第一話
【月曜日・午前8時】
福岡の通勤電車は今日もぎゅうぎゅう詰めだった。
吊り革が全部埋まっていて、梨央は窓際に押し込まれた格好で、片手でバッグを抱え、もう片方の手でスマホを握っている。
ガタン、と車輪の音。
ドアの隙間から冷たい風が一瞬入り、梨央の髪がふわりと揺れた。
窓の外に、朝の博多の街が流れていく。
白い息を吐くサラリーマン、自転車の高校生、コンビニの袋。
世界はみんな忙しそうだ。
梨央だけが、どこか宙ぶらりんな気持ちでその風景を見ていた。
指先が勝手にスマホの画面をスワイプする。
彼氏・涼真とのメッセージ履歴を確認。
最新のは昨日の夜。
梨央「今日もお疲れ様♡体調大丈夫?」(21:30)
涼真「おう」(23:45)
「おうって…なにそれ…」
思わず口に出た。
前の席の女子高生がちらっとこちらを見て、すぐイヤホンをつけ直す。
梨央は慌てて口を閉じ、咳払いで誤魔化した。
心の中で突っ込みが止まらない。
おう。
体育会系の返事か。恋人の返事じゃないでしょ。
ていうか、2時間後に返して『おう』って。…いや、既読がついただけマシか。
うん、そう思おう。
スマホをスリープにして、鞄に戻す。
その動作ひとつが、妙に重たい。
窓の外をもう一度見やる。
博多駅のホームが近づいてくる。
「あの新幹線に乗れば、4時間半で会えるのに……」
ぽつりと呟いた声は、ドアの開く音にかき消された。
4時間半。たったそれだけの距離なのに、まるで違う世界みたいに遠い。
飛行機でいけば?…飛行機恐怖症の私にそれ言いますか?と自問自答。
「東京の彼氏…か」
自嘲気味に笑ってみるけど、その笑いはすぐ霧のように消えた。
人の流れに押されて電車を降りる。
ホームに吹く風が肌を刺す。
スマホの画面をもう一度ちらり。
やっぱり通知は、ない。
梨央は深く息を吸って、頬をぱん、と軽く叩いた。
「よし。仕事、仕事」
少し大きめの声だったので、横を歩くスーツ姿の男性が怪訝そうに振り返った。
梨央は即座に笑って頭を下げる。
「すみません、独り言です!」
男は苦笑して歩き去る。
朝のざわめきに飲まれながら、梨央は駅の改札を抜けていった。
スマホの画面が、胸ポケットの中で冷たく沈黙している。
あいつの世界には、私は今、いないのかも。
そんな考えが一瞬よぎったが、すぐに打ち消した。
遠距離なんてこんなもん。
そう心で言い聞かせながら、梨央は会社へ向かう階段を上がっていった。
***
オフィスの空気は、朝からほんのり香るコーヒーとキーボードの音。
グレーのパーテーションに囲まれたオープンスペースの一角、梨央の席は窓際。
彼女はモニターの前で淡々と作業していた。
新しいLPのデザイン案。
配色に悩んでいるところだ。
ふと背後から声が飛んでくる。
「ねえねえ、吉田さんの彼氏、またサプライズしてくれたの?」
「あ、それ聞きたい〜!」
女子社員たちの笑い声が、コーヒーの香りよりも強く漂う。
吉田さんは軽く髪をかき上げて、得意げに笑った。
「うちの彼、マメなんだよね〜。昨日なんて急に花束持って家来ちゃってさ!」
「えー!ドラマみたい!」
「でしょ?びっくりしたけど、正直嬉しかった〜」
梨央の指が、マウスの上で止まる。
画面の中のカラーパレットがぼやける。
耳を塞ぎたいわけじゃない。
でも、心のどこかで「その話、聞きたくない」と小さくつぶやく自分がいる。
「ねえ、藤咲さんはどうなの?」
いきなり名前を呼ばれて、梨央は少し身をのけぞらせた。
「え?」
吉田さんが椅子をくるりと回して、にやりと笑っている。
「東京の彼氏さんとは、最近会えてる?」
梨央は笑顔を作る。
「うん、まあ…ぼちぼち」
「遠距離でしょ?私、絶対無理だなあ。寂しくなったりしないの?」
「……大丈夫」
笑って答える。
その笑いは薄いガラスみたいに脆い。
「私なら3日でダメだわ〜」
吉田さんはケラケラ笑う。
隣の田中さんも、うんうんと頷いている。
「私、彼氏と会えない日が続くと泣いちゃいますもん!」
梨央は机の上のコーヒーを一口飲んだ…が、味がしない。
「でも、藤咲さんって落ち着いてるし、そういうの平気そう」
梨央の一個下の田中さんが無邪気に微笑む。
「彼氏さん…浮気とかしない人なんですよね?」
梨央は少しだけ黙ってから、頷いた。
「うん、信じてるから」
声がかすれる。喉の奥が乾いている。
吉田さんがストローを噛みながら言った。
「でもさ、男って放っておくと浮気するじゃん?」
…は?
「ごめんごめん、藤咲さんの彼は大丈夫だよね!」
梨央が無理やり笑う。
「うん、大丈夫」
マウスを握る手が、わずかに震えていた。
ランチの喧騒の中で、笑い声が弾ける。
梨央の笑顔もその中に混じっているが、頭の中は真顔だった。
「大丈夫」という言葉を、何度も心の中で唱える。
それは魔法の呪文みたいで、言えば少しだけ楽になる。
でも、同時に少しずつ心が擦り切れていく音がした。




