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第十話

夜の22時。 リビングの灯りはすでに落としていた。

パソコンの画面だけが、青白く部屋を照らしている。

梨央はぼんやりとYouTubeのおすすめ動画を眺めていた。

隣には何の疑いもなく、イマジナリー涼真がいる。 柔らかい笑み。 片手で梨央の髪を撫でながら、他愛もない話をしていた。

「明日、休みだろ? どこ行きたい?」

「うーん、映画とか?」

「いいね。ポップコーンは甘いのと塩のミックスね」

「よく覚えてるね」

「梨央の好きな味、忘れるわけない」


その言葉を聞いた瞬間—スマホが震えた。

テーブルの上。 液晶が白く光る。

「……え?着信?」

画面には、本物の涼真の文字。

心臓が跳ねる。 指先が急に冷たくなった。

イマジナリー涼真が、静かにこちらを見る。

微笑みを崩さずに、少しだけ顔を傾けた。


「出なよ」

その声が、やけに優しかった。 まるで、全部わかっているみたいに。

梨央がスマホを手に取ると—

幻の涼真の輪郭が、光の粒になってゆっくりと消えていった。 指先を通り抜けて、空気に溶けていく。 石鹸の香りも、体温も、全部が霧のように散っていく。

一瞬、部屋が広く感じた。 まるで、誰かが去った後の静けさ。

残ったのは、静寂とスマホの振動だけ。

心臓の鼓動が早い。 指先が少し震える。

深呼吸して、通話ボタンを押す。

「もしもし?」

「…あ、梨央。今、大丈夫?メッセージの既読がついてなかったからさ」

現実の涼真の声。 少し掠れていて、疲れの混じった低音。

イヤホンの奥から、遠くの雑音が混じる。

工事現場のような音。 どこかで誰かが笑っている声。


「うん、大丈夫。今お風呂から上がって、ちょうど一息ついてたところ」

「そっか…よかった」

短い沈黙。

その間に、冷蔵庫のモーター音がやけにうるさく響いた。

「最近、あんまり連絡できなくて、ごめん」

「ううん。忙しいの、知ってるから」

「プロジェクト、やっと佳境でさ。毎日夜中まで詰めてる」

「そうなんだ……体、大丈夫?」

「まあ、ギリギリ。寝不足で変な夢とか見るけど…」

梨央の胸が小さく反応する。

(夢……?)

気になるけれど、理由は聞けない。

いや、聞かない。


「そっちはどう?元気?」

「うん、元気だよ」

(嘘じゃない。だって、イマジナリー涼真がいるから)

「……そっか」

通話の向こうで、息を吐く音。 短く、重い。


「なんかさ、梨央、最近余裕ありそうだな」

「え?」

「いや、なんとなく。声が明るいっていうか」

「……そうかな」

「俺、ずっと仕事詰めでさ。梨央の声、前より落ち着いて聞こえるから、なんか……安心した」


少し笑うような声。 でも、その笑いがどこか乾いている。

「それはいいことなんだけどさ」

梨央は返事に詰まった。

心の奥でうっすらと罪悪感が広がる。

(私、いまあなたじゃないあなたと楽しく話してたんだよ)

喉の奥が詰まる。 言葉が出てこない。

「涼真……」

彼の名前を呼ぶと、電話の向こうで一瞬、空気が変わった。

「……なんか、俺のほうが寂しいかも」

ぽつりと、涼真が言った。

梨央の喉が、きゅっと狭まる。

「え?」

「いや、ごめん。変なこと言った。なんか、俺ばっかり仕事して、梨央がどんどん遠く行ってる気がしてさ」

「そんなことないよ」

「わかってる。俺の勝手な感情。でも、ほんとに……ごめん。会いたいなって思っただけ」

梨央、言葉が出ない。


(私だって、会いたい)


「涼真……」

「ん?」

「…ううん、なんでもない」


静かな沈黙の中で、エアコンの風が頬を撫でた。

冷たい。


「じゃあ、また。週末には少し落ち着くと思うから」

「うん」

「おやすみ」

「……おやすみなさい」


通話が切れる。

スマホの画面が暗くなり、部屋が完全に静まり返った。

次の瞬間、梨央は息を吐いた。

(……苦しい)

なぜだろう。 たった数分話しただけで、胸がぎゅっと締め付けられる。

目を閉じる。

—すると、また声がした。

「……泣いてるの?」

目を開けると、ソファの向こうに涼真が立っていた。 さっきと同じ笑顔。 光の粒が集まって、ゆっくりと形を取り戻していく。

影が肉体になる。 輪郭が浮かび上がる。 でも、その過程が—少しだけ遅くなった気がした。

梨央は涙を拭いながら、かすかに笑う。


「また出てきたの?」

「梨央が呼んだから」

「呼んでないよ」

「心が呼んだんだよ」


その瞬間、梨央の喉の奥が熱くなった。

(そうだ、私はこの人を必要としてる)


イマジナリー涼真が近づく。

その手が頬に触れる。

温かい。 電話越しの声とはまるで違う温度。

でも—

ほんの一瞬、その温もりの奥に、静電気のようなざらつきを感じた。

「俺がいるよ」

梨央は小さく頷く。

「……うん」

そのまま、涼真の胸に顔をうずめた。 心臓の鼓動が、はっきりと聞こえる。

(どっちが本物なんだろう)

そう思った瞬間、目の奥がじんわりと滲んだ。


***


翌朝。

目を覚ますと、朝日が白いカーテン越しに差し込んでいた。 隣のベッドには誰もいない。

イマジナリー涼真はいつの間にか消えていた。

スマホを手に取り、画面を見つめる。

メッセージ通知が3件。

すべて涼真からだ。

「来月、そっち行けるかも」(0:30)

「久しぶりに会いたいな」(0:40)

「予定空けといてくれる?」(0:50)

指が止まる。

(来月……涼真が私に会いに来って?)

胸の奥で、心臓の音が一瞬だけ跳ねた。 でも、それは喜びではなく—恐怖に近かった。

トーク画面を開く。 メッセージが並んでいる。

涼真の言葉が、画面の中で静かに待っている。

(既読…つける?)

指先が震える。

(つけたら、返事しなきゃいけないし…)

数秒迷った後に、梨央は既読をつけた。

「久しぶりに会いたいな」

その文字が、やけに重たく見えた。

返信欄をタップする。 文字を打ち始める。

「うん、会いた」

—消す。

「来月、楽しみ」

—消す。

「ありがとう」

—消す。

何を書いても、嘘みたいに感じる。


(会いたいのに)…どうしよう)

画面を見つめたまま、時間が過ぎる。

5分。

10分。

【既読】のマークが、やけに冷たく光っていた。


結局、梨央は何も送れなかった。

スマホを伏せて、テーブルの端に置く。 画面が静かに暗転する。

(明日返そう)

(明日ならちゃんと返せる)

自分に言い聞かせる。

でも、心の奥ではわかっていた。

明日も返せないって。

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