声を持たぬ奴隷が怪物になるまで そして…
その日、僕は怪物に出会った。
「へへへ、大漁ですねボス」
「ああ、愛玩奴隷とは運がいい」
目の前で、馬車を襲撃した盗賊達が楽しげに語らう。
横を見れば彼らに斬り殺された奴隷商人とその護衛達の亡骸が転がっており、背後には僕と同じように馬車から引き出された女子供の奴隷達が怯えた様子で周囲を窺っていた。
「だが、少し数が多すぎるな。女ならいざ知らず、男のガキなんざ使い道がねぇ」
「ですね。運ぶのも手間ですし、ここで数を減らしときますか?」
盗賊の1人がそう言った途端、周囲の男の子達が一斉に声を上げた。
「いやだ、殺さないで!」
「役に立ちます! 雑用でもなんでもします! だから、だから──」
「死にたくない! 死にたくないよぉ」
口々に命乞いをする子供達。しかし、盗賊達はその悲鳴すらも愉しむかのように、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべている。
その中にあって、僕は……1人、ただ地面に座り込んでいた。
自分の生き死ににそれほど頓着がなかったというのもあるが、単純に、僕は声が出せなかったのだ。
前の主人に声色が気に入らないという理由で喉を潰された僕は、それ以来声を出すことが出来なくなっていた。
しかし、盗賊達はそんな僕の様子が気に入らなかったらしい。乱暴に僕の腕を掴み上げると、剣をちらつかせながら怒号を上げた。
「おいこらガキィ! テメェ、なんだそのツラは。状況分かってんのか? ほら、他の奴らみたいにピーピー鳴いてみろよ!」
そうは言われても、悲鳴すら上げられないのだからどうしようもない。
黙って男を見上げていると、苛立った男が剣を振り上げた。
(あ、死ぬ)
僕は、それを他人事のように予感した。
男の顔が愉悦に歪み、背後で女子供の悲鳴が上がり──
「死ねやぁ!!」
そう叫ぶと同時に振り下ろされた男の右腕が……半ばから吹き飛んだ。
「は?」
「……?」
男が自分の腕があった場所を呆然と眺める。
誰も状況が正しく認識できず、声も出せない。
しかし次の瞬間、大型獣に食い千切られたかのような荒々しい断面からドッと血が吹き出し、男の表情が苦痛と恐怖に引き歪んだ。
「ギィヤァァァーーー!! う、腕! 俺の、腕が──」
聞くに耐えない絶叫を上げていた男の口が、その上の頭ごと吹き飛んだ。
僕の顔に鮮血が降り注ぎ、一瞬にして顎から上を失った男がドチャリと地面に倒れ伏す。
その男の背後に──僕は見た。その身に着けたシンプルなドレスのスカートの裾から、数十に及ぶ長虫状の捕食器官を伸ばす少女。美しく、悍ましい怪物を。
「は、廃都の怪物……」
そう言ったのは誰だったのか。
一拍後、一部の盗賊は怒声を上げながら怪物へと向かっていき、他の盗賊と奴隷達は、口々に悲鳴を上げながら逃げ散り始めた。
しかし、どちらも運命は同じだった。早いか遅いかの違いでしかない。
まず怪物に立ち向かった男達が一瞬にして肉塊になり、逃げた者も悲鳴を上げた者から順に食い散らかされた。
蹂躙。そうとしか言えないような一瞬の殺戮劇。
その中にあって、僕は……まるで魅入られたかのように、ただこちらに近付く怪物を見上げていた。
目を覆うような惨状の中を、まるでその場を支配する女王のように堂々と闊歩する怪物から、不思議と目を逸らせなかった。
(なんて、美しいんだろう)
そんな、我ながら場違いな感想が脳裏に浮かんだ。しかし、それは紛れもない僕の本心だった。
なんて背徳的で、倒錯的で、冒涜的な怪物なのだろう。こんな美しい生き物は今まで見たことがない。
怪物は周囲の人だった物に捕食器官を突き立て、その肉を食らいながら、呆然と地面にへたり込む僕に近付く。
そして、その無機質な瞳が至近距離で僕を覗き込んだ。
(死ぬ、のか)
他の人間と同じように。しかし、恐怖はない。
あんな薄汚い男に腹いせに殺されるくらいなら、この美しい怪物に食い殺される方が万倍マシだ。
しかし、そんな僕の思いに反して、怪物は興味なさげに僕から視線を逸らすと、街道脇の森の方へと悠然と歩き去ってしまった。
予想外の事態にしばらくその場で放心してから、僕は慌ててその怪物の後を追った。
自分でも、どうしてそんなことをしてるのかは分からない。冷静に考えれば、追い付いたところで殺される可能性の方がずっと高いし、そもそも追う理由なんてないはずだ。
しかし、そんな自分の中の冷静な部分を無視して、足は動く。地面に残されたわずかな痕跡を頼りに、ただひたすらに進み続ける。
そうして辿り着いたのは、正に"廃都"という言葉が相応しい荒廃した都市だった。
町を囲む外壁はところどころ崩落し、見える範囲の建物全てが激しく傷み、損傷していた。
崩れた外壁を乗り越えて町の中に入ると、その荒廃した印象はますます強まった。
道のあちこちに、嵐で飛ばされたらしいレンガの欠片や赤茶けた看板が転がり、中には庭の草木に半ば飲み込まれている家もあった。
(これが、あの怪物が住まう廃都……)
小さい頃、おとぎ話で聞いたことがある。
今から200年前、たくさんの人を殺して王都を乗っ取った怪物の話。まさか、実在するとは思わなかったが……。
(……ん?)
その時、どこからか笛の音が聞こえた。
笛の音など、お祭りで大道芸人が吹いているのしか聞いたことがないし、今聞こえているのはそれとは比べ物にならないほど美しい旋律だったが、笛の音であることは確かだと思う。
(こっちだ……)
僕はその音に釣られるように、音の聞こえる方へと足を進めた。
そうして辿り着いた屋敷の一室に、怪物はいた。窓の向こうで、横笛を吹いている姿が見える。その姿は、一見音楽を嗜む令嬢にしか見えない。
(美しい……なんて、美しいんだ……)
門の外に立ち尽くしたまま、僕はその旋律に耳を傾けた。
音楽に関する造詣はないが、この旋律がとても素晴らしいことは分かる。時に繊細に、時に勇壮に鳴り響くその音色が、ひどく胸に響いて涙が出そうになった。
その時、不意に笛の音が止まった。
耳に全神経を集中するために閉じていた目を開き、視線を上げると、窓からこちらを見下ろす怪物と目があった。
蛇に睨まれた蛙というのは、こういう気分なのだろうか。身動ぎ1つ出来ずに硬直する僕に対し、しかし怪物は興味なさげに視線を逸らすと、また笛の音を奏で始めた。
そのことで大胆になった僕は、錆び付いた門を通り抜け、荒れ果てた庭を抜けると、屋敷の中へと侵入した。
屋敷の中も、他の家ほどではないが、やはりあちこちが傷んでいた。窓はほとんど割れているし、ところどころ雨漏りをした形跡もある。壁に点々と残る黒いシミは、まさか血痕だろうか?
しかし、怪物がいる部屋に近付くと、それも多少マシになった。
そうして辿り着いた扉の前で、僕は1つ深呼吸をして覚悟を決めると、文字通り決死の思いで扉を開いた。
開いた扉の向こうは、女性にしては飾り気のない部屋だった。
ベッドやクローゼットといった最低限の家具の他には、壁に飾られている剣と横笛くらいしかない。それらも、頻繁に手入れされているらしい笛以外は、どれも古びて傷んでいた。
そんな部屋の中で、場違いな存在感を放つ存在。廃都の怪物が、じっとこちらを見詰めていた。その視線に、またしても体が竦む。本能的な危機感に全身の筋肉が硬直し、指1本動かせない。
息が詰まるような沈黙がどれくらい続いただろうか。
怪物がふっと僕から視線を逸らし、僕はようやく、自分が本当に息を止めていたことに気付いた。
その場にへたり込んで荒々しく息をする僕に、しかし怪物はもう完全に興味を失ったらしく、再びその手に持った笛を演奏し始めた。それを、僕はただずっと聴き続けていた。
その笛の音が止まった頃。気付くともう辺りは暗くなっており、怪物はその手に持った横笛を壁に掛けると、部屋の入り口に居座っている僕になど見向きもせずにベッドに入り、やがて静かに寝息を立て始めた。
(えっと……僕はどうしたらいいんだろう?)
事ここに至って、僕は今更そんなことを考えていた。
怪物は、僕を殺さなかった。ということは、ここにいることを黙認してもらえた、ということなのだろうか……? ……どちらにせよ、奴隷の刺青を入れられている僕に、行くところなんてない。なら、僕は……
その日から、僕と怪物の奇妙な同居生活(?)が始まった。
僕は怪物の隣の部屋で寝泊まりをし、廃都中からまだ使えそうなものや食べられそうなものを掻き集めつつ、少しずつ屋敷の手入れを行うようになった。
怪物の部屋と自分の部屋を中心に掃除と修繕をし、集めた食料が尽きる前に自給自足が出来るよう、庭に小さな畑を作った。勝手に住み着いた居候の身だったが、やっていることは完全に使用人のそれだった。もっとも、怪物からすると、僕なんて自分の住処に勝手に棲みついたネズミか何かくらいにしか思われていないのかもしれないが……。
そうやって、だいぶ新しい生活に慣れ始めた頃のことだった。
その日、部屋の掃除をしようと怪物の部屋を訪ねると、怪物は部屋におらず、開け放たれた窓から寒風が吹き込んでいた。
怪物は、数日に一度狩りに出かける。
実際に狩りの様子を見たわけではないが、帰ってくる時に服が返り血で汚れているので、やはり狩りなのだと思う。何を狩っているのかまでは分からないし、あえて知ろうとも思わないが……。
とにかく、部屋の主が不在ならその方がいい。
もう何回もやっていることだが、怪物がいる状態で部屋の掃除をするのはやはり緊張してしまうのだ。何か粗相があったら喰われるんじゃないかと……実際は、ちょろちょろ動き回る僕のことなんか見向きもせずに笛を吹き続けているのだが。
(ん……これは……)
乱れたベッドを整えた時、枕元に横笛が1本転がっていることに気付いた。
(またこんなところに出しっ放しに……壁に掛け直しておかないと)
そう思ってその笛を手に取った時、僕の中で抑えがたい好奇心が湧き上がった。それは、ここに来た頃から少しずつ胸の中に蓄積されていたものだ。
怪物の手前抑え込んでいたそれが、その当人の不在という状況で一気に弾けた。
(……)
一度部屋の中を見回し、窓の外も確認して、怪物がいないことを確かめる。気分は、さながら主人のいぬ間に厨房の料理をつまみ食いする下働きの気分だ。
念入りに怪物の不在を確認してから、手に持った横笛に恐る恐る口を付ける。そして、ゆっくりと息を吸い込み……
ピヒョーー!
響いた素っ頓狂な音に、自分で面食らう。
きちんとした楽器に触れるのはこれが初めてだが、これはヒドイ。音楽になっていないを通り越してただただ耳障りだ。
(違う、こうじゃない。怪物はたしか……)
プヒーー!
(あれ? ダメか……じゃあもっと吹き込む息を細くして……)
そうやってあれこれ苦心している内に、すっかり夢中になっていた。
そのことに、僕は背後で響いた窓が開く音で気付いた。
振り返ると、そこに怪物がいた。
相も変わらず無機質な瞳で、じっとこちらを見ている。その視線と、スカートの裾に付いた返り血に、久しぶりに体が竦んだ。
(ヤバイ、殺される!!)
そう思っても、足は動かない。
その場で固まる僕を、怪物はじっと見詰め……不意に笛が掛けられている壁の方に向かうと、その中から一番小さな笛を手に取った。
そしてこちらに近付いて来ると、それを僕に向かって突き出し……差し出した?
(え? どういうこと?)
反射的にそれを受け取ってしまってから、怪物の思わぬ行動に混乱する。なにせ、怪物が僕に対して何かをするというのは、これが初めてのことだったからだ。
呆然とする僕の手から長い方の笛を抜き取ると、怪物はいつも通り窓際に座ってそれを吹き始めた。
同じ笛を使っているはずなのに、やはり出る音が全然違う。あるいはあれは、怪物にしか吹けない笛なんじゃないかと疑ってしまうほどに違う。
(でも、これを僕に渡したってことは……これなら僕にも吹けるってことだよね?)
その日は、ただ笛の音を聴くだけでなく、その指運び、息の送り込み方をつぶさに観察した。
そして、その後で吹いた小さな横笛は、先程よりは多少マシな音が出た気がした。
それから、僕の日々の仕事に横笛の練習が加わった。
掃除や畑の手入れの合間を縫っては、怪物が吹いていた様子を思い出しながら練習を繰り返した。
そして数ヶ月後、ようやくいつも怪物が吹いている曲をそれなりに演奏出来るようになった頃、僕にとって運命的な瞬間が訪れた。その日を境に、僕の中の何かが決定的に変わったのだ。
「ゾウヂャ」
その声は、突然響いた。
それは、まるで鳥か何かが人間の声真似をしているかのような……いや、それ以上に歪な響きの音だった。しかし、それは紛れもなく怪物の口から放たれた声だった。
(え……うそ、しゃべれるの!?)
僕が言えたことではないが、それが僕の素直な感想だった。
なんだかんだもう1年近く一緒にいるが、その間一度も声を発したことがなかったのだから、これも無理ないことだろう。
しかし、その後も怪物は同じ「ゾウヂャ」という言葉だけを繰り返し言い続けた。そして数日後、僕はどうやらそれが僕を呼んでいる言葉らしいということに気付いた。
そう気付いた瞬間、得も言われぬ甘美な衝撃が全身を貫いた。
僕は自分の名前を知らない。自分の両親の顔すら知らない。
物心ついた頃には奴隷商に番号で呼ばれ、買われた主人にはその時々で適当な名で呼ばれた。だから、僕は自分の名前と呼べるものを持っていなかった。その時までは。
ゾウヂャ、それが僕の名前。
怪物が僕に……僕だけに与えてくれた呼び名。
いや、怪物なんて呼び方は失礼だ。この方は僕の主、僕だけのご主人様なのだ。
そうだ、これからはこの方を姫様と呼ぼう。その方が怪物なんて呼び方よりもよっぽどこの方に相応しい。声には出せずとも、この方は僕にとっての姫様。そして僕は姫様の奴隷。姫様だけの、唯一の奴隷。
その日、僕の中の何かが決定的に変わった。そして、僕の日々の仕事に新たな仕事が加わった。
「ふむ……この先に君の仲間がいるのかね?」
「……(コクッ)」
「そうか。いや、心配することはない。私がしっかりと君のお仲間を保護してあげよう」
そう言って気遣いに満ちた笑みを浮かべる恰幅のいい商人。だが、その瞳の奥には隠し切れない欲望の光がギラついている。最初に馬車の前に飛び出した僕を見た時と同じ光だ。
その後、身振り手振りと口パクで他の仲間が近くに隠れていることを伝えるとその光は奥に引っ込んだが、輝き自体はますます強くなっている。
(まあ、それはしっかりと保護するだろうな。大事な商品だし)
御者台に座る商人の横で方向を指で示しながら、僕はそんな冷めたことを考えていた。
それからしばらくして、馬で並走していた護衛の1人が商人に声を掛けてきた。
「旦那、これ以上はマズいですぜ。この先には廃都がある」
「廃都? 構わん、このまま進むぞ」
「しかし旦那、俺らの間じゃあ、廃都に近付いちゃならないってのは誰でも知ってることで……」
「廃都の怪物とやらか? ふんっ! あんなものは200年も前の話だろう。真偽も定かではない噂話に惑わされ、貴重な奴れ……人命を無視するわけにはいかん」
「しかし……」
「分かった分かった、報酬に色はつけてやる。いいから行くぞ!」
「……へい」
護衛の人は危険性に気付いているようだが、依頼主には逆らえなかったようだ。普通、専門家が危険だと言っているなら、素人は黙って従うべきだと思うんだけど……ま、餌で釣って嵌めようとしてる僕が言えたことじゃないけどね。
それに、どちらにせよもう遅いし。
僕はそっと服の中に隠していた笛を取り出すと、ひょうと軽く吹いた。
「おっ!? な、なんだいきなり……」
「おい坊主! 退屈かも知れんが、こんなところで大きな音を──」
そこまで言ったところで、護衛の男が何かに引っ張られて上に消えた。そして一瞬後、馬車の上から血飛沫が雨のように降り注ぐ。
当然、僕が服が汚れるのが嫌なので一足先に馬車の中に避難している。
そのまま馬車の中で短い曲を1曲演奏している間に、外から聞こえる絶叫と咀嚼音は消えた。そして、馬車の幌を持ち上げて姫様が顔を出す。
「ゾウヂャ」
僕を呼ぶその声に、満面の笑みで応える。
労いの言葉を掛けられるわけでも、よくやったと頭を撫でられるわけでもない。ただ、名前を呼ばれるだけ。けれど、それだけで十分だった。
これが、僕の新たな仕事。
自分を餌に、姫様の獲物を釣り上げること。
姫様は普通の野生動物も食べるが、やはり人間の方が栄養があって好みらしい。でも、廃都の近くにほとんど人は立ち寄らず、姫様もあまり廃都からは離れたがらない。
だから、僕が廃都の近くまで獲物を連れて来ることにした。
時には行商人、時には野盗、またある時には農夫らしき夫婦を釣ったこともあった。
優しげでふくよかなおばさんは、しきりに僕の喉元の傷痕を撫でながら、「可哀想に」とか「もう大丈夫よ。うちで面倒を見てあげますからね」とか言っていたが、特に僕の心は動かなかった。
ただぼんやりと、「姫様は柔らかくて食べ応えのある女の人は好きかな?」なんてことを考えていた。そして、なんの躊躇いもなく笛を吹き、なんの感慨もなく夫婦が肉塊になるのを眺めていた。
そんなことを何年も続けている内に、僕はだんだん人間の区別が付かなくなってきた。
老いも若いも、男も女も関係ない。だってどれもただの肉塊じゃないか。
……こんな風に思う僕は、きっともう人間ではないのだろう。体は人間でも、心は怪物になってしまった。
でも、それでもいい。たとえ心だけでも姫様に近付けるなら、その方がずっといい。
僕はゾウヂャ。
姫様の奴隷であり、人の形をした小さな怪物だ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日、怪物は小さな肉塊に出会った。
狩りの最中、血の匂いに誘われて行った場所で、複数の肉塊が群れているのを発見した。
とりあえず手前にいた一際大きな肉塊を狩ったら、他の肉塊が耳障りな音を立てながら暴れ始めたので、片っ端から黙らせた。
そうして静かになった狩場で、1つだけまだ生きている肉塊がいた。
その小さな肉塊を見逃したのは、特に深く考えてのことではなかった。
ただ、その肉塊は耳障りな音を立てなかったし、その時はたくさんの獲物で十分に腹が膨れていたから、わざわざ狩る必要もないだろうと思ったのだ。
すると、なぜかその小さな肉塊が棲家を訪ねてきた。
しかも、何を思ったのかそのまま住み着いてしまった。
それでも、怪物はその肉塊を食わなかった。
騒がしくしないなら、非常食替わりに置いておいてもいいかと思ったのだ。
しかし、その肉塊は怪物が思ったよりも便利だった。
毎日ちょろちょろと動き回って棲家を綺麗にしてくれるし、笛を吹くとじっと側で聴いてくれる。
それがなんとなく心地よく、怪物は狩りが上手くいかなかった日も、この小さな肉塊を食うことはなかった。
ある日狩りから帰ると、肉塊が横笛を吹こうとしていた。
だが、その笛は肉塊には長過ぎ、まともに音を出せていなかった。
だから、怪物は肉塊の大きさに合った笛を1本渡してやった。別に大したことではない。ただ、それまで静かだった肉塊が、聞くに耐えない音を発するのが我慢ならなかっただけだった。
それからしばらくして、肉塊がまともに笛を吹けるようになってきた。
まだ少し拙いが、それはたしかに、いつも怪物が吹いている曲だった。
それを聴いて、怪物の中に今までなかった感情が芽生えた。それまでただ特殊な存在であると認識していたこの小さな肉塊が、特別な存在だということを認識した。
特別な肉塊なら、他の肉塊と区別をしなければならないだろう。
そう考え、怪物はこの特別な肉塊の呼び名を考え……思い付いたのは、なんの捻りもない呼び名だった。
「奏者」
ただの、役割を示しただけの名称。
奏者本人にとって、それがどれだけ特別なことだったのか、怪物は気付いていなかった。だから、特にそれまでと対応が変わるということもなかった。
ただ、奏者に覚えさせるために新しい曲を吹こうと思い、いつも吹いているのとは違う曲を200年ぶりに吹いた。
それが、かつて1人の少女が愛する家族に捧げた曲だということにも、怪物は気付いていなかった。
それから、奏者はますます便利な存在になった。
笛の音で怪物の耳を楽しませ、狩り場に獲物を連れ込んでくれる。
年を経るごとに奏者は大きく、食べ応えがありそうになっていったが、怪物はもう奏者を食おうとは思わなくなっていた。
ある日、怪物は奏者が小さくなっていることに気付いた。
日に日に食べるところが減っていき、動きも鈍くなっていく。最近は突然ゴホゴホと妙な音を発することが多くなり、笛の演奏も途切れがちになってきた。
そして、だんだん室内で過ごす時間が増え、狩りの手伝いも出来なくなっていった。
── あれはもう役に立たない。さっさと喰ってしまえ。
ほとんど寝床から動かなくなってしまった奏者に、怪物の中で何かが囁いた。
しかし、怪物は奏者を食べなかった。奏者が狩りの手伝いを出来なくなってから、怪物はずっと狩りをしていなかった。
怪物は飢えていた。だが、怪物は狩りに出ることもなく、ただ奏者の側に居続けた。日中はその側で笛を吹き、夜は浅い微睡の中を漂いながら、じっとその寝姿を見守り続けた。
自分がなぜ奏者を食わないのか、なぜ不快な音を発するようになった奏者の側にいるのか、怪物は分からなかった。自分の内側からその声が聞こえるまで、疑問を抱くことすらなかった。
その声を聞いて初めて、怪物は自分の行動に疑問を抱いた。しかし、それでも怪物は自分の行動を変えることはなかった。
そして、そんな生活をしばらく続けたある日、突然怪物の長虫状の捕食器官が、1本ボトッと根元から抜け落ちた。
長きに渡る飢餓状態で、遂に今の体を維持出来なくなったのだ。このままではどんどんと捕食器官が減り、いずれ狩りが出来ない体になってしまうことを、怪物は直感した。
── 何をしてる。早くあれを喰え。そして肉を狩りに行くのだ。
飢餓状態が長くなるにつれ、何かの声はますます強く聞こえるようになっていた。
しかし、怪物は抜け落ちた自分の捕食器官を無機質な目でじっと見詰めた後、寝床で眠る奏者に気付かれないよう、そっとそれを窓の外に捨てた。そして、何事もなかったように椅子に戻ると、静かに奏者を見守り続けた。
それからまたしばらく経ったある日、怪物はふと笛を吹いていた指を止めた。
そして寝床の上の、すっかり小さく、ほとんど食べるところがなくなってしまった奏者をじっと見詰めて囁いた。
「死ぬのか? 奏者」
その言葉に、奏者はそっと骨と皮しか残っていない腕を持ち上げることで応えた。
そして、その指先が怪物の頰に微かに触れ……力無く落ちた。
それが、70年もの時を共に過ごした怪物と奏者が触れ合った最初で最後の瞬間だった。
動かなくなった奏者を、怪物はただじっと見詰め続けた。
既に飢餓感は耐え難いほどに強く、何かの声は意識を保つのが困難なほどに激しくなっていた。
しかし、怪物は奏者の亡骸を喰うことも、別の肉を狩りに出ることもなかった。満腹感以外の何かでお腹がいっぱいになってしまって、何も食べる気にならなかったのだ。
やがて、怪物はいつものように横笛を口に当てると、新しい曲を奏で始めた。
時に語りかけるように優しく、時に泣くように悲しげに響くその音色を聞く者も、それに応える者も最早誰1人としていない。
その曲は昼夜を問わず廃都に流れ続け、やがて怪物の最後の捕食器官が抜け落ちると共に、その音色も途絶えた。
そして、少女は静かに眠りに就いた。そして、もう二度と目覚めることはなかった。
それから長い月日が流れ、ある時1人の旅人が廃都に立ち寄ったことをきっかけに、廃都の怪物が姿を消したことが人々に知れ渡った。
その後、王国によって複数回に渡る調査が行われ、廃都の怪物がいなくなったことが確認された。その際、とある屋敷で発見された寄り添い合うように眠る2つの亡骸は、旅の夫婦のものだと判断され、1つの墓に埋葬された。
その数ヶ月後、廃都はとある騎士を男爵に取り立てる際にその領土として下賜され、その男爵家の下で復興を果たすこととなる。
ところが数年後、都市内で謎の伝染病が蔓延したことを機に、周囲の町から侵攻を受けるようになり、男爵家は王国から独立。周囲の町に逆侵攻を掛けて瞬く間に領土を拡大し、廃都は約300年ぶりに王都の名を冠することとなった。
「報告は以上です、陛下」
「ご苦労、下がっていいわよ」
「はっ、失礼します」
文官を見送った後、ふっと肩の力を抜いた少女に、執事服を着た初老の男性が声を掛けた。
「お疲れですか? 姫様」
「少しね。まったく、どこもかしこも反乱ばかりでうんざりするわ」
「致し方ありません。急激な領土の拡大に反乱は付き物です。しばらくは休戦し、領土を安定させることに注力しては?」
「そうは言っても、向こうから勝手に攻めてくるじゃない。挑まれた戦いから逃げるのは、騎士の誇りを汚す行為だわ」
「いえ……姫様は騎士ではないでしょう?」
「……まあ、そうだけれど……って、お客さんかしら?」
「の、ようですね」
その瞬間、窓の外と天井裏から、2つの黒い影が刃物を振りかざしながら部屋に飛び込んで来て……それぞれ執事服の袖とスカートの裾から伸びた長虫状の捕食器官に貫かれ、血飛沫を撒き散らした。
「はあ……ほんっとに何回も何回も……いい加減無駄だって分からないのかしら?」
「さて……? 肉塊共の考えは分かりませんな」
「あ〜あ、部屋が汚れてしまったわ。ま、ちょうど出るところだけれど。次は謁見の間よね?」
「はい、お次は謁見の間にて、わたくしの後任となる奏者の選別です」
「……ところで、この国ではどうして王の側近のことを奏者と言うのかしら?」
「はて、わたくしも詳しいことは存じ上げませんが……元々は宰相というのも料理人という意味ですし、そういうものなのでは?」
「ふぅん、そう。ま、いいけれど」
そして、2体の怪物は部屋を出て行った。
彼らが棲まうかつての廃都は、現在人々の間で魔都と呼ばれている。