一話
「一分間だ。一分間だけ時間をやろう」
僅かに隙間より差し込む光が、薄暗い通路を心もとなく照らしていた。
狭くじめじめしたその通路を、一匹の鼠が横切る。
まるで何かの危険を感じ取ったかのように、続けて数匹の鼠も後をつけて逃げて行った。
立つのは一人の大男、そして彼に対峙する二人の―――青年だ。
片方の黄髪の青年は酷く息を切らし、その口元からは血が滴っている。だがそれと同時に、彼の口元は余裕があるかのような笑みを残していた。
もう片方の黒髪の青年は表情を硬くし、そこで起こる一挙一動に素早く対応するために、視線をせわしなく動かしている。
「一分間、お前たちが立っていることができたのならば、その提案を聞いてやろう」
大男の声が重く青年たちの肩に圧し掛かる。大声ではないはずだが、その言葉は確かな音圧をもって廊下中に響き渡った。
「おいおい、本当にそれだけでいいのかよ。後から延長はなしだぜ」
黄髪の青年の飄々とした言いように、大男は顔の彫を深くし、答える。
「・・・随分と余裕だな。残念だが医療費は一銭たりとも払う気はないぞ。最も、一分後に貴様らが生きていればの話だが」
「医療費どころか葬式代もいらねぇよ。俺は本気でやりてぇンだ」
黄髪の青年が揚揚と闘志を奮わせる一方、もう片方の黒髪の青年は「余計な事するなよ」と言わんばかりに双眸を手で押さえた。
「じゃあ・・・はじめようぜ」
青年たちは揃って戦闘の構えを取る。彼らは口合わせもそこそこに、闘いを始める様子だ。
向かって大男は、両手を下し、自然体の立ち姿のままである。
「おいおい、闘いの前だってのにそンな構えでいいのか?」
「闘い、だと・・・?」
大男は眉を歪ませ、その言葉に疑問を示した。
「闘いにならない物に構えなど必要ないだろう。・・・勘違いするなよ。今から始まるのは一方的な蹂躙だ。決して闘いなどと呼べる代物では、ない。」
そう言い放ち、大男は一歩ずつ、一歩ずつ、青年たちに向かい歩を進める。
「ヒュー、やっぱりクソおっそろしいわ、お前の親父」黄髪が含み笑いを込めて呟く。
「だろ?よくあの家で17年間も生きてこられたよ」黒髪も呆れたようにに笑って返す。
先ほどから絶え間なく背中に現れる鳥肌・・・これは武者震いだろうか・・・それとも・・・・・・
「さあやってやろうぜ相棒・・・俺たちの未来のために」
相棒と呼ばれた黒髪の青年は、コクリとうなずき、大男・・・もとい彼の父親と対峙した。
なんだってやってやる。あの子の・・・未来のために。
勇ましい雄たけびの直後、彼らの決死の抵抗が始まった。
生きがいという言葉がある。
つまり、これは人間が生きていくために必要な支えとなる、目標や心の張り合いの事を指す言葉である。
だが仮にその生きがいを一切持っていない人間がいるとしよう。
果たして、その人間は生きていると言えるのだろうか。生命活動云々関係なく、文化的な生物「ヒト」として産まれてきた以上、毎日喰って寝るだけを繰り返すその生き物は生きていると言えるのだろうか。
少なくとも周囲からの評価は「なぜ生きているのか分からない」或いは「生ける屍」とかその辺りだろう。
最も、その人間を評価する人物がいればの話だが・・・・。
そしてこれは高校二回目の夏休みを迎え、とある理由により生きがいを失い、「生ける屍」ライフを送っていたある男―――堀田 稔に起きた異変の物語。
このご時世、年頃の男子高校生が突然学校に行かなくなるという話を聞く機会は多い事だろう。いじめ、友人との喧嘩、友人関係、部活でのいざこざ・・・・
理由が何であれ、そういった類の出来事はよく起こりうるし、耳にしたところで「ふーん、そうなんだ」程度で聞き流すのがこの時代である。そしてまた、不登校気味の男子高校生がここに一人。そう、稔だ。
毎日低血圧に頭を抱えながら登校し、誰とも会話することなく帰宅する毎日。
放課後の学生と言えば、部活動で鍛錬に励み、図書室で書物をあさり、マックで談笑をし、或いは恋人と特別な時間を過ごす者もいる。というのが世間一般の人間のイメージであろう。
稔もかつてはそれとさして変わらない生活をしていたといえよう。
だが今は違う。彼の放課後と言えば躊躇なきままの帰宅。
彼はもともと、そこそこに整った容姿をしていた。
クラスの上流階級に誘われたり、クラスのマドンナ的な存在に心中を明かされることも多々あったが、彼はそれを全て持ち前の鋭い目つきと、尖った態度で一蹴していた。
クラス中からカラオケに誘われようと断り、女生徒から屋上に呼び出されようが無視し、ただひたすら家に向かい歩を進める。
家路を辿る、迷いなき美しい一直線は見るものを圧倒し、感服させることだろう。
正に帰宅部の真骨頂。天晴である。
そして彼の家での様子はというと・・・・
「いったッ・・・!」
「オッスおはよっすー」
「あらおはよう綾香ちゃん。昨日は遅くまで勉強お疲れ様ねぇ。紅茶、沸かしといたわよ」
「せんきゅ、マミー」
自然と朝のあいさつを交わす母と妹に、主は不満げに文句を言う。
「綾香。朝から自然に俺の足を踏んでいかないでくれ。蟻んこみたいに」
綾香と呼んだ稔の妹は、それを完全にシカトし、朝食に手を伸ばす。
「あらぁ、稔ちゃん、起きてたの?お母さん気づかなかったわぁ」
「いや、ずっとさっきからいたんだけど」
朝から炸裂する母の天然に思わずツッコミむ。
というか、本当に天然なのか。人間一人に気づかないというのは、流石に故意を疑わざるを得ない。
「つか・・・謝れよ綾香。わざとだろさっきの。謝罪だ謝罪」
「ねーママァ、おみそしるの具材変えた?レンコンマジおいしいんですけどー」
生粋のヤンキーギャルである妹が、軽い口調で尋ねる。
「あのー謝罪・・・」
「あら~やっぱりわかるぅ?朝一番で買ってきたの。新鮮でしょ~」
「謝罪・・・」
「さっすがマミーだわ、レンコンのシャリシャリ感がちげぇ」
「し」
「何か言った?」
「いいえ、何も」
母が極道の妻のような、これ以上喋るなと言わんばかりの目で稔を睨みつける。
流石に稔も苦笑いし、責任の追及は諦めて別の話題を振る事にした。
「綾香、そういえばなんで制服を着てるんだ?今日学校は休みだろ」
綾香は食事中にかかわらず、携帯をいじりつつ返答する。
「は?兄貴に関係ねーし」
「ばっさりといくな。それくらいLINEを返しながらでもできるだろ」
「は?意外と集中力いるんですけど。まあダチいねぇし彼女もいねぇ兄貴にゃわからんね」
「馬鹿め、俺はわざと作ってなかっただけだ、今は後悔してないと言えばウソだが」
「キックボクシングが恋人とかいっててマジウケるよね。しかも結局破局してんじゃん。やばぁ」
こいつの顔をみそ汁に突っ込んでやろうかとも考えるが、会話を横目に監視する母の様子を視認し、思いとどまる。
「ところで、だ。制服着てる理由についてはまだ伺ってないんだが」
綾香はわざとらしく、「はぁ」と嘆息をつくと、
「ふつーに今日学校で練習なんですけど。けんどーの」
「おお、そうなのか意外と真面目に・・・・ってか剣道!?剣道と言ったか!?この間は卓球やってなかったか!?」
「あぁ、アレ?なんか飽きちったし、練習ダリーからやめた」
「やめたってお前なぁ・・・一応全国行ったんだろ?それにテレビも新星現る、的な感じで騒いでたじゃないか」
俺が十七年かけて成し遂げたことをこいつは一年で達成した。俺の生誕の一年後に生まれ落ちた新星は、次々と文武問わず偉業を成し遂げ、もはや彼女が獲得した賞や盾やトロフィー等で、一つの部屋が埋まる程である。そんな彼女は当然、両親から依怙贔屓された。
それに比例するように家の中に俺の居場所はなくなり・・・・
だが、そのとき見つけた彼の運命の恋人がキックボクシングである。別に、開始初日からベルト保持者に一杯食わせただとかそういった、妹のようなエピソードがあるわけではない。
ただ、その空間が心地よかったのだ。ひたすらそれぞれの人間がそれぞれの目標に向かい、寡黙にミットを打ち付ける音が好きだった。
勿論、稔は没頭した。時間のある時はジムに通い、友人とも遊ばずひたすらにミットを殴りつけた。
休日は朝から晩まで・・・・とにかく、のめり込んでいた。まさにそれは・・・稔にとっての生きがいであった。
才能がなかったわけではないのだろう。だがお世辞にも天才ではなかった。ひたすら毎日練習に打ち込み、血の滲むような努力の末獲得したのが、全国大会の切符なのだ。
だが、それが稔の人生のピークだった。
完治は不可能、復帰は絶望的―――。それが医者の診断結果だった。
網膜剥離―――ボクサーのキャリアを容赦なく奪う、悪夢。
凄まじい激戦の末手に入れた勝利の代償。
稔は齢17歳にして、視力と生きがいを天秤に掛けざるを得なくなった
凄まじい苦悩の末、彼はこれからの人生を見通すことに決めたのだ。
「はぁ?テレビとかしんねーし、勝手にアイツらわちゃわちゃ言ってただけだし。つか、ウチのやりたいいことしてて何が悪いの?的な」
「でもなぁ・・・そろそろ一つに絞ってもいいんじゃないか? 二兎を追う者は一兎をも得ずっていうだろ」
「一兎追ってたら気づけば十兎捕まえてんのがウチだし。いいかげん才能ないやつは黙っててくんね?」
「ぐっ・・・」
「あっそうだ」綾香が白米を突いていた箸を掲げ、思い出したかのように、
「けんどーで全国行ったら次はキックボクシングしよっかなぁ。たのしそーだし」
「は・・・?」
絶句する。何の競技をやるのも人の勝手だ。
だけどそれだけはやめろ・・・それだけは・・・・それをやられたら、俺は・・・
次第に怒りが腹の底から燃え上がってくる。
「―――ッお前なぁ・・・人を馬鹿にするのも・・・!」
「―――稔ちゃん。そろそろ文奈ちゃんの様子でも見てきてくれないかしら」
「ぇ・・・」
「ほら、困るのよねぇ・・・朝からそんな騒がれると・・・。だからね、おねがい?」
怖気が立った。背中が粟立ち、全身が針に刺されたように動かなくなる。
「ね?」
明るく、母はあくまで微笑んだままである。目は一切笑ってはいなかったが。
妹は何も言わず、携帯いじりと朝食を再開した。
稔はここで席を立つ。諦めたのではない。単純に恐ろしくなったのだ。
普段は温和で天然な母親が時折見せる威圧的な態度に、完全に気圧される。
普段怒らない人ほど恐ろしいというか・・・
というかそもそも、母親は妹びいきが過ぎる。異常ともいえよう。もはやこの家の男兄弟はいないものと扱われていると言っても過言ではない。
「母さん、朝ごはんもういいから」
稔は朝食もそこそこに、いそいそと居間を後にしようとする。
そして入れ変わるように、この家の家主である主の父、敏郎が居間に入ってきた。
のしりのしりと肩で風を切りながら歩くその巨体。単純に呼称するならば、つまるところ大男だ。
威風堂々としたその風貌は正に、いつであろうとこの家の王と呼ばざるを得ないほどの威圧感を放っている。
彼は横目に稔を一瞥すると、すぐ興味を失くしたように目線を戻し、食卓の上座、社長席よろしく玉座に腰を下ろした。
廊下につながるドアを開け、居間を後にした稔は、嘆息をつく。
はぁ、情けないな、おれ・・・・
自己嫌悪に加え、家族からのこの扱い。
生きがいをなくした人生への絶望感。俯きながら自分の部屋への階段を駆け上っていく。
その時であった。階段の先、目の前に誰かいることに気が付く。
「ひゃっ!」
偶然に進路が重なり、ぶつかりそうになる。
すんでのところで立ち止まるが、お互いの顔が極限まで近づき、彼女が大きくのけぞる。
「おっと」
のけぞった勢いあまって、後ろに倒れそうになる彼女の背中に手をまわし、支えてやる。
まるで社交ダンスの振り付けの様に、安定した姿勢のまま間が止まった。
「お、おおおはようござい・・・というより、あの、ありがとうございますっ」
彼女は真っ赤に赤面すると、激しくテンパりつつ、挨拶をした。
「大丈夫?」
「は、はいっ ごめんなさい、ミノルさん」
胡桃色をした、目を隠すほど伸びた前髪。そして繊細で華奢な体。
丁寧な言葉遣いは正に、良い家庭環境で育った心優しい女の子、と言ったところだ。
彼女の名前は堀田(旧姓:秋月) 文奈。 現在の立場上は妹だが、正確には我が家の養子である。
今年で12歳、中学一年生になる。
元々は母の姉の娘、つまり稔からすれば従妹にあたる存在なのだが・・・
母子家庭だったうえに、彼女の母親は二か月前、急病により突然この世を去った。
最寄りが母方の家しかなかったのと、彼女自身の強い要望により、我が家に養子として引き取られることが決まったのだという。
(まだうちに来て二か月だもんな・・・緊張もするだろう・・・)
昔から、心なしか彼女は稔と話すとき、普段以上に緊張しているように見える。
目元まで伸びた長い前髪を人差し指で巻きながら、もじもじと話すのだ。
無理はないだろう。慣れない環境に慣れない生活。
それに、元々体も弱い彼女は、家に籠っていることを半分強要されている。一日中寝たきりなんてこともしょっちゅうだ。
ストレスが溜まって人となかなか喋りずらいのは致し方ないことだろう。
そんな彼女が突然不憫に思えてきて・・・というより、彼女のその過酷な境遇が、突然自分に似通った理不尽なレールの上を走っているような気さえして・・・・。
「あの・・・どうかしました・・・か?」
文奈は目をパチクリさせて尋ねてくる。
「―――ん、いやなんでもない」
いかんいかん、思わず見つめてしまっていた。
稔は慌てて、背中に回した手で、文奈の体を起き上がらせる。
「ぁぅ・・・」
急な姿勢変更に、文奈も心なしか妙な声を上げた。
「というか、今日は早起きだね。体調はどうなの?」
「・・・そうですねよくもなく悪くもなくって感じです」
「そっか、でも無理しないで。一気に動くと体調崩しちゃうかもだし」
「は、はい。無理しないように、します」
そう言い、彼女は口元に手を当て、健気に笑った。
彼女が時折見せるこの表情は、なんだか今にも消えてしまいそうで、切なげで・・・とても儚い。
いま風が吹いてしまえば軽く吹き飛んでしまうのではないかと思うほど、彼女の体がより一層軽く見える。
そこらから少しの間、他愛もない話をした。
最近の学校、ニュース、天気だとか・・・話せることはあまりなかったけど。
そして話もそこそこに、途中で文奈が切り出した。
「ところであの・・・」
「ん?」
「今からあさごはん、たべようかなぁと・・・」
文奈は稔の服の裾を掴みながら言う。身長差から近づいて話せばどうしても上目遣いになる。
ブカブカ気味のパジャマの襟元から、彼女の白い肌と細々とした鎖骨が見え、ふいと目をそらした。
「いっしょに、食べていただけません・・・か?」
文奈は体調によって起きる時間がバラバラなので、この時間に朝食を食べるのは稀だ。
そのため、母親は文奈が起きてくるのと同時にお粥を温めるというのがいつもの風景だ。
ちなみに稔も気分によって起きる時間はバラバラなので、文奈と食事を共にすることはほとんどない。
「朝ごはんか・・・」
いやだ、とは流石に即答できない。
だがしかし、先ほど不機嫌気味に食卓を立ってきたばかりなのだが・・・
いかんせん、不格好が過ぎよう。
それに直前まで母親に威圧され、妹には無視を決められ、正直あの空間に戻りたくないというのが正直なところだ。
さらに、現在居間には親父もいる。
説明しよう。この家におけるわが父、敏郎とは、所謂”ジョーカー”である。
ポーカーで言うところのロイヤルストレートフラッシュ、ボクシングで言うところのメイウェザー、レスリングで言うところの吉田沙保里といったところか。
完全無敵、恐ろしさにおいても右に出る者はいない。
権力において武力においても、彼に勝てる人間など存在しないのである。
だが、だからこそ・・・文奈を一人にするわけにはいかない。
あんな環境に彼女を一人にしてしまえば、もはやストレスで呼吸もままならないだろう。
特に敏郎は、ある意味では最も平等な人間である。例え養子だろうと、病弱だろうと、ほかの人間と同等とみなし接する。
そんな彼が文奈への風当たりを強くしているのをミノルは見逃しているわけではないのだ。
それに正直、食事を途中で切り上げたせいで腹は減ってるし。
「じゃあ・・・おれも行くか」
「ホントですか!やった・・・」
ここにきて、文奈がようやく嬉しそうに微笑む。
そんなに朝食を食べられることがうれしいのだろうか。素晴らしい事だ。
そんな彼女の様子を見ているだけで、今の辛い現実稔から目をそらせるような、そんな気がした。
その時の事である。
「・・・・」
階段に一人の男が立ち、こちらを見下ろしていた。
「あ、兄貴・・・いつのまに・・・」
「・・・・」
「お、おはようございます。博さん・・・・」
文奈は何となくきまずそうに、目を泳がせている。
「・・・・」
そう、彼はあくまで無言で、彼は階段を下りて行き、俺たちの真横を通り過ぎていく。
この家において最もミステリアスな人間、それが我が兄、博だ。
彼は今年で22になる。仕事はしていないが、何かしらの収入源はある様だ。
彼がすることと言えば一日中部屋でひたすらロボット模型を作っている事、たまに外出したかと思えば、コンビニでウイダーとカロリーメイトを買って戻ってくる、それだけである。
そして、彼の考えていることを全て理解している人間は、この地球上には存在しないだろう。なぜなら、彼は一言も言葉を発さないのである。喋れないわけではない、たぶん。
恐らく喋りたくないだけなのだ。理由は分からないが。
幼少期は普通に会話していたような気もするが、いかんせん長い事彼の声を聞いてなさ過ぎて、もはやそれも夢であったような気がしないでもない。
ともかく、何も分からない。何も情報がない。それが堀田家長男、堀田 博なのである。
基本的にはニュートラルな立場を取ってはいるので、とりあえず無害だともいえよう。
「・・・じゃあ、俺たちも行こうか」
「は、はいっ」
兄貴は文奈にとって苦手なタイプかもな・・・というかアレが得意なタイプの人間がいるとも思えないが。
そんなことを考えつつ、ひとまず文奈の肩をポンポンと叩く。
「ひゃうっ!?」
「ええっ・・・ごめん」
肩を叩いたことは特に理由はなかったが、予想しない反応が返ってきてこちらとしても対応に窮する。
「あの、ごめん。びっくりさせちゃった?」
「い、いえそんな・・・びっくりしたと言えばそうだけどいきなりボディータッチが予想外だったっていうかなんというか・・・その・・・」
「あれ、もしかして嫌だった?」
「いえ!ぜんっぜん!そんなことないですからっ・・・むしろ・・・あの・・・」
「お、おう・・・そんな無理しなくて、大丈夫だからな?」
「むりじゃ、ないですっ・・・から・・・」
「おう、おちつけおちつけ・・・」
はぁ、健気だなぁ、こんなに気を使って・・・
本日一の元気で否定され、思わず語気が弱まる。
年上とはいえ、もともと家族でもない近しい年齢の異性と住んでいるのだ。
彼女だっていろいろ神経質になることもあるのだろう。
申し訳ないことをしたな・・・。
ここはあまり刺激してやらず、そっとしておくのが筋だ。
「んじゃ、行くか」
「はいっ」
想定外のタイミングでの兄の登場に、俺たちは少しその場に固まってしまった。
居間へ入っていく兄の背中を見送った後、そのまま朝食のために、稔と文奈は居間に向かうことにした―――。
そこで、異変が起きた。
人生の転機とはいつ訪れるか分からないものである。
交際、受験、就職、結婚、転職、出産、そして別離・・・
人間社会で生きていく上では必ず直面するのが転機というものだが、今回稔が直面した転機は、もはやそれらが可愛らしく思えるほど巨大で甚大で極大のものであった。
全てが塗り替わり、全てがひっくり返る・・・・―――その衝撃を。
最初は小さい兆候だった。カタカタと音を立て始めた花瓶が始まりであった。
次第にその音は大きくなり、気づけば廊下のありとあらゆるものが揺れ始めていることに気づく。
「―――地震かッ!」
稔が気づいた頃には、その揺れはもはや災害の域にまで強大化しており、家の所々から物が割れる音が鳴り始めていた。
傘立ては乾いた音を出しながら倒れ、花瓶は無残にも木っ端微塵に砕け、靴箱からは靴が溢れ出していった。
「え・・・なんで・・・?まさか、ほんとうに・・・?」
稔は反射的に文香を引き寄せ、押し倒す。そして覆いかぶさる形で彼女の体を包んだ。
もし、天井が砕けて、破片が当たりでもしたら・・・文奈の体では致命傷になりかねないだろう。
それならせめて・・・この俺が・・・
「稔さん、何を・・・!?」
「いいから動くな文奈ちゃん!今は危ない!」
「そうじゃないです!どうして・・・そんな・・・」
「文奈!!」
「はい!!」
「目、とじてて」
「え・・・?」
「いいからっ!」
揺れの音はどんどん大きくなる。家じゅうの骨組みという骨組みが悲鳴を上げ、今にでも家屋が倒壊してしまいそうな程の衝撃が常に彼らを襲う。そして崩落は既に所々で起こっているようだった。
ようやく目を閉じた文奈の様子を見て、稔は安堵する。
「いい?閉じたままだよ」
「はい・・・」
文奈は不安げに眉間にしわを寄せる。すぐにでも周りのの状況を確認したいのだろう。
けど、それはダメだ。
もし今、目の前にいる頭から血を流している男を見てしまえば、彼女はパニック状態に陥ってしまうだろう。
朦朧とする意識の中、稔はそんなことを考えていた。
一滴一滴、頭部から血が滴り落ちていく。
あぁーいってぇな・・・つか、血どんだけでるんだよ・・・やばいだろこの量は・・・
破片だ。破片が落ちてきたのだ。恐らく天井だろう。
豪邸ではないにせよ、天井まではそこそこの高さがある
あれ・・・・これ死ぬやつかな・・・?
まあいっか・・・近いうち、死ぬ予定だったし・・・
文香ちゃん、無事で・・・
なんだかんだ、綾香とか母さんにも世話に・・・なったし・・・
も一回、試合したかったな・・・・
文奈の声が、聞こえた。
―――いやです!そんな!!しっかりしてください!ミノルさん
しんじゃ嫌です!おねがいします!しなないで―――
いやだぁ・・・ごめんなさい・・・ごめんなさいぃ・・・
わたしずっと・・・・
だって・・・!わたしずっとミノルさんのことを―――
・・・・・・くそが・・・・・
家屋を組み立てる物すべてか甲高い悲鳴を上げる。
柱は割れ、天井が崩落し、ありとあらゆるものが崩壊した。
堀田 稔の意識は、ここで途切れる。
高校二年生の夏休み、堀田稔は生ける屍から、ただの屍となった。