カレル・サインツ
レースが始まった。
19人の強豪を後ろに引き連れ走るというものは、いつになっても慣れない緊張感が伴う。
今、私のバックミラーに一番大きく映っているのは我らがフェラーリのチームメイト。
ジャンニ・ルクレールだ。
思えば…ジャンニと出会ったのもここ、日本だったな。
「『やあ。キミもその曲聴くのかい?』」
唐突だった。
F1に参戦した初年度。
私は元々、人と話すのが嫌いだった。
その日もいつものようにサーキットのカフェで一人、音楽を聴きながらコーヒーを飲んでいた。
彼は返答しない私をよそに、私の対面の席に座った。
なんの許可もなしにである。
「『知ってる?そのアーティスト、日本人なんだぜ』」
…知らなかった。
というか、こいつはなんなのだ。
いきなり話しかけてきたと思ったら、目の前に座ってきて前のめりで話しかけてくる。
いつまでも無言でいるわけにもいかなくなった。
「『…そうなのか。英語が流暢だから意外だ…』」
「『あ、ぼくジャンニっていうんだ。よろしくね』」
話に乗ろうと思ったら被せるように自己紹介をしてきた。
…。
本当にこいつはなんなのだ…。
「『いやー。ぼくも今シーズンから参戦でさ。めっちゃ緊張したよ。このサーキットなんか、ヨーロッパで走ってたらまずもってコースも知らないもんね』」
…店を出てからもずっとついてくる。
私も何か喋らなくてはなるまい。
「『…ジャンニは、どこ出身なのだ?』」
「『モナコっていう、イタリアとフランスの間にあるめっちゃ小さい国さ。いつか母国開催のモナコグランプリで勝つのが夢なんだ』」
「『…そうか。叶うといいな』」
私は、会話が長く続かないように短い言葉で切って返した。
「『あっそうだ。名前を聞いてなかったね』」
「『…カレルだ。カレル・サインツ。』」
「『OK、カレル。じゃあまた会おう』」
…?
私はこの男も私の向かう先、すなわちピットに向かっているものだと思っていた。
「『…ピットはまだ先だぞ?』」
「『ああ。でもカレル、キミはあんまりぼくと喋りたくなさそうだったからさ。無理させるわけにはいかないよ』」
ジャンニはそう言うと、反対の方へ歩いて行ってしまった。
私は一瞬引き留めようと手を伸ばしたが、彼にかけるためのうまい言葉が見当たらなかった。
予選中、彼の言葉が脳裏を埋め尽くしていた。
これまで色んな人と会話を試み、ことごとく愛想を尽かされてきた。
だが、先ほどの彼はそうした類のものではない気がする。
そもそもああいった陽気な性格の者とは、私は合わないと思っていた。
だが、彼は違う。
根拠はないが、そう思った。
「『あれ。また会ったね』」
「『…どうやらそうみたいだな。』」
予選セッションを終えた我々は、ロッカールームで再会した。
私はこれを契機と見て、勇気を出して会話を繋げてみることにした。
「『…なあ。またカフェに行ってゆっくり話さないか。ジャンニ…キミと少し、おしゃべりを楽しんでみたくなった。』」
「『!。もちろん!』」
分かりやすい男だ。
私の言葉を聞いた瞬間、目の奥が輝いたのが見えた。
「『カレルはさ、あんまりペラペラ喋るのは好きじゃないんでしょ?』」
「『…ああ。』」
「『それはそのままでいいと思うんだよね。ぼくは。』」
意外な言葉だ。
私は私のこの特性を、このままでいいと思ったことは一度も無い。
「『それもひっくるめてカレルの個性だよ。周りと比べてはみ出した部分があっても、それは皆にもあるものだ。自然と、なじんでいくものなんだよ。』」
それを聞いた私は、確かに胸を打たれるものがあった。
今までに覚えたどんな感動よりも深いものが、胸の中に息づいたのを感じた。
「『それに、ぼくと同じ曲を聴いている人が、悪い人なはずはないからね。』」
ジャンニ、キミは素晴らしい人だ。
私なんかと比べるのもおこがましいくらい…。
…いや。
違う。
私も、素晴らしい人間なのだ。
私はジャンニに問う。
「『…なあ、明日の決勝、勝負をしないか?後ろでゴールをした方が、夕食を奢ることにしよう』」
「『いいぜ。負ける気しないけど?』」
それは、私からの遠回しな食事の誘いだった。
後方に目をやる。
相変わらず彼は大人しく私の後ろについて来ている。
昨日の宣言通りだな。
でも。
でも私は。
今日はなんだか、もっと激しく動き回りたい気分なのだ。
なあジャンニ、私の親友よ。
もう一度だけ、ここ鈴鹿で。
本気で争ってみないか?
今日の夕食を賭けて…さ。