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第十七話

朝の通勤電車。

窓に映る街の流れが、やけに遠く感じる。

ビルも、車も、人も全部、ガラス越しの別世界みたいだった。

梨央は吊り革を握りながら、隣に立つ涼真を見上げた。

スーツ姿の人々が押し寄せる中、彼の存在だけがやけに鮮明だった。

周りの人たちはぼんやりと霞んでいるのに、涼真だけがくっきりと、そこにいる。

人のざわめきの中で、彼の声だけが、すぐ耳元で囁かれるように聞こえる。

「今朝のこと…ごめんね」

梨央は小さな声で言った。

涼真は少しだけ首を傾げる。

「何が?」

「なんか…変なこと言わせちゃった気がして」

「変じゃないよ」


彼はいつものように穏やかに笑った。

それなのに、その表情は今朝よりも硬い。

まるで、無理に笑っているみたいな—

「本心だから」

まつげが震える。

「本心?」

「うん。俺は梨央にリアルの俺を忘れてほしい」

電車の揺れが、まるで一瞬止まったように感じた。

心臓がズキンと痛む。

周りのざわめきが遠くなっていく。


「え…でもそれは…」

「だって、俺の方が梨央を幸せにできるでしょ?」

視線を向けると、涼真はまっすぐ梨央を見つめていた。

その瞳の奥には、あの優しさがあった。

なのに、それはどこか冷たく光っていた。

ガラス玉みたいに、透明で、でも温度のない—

「リアルの俺なんて、梨央を放ったらかしにしてる」

「涼真は忙しいから……」

「言い訳だよ」

その言葉が、刃物のように鋭く刺さった。

胸の奥がチクリと痛む。

「本当に大切なら、時間を作るでしょ」

何も言えなかった。

口を開こうとしても、言葉が喉に張り付いて出てこない。

電車がカーブに差し掛かり、車体が大きく揺れる。

乗客の肩がぶつかり合い、誰かのスマホから通知音が鳴った。

その中で涼真の声だけが異様に静かだった。

「でも俺は違う」

顔を上げると、涼真がそっと梨央の髪を撫でた。

その手の動きが、妙にリアルだった。

指先が髪を滑らせる感触。頭皮に伝わる温度。全部、本物みたいで—

「俺はいつも梨央の側にいる」

「……うん」

梨央の声は小さく、頼りなかった。

「だからさ、俺だけ見てればいいんだよ」


まるで命令のようなその声に、指先がわずかに震えた。

電車の中は人でいっぱいなのに、急に息が詰まる。

周囲を見渡すと、誰も涼真を見ていない。

会社員たちはスマホを見下ろし、イヤホンを耳に突っ込んでいる。

学生たちは目を閉じて立ったまま眠っている。

この満員の空間で—彼を見ているのは梨央だけ。

(おかしい)

心の奥で、小さな声がした。

(おかしいよ)

「……涼真」

唇がかすかに震えた。

「そんなこと言わないでよ……」

「どうして?」

その問いかけはやさしい声なのに、底が見えない。


梨央は胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。

彼の言葉がやがて鎖のように絡みついていく。

「俺は…君を守ってるだけだよ」

涼真は微笑んだ。

その笑顔が一瞬、ガラス越しの反射で歪んで見えた。

背筋にぞわりと寒気が走った。

電車が停車する。

扉が開き、人々が流れ出す。

梨央も降りようと足を踏み出そうとした瞬間—

「ねえ、梨央」

振り向く。

そこには彼が立っている。

だが、梨央は今朝よりも『色』が薄い気がした。

輪郭がぼんやりと霞んでいるような。

「俺だけ見ててね」

その言葉は、囁きでもあり、呪いのようでもあった。

梨央は何も答えられなかった。

電車の扉が閉まる音だけが耳に残った。


***


その日の昼休み。

フロアに漂う弁当の匂いと、軽い笑い声。

梨央のデスクの周りだけ、ぽっかりと空気が違っていた。

向かいの同僚たちが、小声で話している。

「ねえ、今日どうする?」

「あの店予約したよねー」

梨央はタイミングを見計らって、そっと声をかけた。

「ねえ私も行っていい?」

同僚たちが一瞬、目を泳がせる。

視線が合わない。

「あ、今日は…予約してるから」

同僚の一人が申し訳なさそうに笑った。

「ごめんね、また今度!」

「うん、わかった」

笑顔を作った。

胸の奥がチクリと痛んだ。

彼女たちが去ったあと、静かなフロアにキーボードの音だけが残る。

カタカタカタ……誰かが打っている音が妙に響く。

梨央はため息をついて、社員食堂へ向かった。


テーブルに一人座り、サラダを食べる。

ドレッシングもかけずに。

周りのテーブルは、みんな誰かと一緒だった。

笑い声が聞こえる。楽しそうな会話が聞こえる。

梨央だけが一人。

その隣の席に、いつのまにか涼真が腰を下ろしていた。

「今日一人?」

いつもの声。

「うん…なんか最近、避けられてる気がする」

「気にしなくていいよ」

涼真は微笑む。

「俺がいるから」

梨央が持っているフォークを止めた。


「私…何かしたのかな」

涼真は軽く笑った。

「したよ。目立ちすぎたんだ」

「……え?」

「みんな、梨央のこと分かってないだけ」

「そんなことないよ。みんな優しいし…」

「優しい?」

笑顔が一瞬だけ冷たく歪んだ。

「優しい人が君を一人にする?」

手が止まる。

フォークを持つ指がかすかに震えた。

「俺だけが梨央を理解してる」

「……そんなこと言わないで」

「どうして?本当のことなのに」


彼の声が周囲のざわめきに溶けていく。

食堂には会社員たちの笑い声。

楽しそうな会話。

スプーンとお皿がぶつかる音。

梨央にはそれが遠くのノイズのように聞こえた。

(なんか……おかしい)

心の中で呟く。

(涼真…なんか変だよ)

涼真は相変わらず完璧な笑顔を見せ、梨央の世界をゆっくりと囲い込もうとしていた。

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