第十三話
あの夜から数日が経つあいだ、梨央は現実の涼真より、心の中に住みついたイマジナリー涼真との時間に浸ることが増えていた。
休日の午後三時。
カーテンの隙間からやわらかな光がこぼれ、部屋の中は穏やかな午後の空気に満たされていた。
梨央はソファに腰を沈め、隣にいるイマジナリー涼真とテレビのバラエティ番組を見て笑っていた。
「この芸人、ほんとにテンションおかしいよね」
「梨央のツボそこなんだ?」
「だって、顔がもう面白いじゃん」
「ははは、確かに…」
ふたりの笑い声が重なった瞬間—
ピンポーン。
その電子音が、静かな部屋の空気を裂いた。
「……え?」
梨央の笑顔が凍りつく。
イマジナリー涼真も一緒に首をかしげる。
もう一度…ピンポーン。
「誰?」
涼真が聞く。
「わかんない。宅配かなあ」
スマホを見る。
通知なし。
三度目のピンポーン。
間を置かない呼び鈴の押し方が、どこか馴れ馴れしい。
「……まさか」
ドアの方に向かいながら、嫌な予感が胸をよぎる。
「りおー! いるでしょー! 開けてー!」
—莉香の声だった。
「り、莉香!?」
心臓がどくんと跳ねた。
その瞬間、隣にいる涼真の存在を思い出す。
彼はまだそこにいる。
部屋の中に確かに存在している。
(やばい、やばい、やばい!)
「友達?」
涼真が聞く。
「そう!だから、ちょっと消えて!」
「え?」
「お願い!今すぐ!」
涼真の表情に、一瞬—寂しさではなく、不快感のようなものが浮かんだ。
眉が微かに下がる。
口元が少しだけ歪む。
「……邪魔者扱い?」
その声がいつもより少し冷たい。
「違う!そうじゃなくて!」
「…わかった」
涼真は短く言って、輪郭がゆっくりと淡く薄れていった。
空気の中に光の粒が溶けるように、何もなかったかのように、彼は消えた。
でも、その消え方はいつもより少しだけ遅かった。
まるで抵抗しているみたいに。
梨央は深呼吸をひとつして、笑顔を作る。
ドアを開けると、そこには元気いっぱいの莉香が立っていた。
「りおー! サプライズ〜」
「ちょ、ちょっと、いきなりなに!?」
「あはは!たまには突撃しようと思って」
莉香は悪びれもなく笑いながら、差し入れの紙袋を掲げた。
「ケーキ買ってきた!ティラミスとチーズタルト、どっちがいい?」
「え、えっと……ティラミス……」
「やっぱり!ねえ、入っていい?」
「あ、うん、ど、どうぞ……」
***
部屋に招き入れると、梨央の指先が微かに震えていた。
莉香は靴を脱ぎながら、目を輝かせてリビングへ進む。
「ひっさしぶりー!あ、部屋きれいになってるじゃん」
「……まあ、うん」
声が少し上ずる。
莉香はきょろきょろと部屋を見回した。
視線が止まる。
テーブルの上には、二つのマグカップ。
片方にはまだコーヒーが半分残っていて、湯気が微かに立ち上っている。
もう片方には、飲み干した跡。
「……あれ?」
莉香が眉を寄せる。
「誰か来てた?」
「え、いや……」
「でもマグカップ、ふたつあるよ?しかもまだ温かそうだけど」
梨央、息を呑む。
(しまった——)
「あ、これは……朝、自分で使ったの。二回淹れたから」
「ふうん…」
莉香の声が軽いようで、どこか探るようだった。
そのまま、何気ないふりでキッチンの方へ歩いていく。
梨央の背筋がピンと張る。
—しまった。
「ねえ、りお」
「な、なに?」
「包丁…二本出てるけど?」
まな板の上に、使い終わったままの包丁が二本。
一本は梨央の手に馴染んだ小ぶりなもの。
もう一本は最近出した覚えのない大きなシェフナイフ。
「えっと……どっちが切れ味いいか、試してただけ」
「ふうん…」
莉香は笑った。
けれど、その笑みは目の奥まで届いていない。
視線がさらに動く。
冷蔵庫に貼られたメモ。
「明日、カレー作ろう」
—梨央の字ではない。 もっと丁寧で、少し角ばった文字。
「……りお」
「え?」
「この字、涼真くんの?」
梨央の呼吸が止まる。
「あ、これ……えっと……」
「涼真くん来てたの?!東京から!?」
「ち、違うよ」
「でも、なんか痕跡あるよ。ふたりで暮らしてるみたいな」
「だから…違うってば!」
声が少し大きく響いた。自分でも驚くほど。
莉香は静かに梨央の顔を見つめる。
「じゃあ…誰?」
「……誰もいない」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
時計の針の音が、やけに大きく響いた。
莉香がため息をつく。
「りお、最近さ……なんか、おかしいよ」
「な、なにが?」
「うまく言えないけど……空気が変わったっていうか」
「……そんなことない」
「あるよ」
莉香はテーブルの上に視線を戻す。
二つ並んだマグカップ。
まだ温かいコーヒー。
それを見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「誰かいる気がする」
梨央の喉が、ひゅっと鳴った。
「莉香、何言ってるの」
「……ごめん、変なこと言ったね」
莉香は笑ってみせた。
でも、その笑顔はどこかひきつっていた。
(くしゃん!)
突然のイマジナリー涼真のくしゃみ。
梨央だけが気づいた。
莉香はもちろん気づかない。
けれど、梨央の指先が凍りつく。
(やめて。今は出てこないで)
胸の中で、必死に願う。
だが、どこかで確かに感じた。
誰かの視線が、こちらを見ている。
冷たい視線。
莉香の笑顔の裏に、不安がにじんでいた。
梨央はうつむいたまま、口角だけで笑った。
「大丈夫。ほんとに、誰もいないから」
その声の裏で—もう一つの息づかいが、微かに重なっていた。




