマートフォンが震えた。手に取り、画面を見てみると、小さな通知のアイコン。
『涼真』
その文字を見つけた瞬間、息が止まった。 開く。
画面にはたった一言だけ。
ごめん、今週も会えなさそう。
心臓がゆっくり沈んでいく。 音のない世界で、梨央はスマホを握りしめた。
背中越しに、誰かの笑い声が聞こえる。
「ねえ、田中さん!週末どこ行くの〜?」
「彼氏とディズニーです!」
再び弾ける笑い。
モニターの光がやけに冷たい。 梨央はスマホを伏せて、深く息を吸った。 唇が動く。
「…大丈夫」
もう一度、あの呪文を。
それでも、胸の奥では別の声がささやく。
─ほんとに?
視界の端で、何かが動いた気がした。
誰もいないはずの隣の席に、黒い影のようなものが一瞬だけ揺れる。
振り向いたときには、もう消えていた。
梨央は目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。
「疲れてるなあ……」
そう呟きながらも、胸の中で確かに何かが、微かに笑った気がした。
午後の蛍光灯が、白く瞬いていた。
***
部屋の照明を落とすと、白い壁にオレンジ色の灯りが揺れた。
湯気の立たなくなったマグカップが、テーブルの隅にぽつんとある。
梨央はスマホを握りしめていた。
既読がつかないままのトーク画面を見つめていると、 画面がふっと光る。
着信だ。
送り主は大学時代からの友達・莉香だった。
「……もしもし」
「りおー! 久しぶり! 元気してた?」
明るい声。いつも通りだ。
梨央の口元に、少しだけ笑みが戻る。
「うん、元気だよー」
「ほんと? なんか最近返信遅いしさー。仕事忙しいの?」
「うん、まあ、ちょっとね。新しい案件入っちゃって」
「また夜更かししてんでしょ?肌荒れるよ?」
「痛いところつくねー」
二人の笑い声が短く弾んだあと、 ほんの少しの沈黙が落ちる。
「ねえ、涼真くんとはうまくいってる?」
莉香の声が、柔らかく少しだけ慎重になる。
「うん。まあ大丈夫…たぶん」
「たぶん?」
「最近ちょっと忙しそうで。連絡もあんまり取れてないけど」
「ふーん。まあ、涼真くんも忙しいみたいだもんね」
沈黙が、重く部屋に沈んでいく。
「……りお、無理してない?」
言葉に詰まる梨央。
「してないよ。大丈夫だって」
「……そっか」
莉香の声に、かすかな疑いの色が滲む。
「でも、顔見えないから心配なんだよね。最近、返信も機械的だし」
梨央の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
私も涼真と変わらないじゃん。
「そんなことないよ。本当に元気だもん」
「…わかった。でも、何かあったらすぐ言ってね。遠距離でも、味方だから」
「ありがとう、莉香」
「うん。じゃあ、今日はちゃんと寝ること!いいですね?」
「はいはい」
通話が切れると、部屋が急に広く感じた。
あんなに明るかった声が、もうどこにもいない。
梨央はスマホを胸に抱き、深く息を吐く。
莉香に気づかれてる…?
「……大丈夫、か」
自分で言ったその言葉が、やけに冷たく響いた。
そのとき、通知音が鳴った。
心臓が少し跳ねる。
トークアプリの画面に「涼真」の名前。
『今日も残業だった。明日も早いから寝る。おやすみ』
それだけ。
梨央は親指を止めたまま、画面を見つめた。
たった十数文字が、まるで氷みたいに感じる。
─私のこと、まだ好きなのかな。
そんな言葉が浮かんで、すぐに打ち消す。
「違う。忙しいだけ」
そう呟いて、ようやく返信を打つ。
『おやすみ。無理しないでね』 と送信。
既読はもちろんつかない。
いつもより長い時間、画面の光が目に刺さる。
スマホを伏せ、ベッドに身を沈めた。
天井の白が、やけに遠く見える。
枕に顔を埋めると、小さな声が漏れた。
「…会いたいなあ」
静かな部屋が、その言葉を吸い込んだ。




