第十六話
翌朝。
カーテンの隙間から、やわらかな光が差し込んでいた。
いつもと同じ、福岡の穏やかな朝。
それなのに部屋の空気はどこか冷たい。
ぼんやりと目を開けると、視界の端に静かに立つ影。
心臓がドクンと跳ねる。
涼真…。
ベッドの脇でじっとこちらを見ている。
何も言わずに、ただ見ている。
その瞳の奥にはいつもの優しさがない。
「……おはよう」
声をかけると、涼真はゆっくり瞬きをした。
まるで今初めて梨央の存在に気づいたみたいに。
「おはよう」
その声には硬さがあった。
いつもみたいな、あの優しい朝の響きじゃない。
まるで別人が涼真の声を真似ているみたいな。
梨央は寝ぼけながらも笑おうと試みたが、その笑みはすぐに凍りついた。
「ねえ…梨央」
「……なに?」
「昨日、リアルな俺からのメッセージ来てたよね」
呼吸が止まった。
心臓が胸の奥で一度だけ激しく跳ねる。
喉がカラカラに乾く。
「……見てたの?」
「うん」
淡々とした声。
だが、その『うん』の響きには妙な圧があった。
まるで、見てはいけないものを見られたような—そんな居心地の悪さ。
寝室の空気がゆっくりと重くなっていく。
「返信しないの?」
「……後でする」
「本当に?」
梨央は視線を逸らす。
指先がシーツをぎゅっと握りしめる。
白いシーツに自分の指が食い込んでいく。
「え……?」
涼真がベッドの端に腰を下ろした。
その動きは静かすぎて、呼吸さえ感じさせない。
それが妙に怖い。
「梨央、最近リアルのほうの俺を避けてるよね」
喉が鳴る。
言葉が出てこない。
「俺といる方が楽しいんでしょ?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ、なんで?」
声がほんの少しだけ低くなった。
優しいはずの声が、重くのしかかる。
その静かな圧力が、部屋の空気を満たしていく。
息がうまく吸えない。
視界の端で朝の光がわずかに揺れた。
涼真の輪郭も同じようにかすかに揺れている。
これは夢?
それとも現実?
「ねえ、梨央」
もう一度涼真が言った。
その目はまるで梨央の心の中を覗き込んでいるみたいだった。
じっと、動かない。瞬きもしない。
「どっちの俺が好き?」
(…なんでそんなこと聞くの?)
喉が乾く。
息を吸う音さえうるさく感じる。
心臓の音が耳の奥でドクドクと響いている。
「……そんなの、比べられないよ」
「答えて」
優しく言っているのに、拒めない。
優しさの皮をかぶった命令。
梨央は唇を噛む。
何も言えない。
言った瞬間、何かが壊れそうで—
「……涼真どうしたの。なんか…怖いよ」
その言葉に涼真が微かに笑った。
その笑顔の奥には冷たいものを感じる。
氷みたいに、透明で冷たい—
「怖くないよ。ただ、確かめたいだけ」
「なにを……?」
「本当に俺のことが好きなのか」
息を飲む。
そして梨央は思った。
—どうして、この『幻』がそんなことを聞くの?
頭の奥でざらついた不安が広がっていく。
涼真の姿が、光の中で滲み、輪郭をぼやかしていく。
「……ねえ、涼真」
「なに?」
「……どうしてそんな顔するの」
「そんな顔?」
「まるで…怒ってるみたい」
静まり返る部屋。
時計の音だけが、部屋に響いている。
涼真は微笑んだ。
その笑顔は昨日までとまったく同じなのに、どこか違った。
「怒ってないよ。ただ君を、ちゃんと見ていたいだけ」
梨央は思わず目を伏せた。
胸の鼓動がうるさい。
寝室の空気が、ゆっくりと歪んでいくように感じた。
まるで、現実と夢の境界線が溶けていくみたい。
(なんでこんなに怖いの…)
心の奥でそう呟いた瞬間、涼真がそっと手を伸ばした。
頬に触れる。
確かにあたたかい。
でもそのあたたかさは、現実味を帯びていない。
まるで記憶の中の温もりを脳が再現しているだけみたいな。
梨央は目を閉じる。
涼真の手のひらの温度を感じながら、心の奥で小さく呟いた。
(これって…一体なに?)
答えはわからないままだった。




