第十一話
【日曜日の正午】
カフェのテラス席。 陽射しが白いテーブルの上で跳ねている。 ミントの香りと、どこかで焼かれているパンの匂い。
「りお、最近めっちゃ元気じゃん!」
スプーンをくるくる回しながら、莉香がにやりと笑った。 ショートカットが風でふわりと揺れる。
梨央はストローを咥えたまま、目を瞬かせる。
「そう?」
「そうだよ! なんか前より明るいし、肌ツヤいいし。絶対なんかあるでしょ」
「な、なんかって?」
「そりゃもう彼との関係しかないじゃん!」
あまりにも直球で、梨央は慌ててカフェラテを啜った。
泡が鼻先についたのを、莉香がすかさず指摘する。
「あはは!ついてるついてる!」
一拍の間。
「それで、涼真くんとはうまくいってるんだよね?」
フォークを持つ手が、わずかに止まった。
(…涼真?)
頭の中で、昨夜の彼の声が蘇る。
『俺がいるよ』
胸の奥が静かにざわめいた。
「まあ……うん。うまくいってるよ」
そう言った瞬間、自分でも嘘だとわかった。
けれど、莉香の顔がぱっと明るくなって、それ以上言えなくなった。
「やっぱりー!そうだと思った!遠距離なのにりお全然病んでないし!」
「病む前提で話すのやめて」
「だって私だったら無理だもん。週末とか絶対会いたくなる」
「…うん、まあね」
「秘訣はなに?どうやってるの?やっぱマメな連絡とか?」
「え、えっと……」
(どう言えばいい…?)
「会えなくても心は繋がってる、っていうか…そんな感じ?」
「キャー!名言出た!」
莉香が手を叩いて笑う。
「なにそれ、ポエムじゃん!でもいいねそれ、りおっぽくて」
梨央もつられて笑う。
だけど、その笑顔の奥で胸の奥がじくじくと痛んだ。
(繋がってる……のかな…)
視界の隅で、窓の外の反射に一瞬"誰かの肩"が映った気がした。
振り返ると、そこには誰もいない。 ただ、白い光だけが揺れている。
「でもさ」
莉香がフォークを持ちながら、少し真面目な声になる。
「たまには会いに行ったら?東京、そんなに遠くないじゃん」
梨央は視線を落とした。
プレートの上のサラダが、鮮やかすぎて目に痛い。
「…涼真忙しいから」
「…そっか」
莉香は軽く頷いて、あっけらかんと笑った。
「でもまあ、りおが元気ならそれでいっか!」
—でも、その笑顔の奥で、莉香の目が少しだけ細まった。
(……なんか、変だな)
莉香は心の中でそう思ったが、口には出さなかった。
その言葉に救われたような気がして、梨央も笑った。
だが、笑えば笑うほど胸の奥が締めつけられる。
(元気か…そう見えてるんだ)
会話は軽く、空気も明るい。
けれどその明るさの中に、自分だけが"別の温度"で生きている気がした。
カフェを出た後、莉香が手を振りながら言った。
「じゃあまたね!」
「うん、また!」
梨央も笑顔で手を振った。
けれど、背を向けた瞬間—その笑顔がすっと消えた。
(……ごめんね、莉香)
心の中で呟く。
(私、ほんとはもう、誰と話してるのか…よくわからないの)
足元の影が長く伸びて、街の喧騒に溶けていった。
***
【夜22時】
部屋の中は静かだった。 エアコンの風が、カーテンをかすかに揺らしている。
梨央はソファに沈み込み、テレビをつけたまま、ぼんやりと画面を眺めていた。 音は聞こえているのに、内容が頭に入ってこない。
テーブルの上でスマホが光った。 通知の明かりが、壁に短い影を作る。
(……また?)
手を伸ばして画面を開く。
涼真からだった。
「返事ないけどどうした?大丈夫?」(22:00)
指が止まる。
(ごめん…涼真)
胸の奥が、じくじくと痛む。
その瞬間—空気が微かに変わった。
視線を上げると、そこに彼がいた。
キッチンの明かりの下、イマジナリー涼真がいつものように立っていた。 白いシャツの袖をまくりながら、柔らかく笑う。
「どうしたの?」
「涼真が…来月、会いに来るみたいなんだけど…」
「……うん」
一拍の間。
彼の笑顔が、ほんのわずかに曇った気がした。
「嬉しくないの?」
梨央は言葉を詰まらせる。 口の中が乾く。
「……わかんない」
「どうして?」
「なんか、怖いっていうか…」
涼真がゆっくりと彼女の隣に腰を下ろす。
距離が近づくたび、空気が温かくなる。
「怖い?」
「うん……会ったら、今の私、変だって思われそうで」
「ぜんぜん変じゃないよ」
涼真の声は優しく、甘い。
「俺がちゃんと、ここにいるじゃないか」
その言葉に、梨央の喉が詰まる。
(そうだ。涼真はここにいる。毎日話して、笑って、料理して—)
「大丈夫。俺がいるから」
その声が、ゆっくりと脳の奥に染み込むようだった。
息を吸うたび、胸の中のざわめきが静かになっていく。
「うん……」
梨央はスマホを伏せて、テーブルの端に置いた。 画面が静かに暗転する。
イマジナリー涼真は、微笑んで彼女の髪を撫でた。
「返信はまた次でいいじゃん」
「うん……そうだね」
そのまま梨央は目を閉じた。
涼真の肩にもたれると、確かにそこに重みがあった。
でも—
その重みが、ほんの少しだけ、冷たく感じた。




