第十二話
【午後11時すぎ】
眠れない梨央は夜風を浴びたくて外に出た。
街は静かだ。 車の音も途切れて、遠くで犬の鳴き声がひとつ。 夜風が冷たく、頬に当たるたびに少しだけ現実を思い出させる。
梨央はパーカーのフードを軽く押さえながら、並んで歩く隣の存在を見上げた。
「夜風気持ちいいね」
「うん」
イマジナリー涼真の声は、まるでこの夜に溶けるみたいに柔らかい。
彼が少し歩幅を緩めて、梨央の手を取った。
その暖かさは体温ではなく、静電気のような感触がした。
指先がかすかにざらつく。
「寒くない?」
「うん、大丈夫」
梨央は笑って答える。
鼓動が少し速くなる。
手のひらから、心臓の音が伝わりそうだった。
二人は近くの公園へと足を運ぶ。
街灯の光が、ベンチの影を長く伸ばしている。 銀色の月明かりの下、ベンチに並んで腰かけた。
「星、きれいだね」
「うん……」
空に散る星のひとつひとつが、遠すぎて、現実味がない。 まるで、涼真と同じ—触れられそうで、触れられない。
「梨央」
「ん?」
涼真は少しだけ顔を傾けて、彼女を見た。 瞳が夜の光を映して、まるで深い水のように揺れる。
「俺、ずっと梨央の側にいたい」
その言葉が、まっすぐに胸に落ちた。
「……私も」
言葉にした瞬間、涙が出そうになる。
幸せだった。
苦しいくらいに幸せだった。
涼真が微笑んで、小指を差し出す。
「約束だよ」
梨央も笑いながら、その指に自分の指を絡めた。
「うん、約束」
夜風がふわりと吹き抜ける。 髪が揺れ、肩が触れ合う。
その温もりの中で、梨央の心にふと影が落ちた。
(これ…いつまで続くんだろう)
その一瞬の不安を、涼真の指がぎゅっと握りつぶした。
「ほら、冷えるよ。帰ろ」
「うん」
立ち上がった涼真が、そっと彼女の髪を耳にかけた。 その仕草があまりにも自然で、梨央はもう何が自然なのかわからなくなっていた。
***
今日の夜はやけに長い。
リビングの時計が、静かに秒を刻んでいる。 針の音が、心臓の音に重なって、部屋の空気を少しずつ削っていく。
イマジナリー涼真はソファで眠っていた。
横顔は穏やかで、寝息さえも本物みたいに聞こえる。 それが「本当に」聞こえているのか、自分の頭が作り出しているのか、もうわからなかった。
梨央はベッドに腰を下ろし、スマホを手に取った。
画面の光がやけに白い。
未読の通知がまた増えていた。
もちろん送り主は涼真だ。
「返事ないけど大丈夫?」(22:00)
「心配」(23:15)
梨央の指が、画面の上で止まる。
(……返せばいいだけなのに)
胸の奥に、じわりと痛みが広がる罪悪感。
それは痛みというよりも、重さに近かった。
「……私、何してるんだろう」
小さく呟いた声が、部屋の空気に溶けていく。 答えは返ってこない。 返ってくるはずのない空間。
スマホを握る指先が震えた。 それでも、返信を打つ気にはなれなかった。 打ち始めた文字を、何度も消して、結局なにも送らない。
隣を見る。
ソファに眠るイマジナリー涼真が、微かに寝返りをうった。
柔らかな髪が額に落ちる。 寝息のリズムが、なぜか梨央の呼吸と重なっていく。
「彼がいるなら十分かも」
自分でも驚くほど、自然にその言葉が出た。
でも、次の瞬間には心臓が跳ねた。
「ダメ、そんなこと考えちゃ……」
小さく頭を振る。 視界が揺れて、天井の明かりが滲んだ。
もう一度スマホを見つめる。
白い画面。 開かれないトーク画面。
「既読」にならない優しさと、「未読」の残酷さ。
梨央はスマホを伏せて、横になる。
まぶたを閉じても、脳裏には涼真の顔が浮かんだ。 本物でも幻でもない—ただ自分の中の涼真。
その顔は穏やかだ。
(ねえ、私……間違ってる?)
問いの形をした思考が、静かに沈んでいく。
遠くで時計の音がひとつ鳴った。
眠れない夜が続いていく。




