第十五話
時計の秒針が、ひとつ、ふたつ、音を刻む。
梨央はその音を聞きながら、誰かの気配が背後にあるのを感じた。
莉香の目には見えていない。
でも、梨央にはそれが誰なのか分かっている。
「りお?」
莉香が顔を覗き込む。
「……あ、うん。ごめん」
「無理しないでね。ほんとに」
「…うん」
梨央の視線は、莉香ではなく、背後の空間に向いていた。
そこにいる涼真に。
彼は静かにこちらを見ていた。
「じゃあ私そろそろ帰るわ」
「あっ、うん…」
玄関先まで莉香を見送る。
扉の外の光が少しだけ眩しい。
夕方の風が廊下を抜けて、カーテンをゆらした。
「じゃあ、また連絡するね」
莉香が笑う。
けれどその笑みの奥には、まだ不安の色が残っていた。
「……一人で抱え込まないで。ね?」
「…うん。ありがと」
梨央は笑ってみせると、莉香はしばらく黙ったあと、彼女の肩を軽く叩いた。
「辛かったらいつでも相談して……ね?」
「……うん」
扉が閉まる。
その瞬間、部屋の空気が変わる。
静かだけどやけに濃い空気。
壁の時計の音が急に大きく感じられる。
梨央は深呼吸をして、ソファに腰を下ろした。
しばらくして、背後の空気がかすかに揺れる。
「……大丈夫だった?」
振り向くと、イマジナリー涼真が立っていた。
いつものようにスウェットの袖をまくったが、その表情はいつもより硬い。
「うん……でも」
「でも?」
「莉香に迷惑かけちゃってるな…って」
「……そっか」
一瞬だけ涼真の笑顔が揺れた。
「莉香、余計なこと言うよね」
「え?」
「だって、俺たちの邪魔してるじゃないか」
その声はいつもより少し冷たい。
「邪魔って……」
「俺と梨央の時間を、邪魔してる」
涼真の目が、ほんの少しだけ光を失っている。
梨央は背筋が寒くなるのを感じた。
「……涼真?」
次の瞬間、涼真の表情がパッと明るくなる。
「ごめん!変なこと言った」
いつもの優しい笑顔に戻る。
「……うん」
涼真がそっと近づいてくる。
「仕方ないよ」
彼の声はいつも通り穏やかで、まるで深い眠りの中に落ちていくみたいに柔らかい。
「俺のことは、梨央だけが知っていればいい」
「……うん」
その瞬間、彼の腕が梨央の肩を包む。
温かい。
でも…少し重い。
「俺がいれば大丈夫でしょ?」
「……うん」
梨央は静かに頷いたが、胸の奥で何かが軋んだ。
(ほんとに……大丈夫なの?)
涼真の腕の中で、その問いがゆっくりと沈んでいく。
彼の体温はたしかにそこにある。
だが、それが「生きている温度」かどうか、梨央は確信を持てないままでいた。
梨央は涼真の胸に顔をうずめたまま目を閉じた。
今は何も考えたくない。
その気持ちを察したかのように、涼真は梨央を抱きしめた。
抱きしめる腕の圧力が、少しだけ強くなる。
まるで離さないように。
逃がさないように。
「ねえ、涼真」
「なに?」
「……私、ちょっと疲れたかも」
「じゃあ、休もう。俺がそばにいるから」
その声がやけに甘いけれど、耳の奥で微かにノイズとして残る。
まるで壊れかけたラジオの音みたいに。
梨央はその違和感に、気づかないふりをした。
涼真の腕の中で、梨央の意識がゆっくりと沈んでいく。
その闇の奥で、何かが静かに笑っている気がした。




