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第十九話

翌日の夕暮れ時。

梨央は小さなキッチンでカレーを作っていた。

玉ねぎを刻む音だけが静かな部屋に響く。

トン、トン、トン。

包丁がまな板に当たる音が心地いい。

その規則正しいリズムだけが、梨央の意識を繋ぎ止めていた。

ふと、冷蔵庫を開ける。

中には二人分の食材。

肉、野菜、牛乳、卵…全部、二人分。

(なんで二人分買っちゃうんだろう…)

自分でも不思議だった。

でも、手が勝手に動くから仕方ない。

気づけばスーパーのカゴにはいつも二人分。

まるで誰かがそこにいることが当たり前みたいに。

ルーを溶かす。

湯気が立ち上る。

カレーの匂いが部屋に広がっていく。

「いい匂い」

背後から声をかけられ、梨央はびくりと身をすくめた。

振り返ると、当たり前のように涼真が立っていた。

いつものように穏やかに微笑みながら。

「……涼真」

「お疲れ」

彼が近づいてきて、そっと梨央を後ろから抱きしめる。

あたたかい。

本物みたいにあたたかい。

梨央は目を閉じた。

この腕の中にいると全部忘れられる。

仕事のこと、孤独のこと、莉香の心配そうな顔、会社の同僚たちの冷たい視線。

東京にいる涼真のこと。

全部。

「今日も頑張ったね」

「……うん」

「偉いね梨央」

その言葉に梨央は視界が滲むのを感じた。

誰も褒めてくれない。

誰も気づいてくれない。

でも、涼真だけは——

この人だけはちゃんと見てくれている。

「あなたがいないともう無理かも」

その言葉が自然に口からこぼれた。

涼真の腕が少しだけ強くなる。

「大丈夫。俺はずっとここにいるよ」

「ほんとに…?」

「ほんと」

梨央は振り返り、涼真の胸に顔を埋めた。

彼の心臓の音が聞こえる気がした。

トクン、トクン。

規則正しい鼓動。

でも、どこか遠くで小さな声がする。

(こんなことをしてて……本当に大丈夫なの?)

その声を梨央は必死にかき消した。

涼真の腕の中で、ただ目を閉じる。

「誰も俺たちを引き離せすことはできないよ」

その囁きが、やさしく、そして重く、梨央を包み込んだ。


***


テーブルには二つの皿。

湯気の立つカレーライス。

梨央は向かい側に座る涼真を見つめる。

彼も同じようにカレーを食べている。

「美味しい」

「たくさん食べてね」

涼真が微笑む。

その笑顔は完璧だった。

角度も、タイミングも、全部。

(リアルの涼真は……こんなに褒めてくれなかった)

ふとそんなことを思った。

東京にいる本物の涼真。

電話は素っ気なくて、メッセージも短い。

「おう」

「了解」

「ごめん忙しい」

ずっとそうだった。

でも目の前の涼真は違う。

いつも優しくて、いつも梨央を見てくれて、いつも側にいてくれる。

「ねえ、梨央」

「なに?」

「幸せ?」

その問いかけに、梨央は息を呑んだ。

スプーンを持つ手が止まる。

「……幸せだよ」

「本当に?」

「うん、もちろん」

涼真がゆっくり立ち上がり、梨央の隣に座った。

そっと手を握る。

「俺も幸せ」

その言葉が胸に沁みて、おもわず涙が溢れそうになる。

「ずっと一緒にいようね」

「……うん」

梨央は涼真の手をぎゅっと握り返した。

その手は確かにあたたかかった。

でも—

視界の端で窓ガラスに映る自分の姿が見えた。

他には誰もいない。

梨央だけが空気を握りしめているように見えて、とっさに目を逸らす。

見なかったことにする。

涼真の手を握る力が、少しだけ強くなった。



***


その夜。

ベッドに横たわる梨央の隣に、涼真が寝ている。

部屋は暗く、窓の外から街灯の光だけが差し込んでいる。

「ねえ、涼真」

「なに?」

「私……怖いんだ」

梨央の声が震える。

「何が?」

「このままあなたが消えちゃうんじゃないかって」

涼真は梨央の方を向いた。

薄暗い照明に照らされて、顔の輪郭がうっすらと浮かび上がる。

「消えないよ」

「でも……」

「梨央が俺を必要としてる限り、俺はここにいる」

その言葉に梨央の胸が締め付けられた。

(必要としてる限り……)

それって—

「ずっと必要としてくれる?」

涼真の声がいつもより低く響いた。

梨央は頷いた。

何度も、何度も。

「うん……ずっとそばにいて…」

「じゃあ、ずっとここにいる」

涼真が梨央を抱き寄せる。

あたたかい腕。

やさしい体温。

梨央は目を閉じた。

その腕の中で、ようやく呼吸ができる。

でも、その安心感が鎖のように重くのしかかってくる。

(もう……この人なしじゃ生きていけない)

心の奥でそう思った。

それが幸せなのか、不幸なのか、もうわからなかった。

涼真の腕が少しずつ強くなっていく。

まるで、離さないように。

逃がさないように。

「おやすみ、梨央」

「……おやすみ」

梨央の意識がゆっくりと暗闇に沈んでいく。

涼真の心臓の音を聞きながら。

トクン、トクン。

その音がやがて梨央自身の鼓動と重なって、ひとつになった。

窓の外では、夜が更けていく。

部屋の中には、誰もいないはずなのに…ベッドには確かに二人分のくぼみがあった。


***


翌朝。

目を覚ますと涼真が隣にいる。

「おはよう」

「……おはよう」

梨央は微笑む。

もう、この光景が当たり前になっていた。

涼真がいない朝なんて、想像できない。

(これでいいんだよね……)

心の奥で小さく問いかける。

でも、答えは返ってこない。

涼真が優しく髪を撫でる。

その手が、今日はいつもより重く感じた。

「今日も一緒だよ」

「……うん」


梨央はそっと目を閉じ、差し出された手の重みをそのまま受け入れた。

もはや抗うだけの気力は残されていない。


窓の外には朝の光が満ちている。

それでもこの部屋だけは、世界から切り離されたかのようにひんやりと冷たかった。

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