蜘蛛の糸 2024
昔、犍陀多と呼ばれる大悪党がいました。
ありとあらゆる悪事に手を染め、生まれてから生涯一度も善い行いをしたことがないと噂される悪の権化。
悪党仲間からも忌み嫌われ、そして恐れられたその男は、死後当然のごとく地獄に落とされました。
地獄に落ちた犍陀多は連日地獄の責め苦を受け続けました。
それも一つだけではありません。
ありとあらゆる悪行を重ねてきた犍陀多は、あらゆる地獄を廻り、あらゆる責め苦を受けてきました。
焦熱地獄で身を焼かれ、極寒地獄で凍り付き、針山地獄で串刺しにされ、その他ありとあらゆる地獄でその身に苦痛を受けました。
地獄廻りフルコンプリート。
今や犍陀多ほど地獄を知り尽くした亡者はいません。
長いこと地獄の責め苦を受けて苦しみ続けてきた犍陀多は、すっかり精神が消耗して自分が何者なのか、何故苦しみ続けなければならないのかさえ分からなくなってていました。
それでもなお、地獄から解放されて新たな命に生まれ変わることがないのは、それだけ犍陀多の業が深いためでした。
地獄の遥か上、極楽浄土では、蓮池を覗き込んでいる人物がいました。
お釈迦様です。
極楽浄土にある蓮池はちょうど地獄の真上にあり、一片の濁りもない水を通して地獄の隅々まで見て取ることができるのです。
以前からお釈迦様は犍陀多を気にしていました。
犍陀多は極悪人です。
生涯一度たりと善い事をしたことの無い悪の権化と呼ばれ、悪党仲間からも恐れ嫌われた男。
しかし、本当にそんな人間がいるのでしょうか?
お釈迦様は疑問に思っていました。
お釈迦様が最初に行った説法は、「中道」と言うものです。
両極端のどちらに近付いてもいけない。
それは、人の在り方の本質に関わる話です。
人の性質はそれぞれですが、多少の偏りはあっても極端の一方だけに全てという人はいません。
どれほどの善人であっても、悪の要素の一片もない善人はいません。
同様に、どれほどの悪人であっても、善の心を全く持たない純粋無垢な悪と言う者も存在しません。
どれほど悪逆非道であっても、身内には優しかったり、仲間内には義理や人情を重要視する者も多くいます。
悪党にも悪党なりの秩序や規律があるものです。
けれども、犍陀多は同じ悪党からさえも「悪」として恐れられていました。
果たして、犍陀多は一切の善を持たない純粋な悪なのか?
それとも、表に現れていないだけでなにがしかの善を持っているのか?
気になったお釈迦様は、犍陀多の生前の行いを詳しく調べてみました。
すると、生涯にただ一度だけ善い事をしていました。
ある時、深い林の中を歩いていた犍陀多が、ふと道端に目をやると小さな蜘蛛が一匹這うように歩いていました。
小さな虫はおろか、犬でも猫でも人間でも容赦なく殺して来た犍陀多です。この時も蜘蛛を踏み殺そう足を挙げました。
しかし、何を思ったのか犍陀多は足を蜘蛛に向かって踏み下すことはなく、そのまま蜘蛛を殺さずに助けてやったのでした。
それはほんのささやかな、人が聞けば善行の内に入らないと言われそうな出来事です。
ですが、小さな蜘蛛でも一つの命を助けたことには違いありません。それは善い行いであるとお釈迦様は考えました。
そこで、お釈迦様は犍陀多を試すことにしました。
幸い、蓮池に浮かぶ蓮の葉の上には、蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけておりました。
お釈迦様はその糸をそっと手に取ると、池に浮かぶ白蓮の隙間から、遥か下の地獄の底に向かってその糸を真直ぐに降ろしました。
犍陀多の生涯唯一の善行は単なる気まぐれだったのか、それとも内なる善の表れだったのか。
お釈迦様は注意深く見守ることにしました。
地獄の底では今日も亡者たちが責め苦を行けています。
そんな亡者たちの中に犍陀多も交じっておりました。
本日の犍陀多は、血の池地獄。
濃厚な血の臭いにむせながら、血の池で溺れていました。
そうしていつものように苦しんでいた犍陀多が、ふと空を見上げると、何やら銀色に光る細い線が見えました。
意識も朦朧としていた犍陀多は、藁をも掴む思いでその銀色の光に手を伸ばし、思い切り掴みました。
その銀色に光る線が細い蜘蛛の糸であると理解したのはしばらく経ってからでした。
気が付くと犍陀多は血の池の外に出ていました。
それはとても奇妙な光景でした。
目を凝らさなければ見えないほどに細く頼りない糸が、しかし切れることなく犍陀多を支え続けているのです。
まるで犍陀多が血の池地獄の上に浮かんでいるかのようです。
血の池から出たせいでしょう、少し明瞭になった頭で犍陀多は考えます。
上を見ても真っ暗な地獄の空が広がるばかりで、自分の掴まっている糸がどこから垂れ下がって来たのか分かりません。
「ひょっとすると、この糸を登って行けば地獄から抜け出せるかもしれない。」
そう思った犍陀多は、そのまま糸をするすると登り始めました。
生前は悪党として、細い紐一本で高い塀や建物を登って侵入することはよくあり、この手の作業には慣れていました。
糸を高く高く登って行くうちに、犍陀多の頭はどんどんと冴えて行き、生前の記憶も次々に取り戻して行きました。
そして、ふと蜘蛛を助けた時のことを思い出しました。
「もしかすると、この糸はあの時の蜘蛛が恩返しをしたのかも……そんなはずはないか。」
犍陀多はその時追われる身でした。
元々悪党である犍陀多は常に追われる身でしたが、その時は悪事に失敗して多くの人に追われて窮地でした。
その逃走中に出会った小さな蜘蛛を、無意識に自分に重ねていたのです。
如何に稀代の悪党と言えど、仲間も友達もいない犍陀多は唯一人、組織的に追い詰めて来る追っ手には敵いません。
捕まれば、虫けらのように踏み潰されてしまうでしょう。
蜘蛛を助けたのは、自分が蜘蛛を踏み潰すのを止めたら、追っ手の方も自分を諦めてくれるのではないか。
そんな、ゲン担ぎにも近い思いがあったのです。
もちろん、そんな甘いことは一切なく、犍陀多はその後も必死になって逃げまわることになりました。
犍陀多は、他人を理解することができない男でした。
他者の立場に立って、それが自分の事だったらと想像することができませんでした。
その状況で他人がどう感じ何を思うかと共感することができませんでした。
生まれついての性だったのか、育った環境に何か問題があったのか、それは分かりません。
ただ、他人を理解できない犍陀多にとって、世界は自分一人だけでした。
他人を理解できないが故に、自分以外の基準が無かったのです。
だから、自分にとって善い事が善であり、自分にとって正しい事だけが正義だったのです。
一人きり故の独善。
それが犍陀多の世界でした。
その犍陀多が始めて他の存在に自分を重ねたのが、蜘蛛を助けた出来事とだったのです。
その時は追っ手から逃げるのに必死だったためにすぐに忘れてしまいましたが、犍陀多は今になってはっきりと思い出しました。
そして、自分の行った悪行の数々も鮮明に思い出していました。
それらは自分のために行った自分だけの善行でした。
けれども、他人の立場に立って考えることを覚えた今、それらはとんでもない悪行であることは明白です。
「俺は何と酷いことをしてきたのだろう。」
犍陀多は糸を登ることを中断して考え込んでしまいました。
そう、犍陀多は初めて自分の罪を自覚し、深く反省したのでした。
生前どれほど人から諭されようとも、死後どれほど地獄の責め苦を受けようとも改心することの無かった犍陀多が、今自ら罪を認めて後悔し、反省しています。
それだけではありません。
犍陀多は自分が生前苦しんでいた理由も理解しました。
そう、悪の権化として傍若無人に振舞っていると思われていた犍陀多ですが、人並み以上に悩みを抱えていました。
友達がいない、仲間もいない。世間の評価は悪くなるばかりで、人からは嫌われる。
犍陀多も好き好んで悪党をやっていたわけではありません。
人として他者から認められたいし、嫌われるよりも好かれたいと思っていました。
けれども、犍陀多が頑張って「善い事」「正しい事」を行うほど、人からは嫌われ、社会からつまはじきにされます。
自身の認識と社会とのずれが犍陀多を苦しめ続けました。
犍陀多にとって、世界は理不尽で恐ろしいものでした。
人を悩ませ苦しめるものを煩悩と呼びます。
犍陀多にとって最大の煩悩は理不尽な世界に対する恐れと怒りでした。
しかし、世界と自分自身を理解した今、その恐れも怒りも無くなりました。
世界は理不尽ではなく、自分は対応を間違っただけ。そうと分かれば怒りも恐れも必要ありません。
そうして煩悩が消え去った犍陀多は、悟りを開きました。
このまま糸を登り続けて行けば地獄から抜け出せるばかりか解脱を果たして極楽へ至ることもできる、犍陀多はそのことが分かりました。
下を見れば、広大に思えた血の池はもう豆粒よりも小さく見え、高かかった針の山もすでに足のずっと下にあります。
ここまで高く登れたのも、煩悩という重荷を捨て去って身軽になったからにほかなりません。
このまま糸を登るうちにさらに煩悩が消え去り、どこまでも高く登り続けることができるでしょう。
けれども、犍陀多にはまだ迷いがありました。
悟りを開いたと言っても、全ての煩悩を消し去って完全に悟りきったということではありません。
「あれだけ悪事を働いた俺が、一人だけ救われてしまってよいものだろうか。」
地獄では数多くの亡者たちが責め苦を受け続けています。彼らは犍陀多よりもずっと罪が軽い者達ばかりです。
地獄の亡者たちには互いに仲間意識などと言うものはありません。自分が苦しんでいる時に他人を気遣う余裕などありません。
けれども、他者に共感することを覚えた犍陀多には、彼らも自分と同じように何かを間違えただけではないかと思えました。
ただ、犍陀多が彼らにしてやれることなど何もありません。
犍陀多が悟った内容を語って聞かせても、亡者たちは救われません。
煩悩は人それぞれ、自分で悟らなければ意味はありません。
少し前の時分と同じくなぜ自分が苦しんでいるのかすら分かっていない亡者たちが哀れに思えて、犍陀多はもう一度足下の地獄を眺めました。
すると、何か動いたような気がして、犍陀多は目を凝らしました。
地獄の底から既に相当な高さまで登っており、小さすぎて何がどうなっているのか分かりません。
それでもめげずにじっと目を凝らしていると、少しずつ地獄の底で蠢くものが見えてきました。
それは亡者の群れでした。
地獄の亡者たちが群れを成して移動しているのです。それがまるで大きな生き物が蠢いているように見えました。
亡者たち押し合い圧し合い向かう先は、ちょうど犍陀多の真下のように見えました。
そこには血の池地獄があるだけなのに何故……と疑問に思った犍陀多でしたが、はたと気が付きました。
「あいつら、この糸を伝って地獄から抜けようとしているのか!」
犍陀多が高い位置から地獄を一望できるように、高く上がった犍陀多のことは地獄のどこからでも見えます。
そして、何としても地獄から抜け出したい亡者たちが、空へと逃げた犍陀多を追って集まって来たのでした。
血の池は溢れる亡者で埋め尽くされ、目ざとく銀色の糸を見つけた亡者たちが奪い合うように群がり、よじ登って行くのです。
そのことに気付いた犍陀多は、思わず叫んでいました。
「止めろー、この糸は俺用の物だ、お前たちは登って来るなー!」
犍陀多がこの銀色の蜘蛛の糸を登ることで悟りを開くことができたのは、生前に蜘蛛を助けたという縁があったからです。
他の者では闇雲に登っても煩悩は消えません。
そもそも重い煩悩を背負ったままでは糸を登ることも一苦労です。
それで力尽きて落ちればまだよい方で、最悪何処にも行き着くことなく永遠に闇の中を彷徨うことになります。
解脱を果たさなければ、幾ら登っても浄土には届かないのです。
そのことを理解した犍陀多は必死になって叫びますが、救われたい一心の亡者たちには届きません。
目先の事しか考えられないから地獄に落ちたような者達です。何を言っても聞きません。
そうと知った犍陀多は、意を決しました。
自分の掴まっている糸に手をかけ、捻じ切るように捻ります。
これまで犍陀多が登ろうとも、無数の亡者がしがみつこうともびくともしなかった糸が、たったそれだけでプツンと切れました。
そして、糸に群がった亡者たちは犍陀多諸共再び地獄へ落ちて行ったのでした。
極楽浄土の蓮池の淵に立って一部始終を見ていたお釈迦様は、一つ溜息を吐きました。
それは、犍陀多を思っての事ではありませんでした。
地獄に落ちて行った犍陀多については何の心配もしていません。
悪だけの人間ではなく、その内にはちゃんと善の心を持っていたことを確認することができました。
それに、蜘蛛の糸の導き一つで多少なりとも悟りを開くことができたのです。
地獄の刑期を終えて輪廻転生を繰り返せば、いずれは涅槃へとたどり着くことでしょう。
お釈迦様の気にしていたことはただ一つ。
「人を救いたいという気持ちもまた、煩悩でしたか。」
お釈迦様は少し悲しそうな顔でそう言うと、蓮池を離れて行ったのでした。
原作を読み直そうと思い、青空文庫で読んでみたところ、カンダタの「カン」の字(犍)が画像になっていました。
JIS漢字コードの第二水準までには含まれない文字のようです。
ついでに「犍」と言う漢字に「カン」と言う読みは無いそうで、当て字のようです。
芥川龍之介作「蜘蛛の糸」のさらに元ネタがありそうな気がしますが、そこまでは調べていません。
本作では、話の流れ自体は原作とだいたい同じですが、カンダタとお釈迦様の心情を少し変更してあります。
何処をどう変えたか詳しく知りたい人は、原作と読み比べてみてください。
話の流れは同じでも、だいぶ印象の違う話になったと思います。




