よくある聖女を召喚するゲスい国がどうやってできたのか考えてみた
むかしむかし、南の砂漠にとある国がありました。
お国は見渡す限りの砂漠で、森や林なんてものはありません。
砂漠の国の民はみんな、食べていくことで精一杯でした。
周りの国も、どんなによその国と戦争しても、砂漠の国にだけは侵攻しませんでした。だって、勝つのは間違いありませんが手に入るのは砂漠ですから。
砂漠の国の王様は、あまりにも民が不幸せなのを見て神様に祈りました。
『神様、神様、民達みなが幸せになって欲しいのです、どうかお力をお貸しください』
あんまり王様は一心不乱に祈りましたので、天高くおわす神様のところまで王の祈りの声が届きました。
神様は地上から声が直接聞こえるなんてことは初めてでしたので、地上の木偶たる王様の話を聞いてみる気になりました。
『人よ、お前の祈りは天の上の私に直接聞こえて来たが、そんなに皆を幸せにしたいのかね』
王様は天から聞こえてくる厳かなお声に驚きましたが深く伏して答えました。
『はい神様、この国に生まれたばかりに、いいえ私の力が及ばぬ為に民に苦労をかけているのが悲しいのです』
『そうか、それでは、別の世界からお前の妻を呼び寄せられる魔法を授けよう。そうして呼んだ妻が幸せを感じる間、お前の国が幸せになるよう祝福をやろう。妻はお前と同時に死ぬようにして、死ぬまで共に在れるようにすれば祝福も長く続くだろう』
神様の提案に、王様は恐れながらと顔をあげました。
『私は人ですから長く生きても後数十年で死んでしまいます。しかしこの国はもっと長く続きます。私と妻との間の子孫達がこの世にある間、代々の妻を呼び寄せるお許しをいただけませんか』
『そうか。お前たちは瞬きほどの時間に塵になるのだった。それではお前の係累が続く間、この祝福は続けよう。励めよ』
神様は王様に妻を呼び寄せるための魔法を、小さな鍵の形に変えて授けました。王様はその鍵を使って扉を開き、そこに妻たる女性が立っていたのでその女性をすぐさま王妃にしました。
王様はその生涯を使って王妃を愛し、尽くし、支えられました。不思議なことに、王妃が立って間もなく砂漠の国は緑あふれる美しい国へ変貌を遂げました。どんな作物も必ず豊作になり、よその国が攻め込もうとすれば落雷や嵐に阻まれ、何の邪魔も入らぬ砂漠の国は、もはや国の名前以外に砂漠の名残を残さぬようになりました。
◇◇◇
神様と約束を交わした王様が、砂漠の国の賢王と称えられてから長い時間が経ちました。王様も王妃様もすでにこの世にありません。しかしその子供達は、王族として砂漠の国を治めておりました。
『おお、王子よ。何ということを申すのだ』
王様から数えて十人目、王様十世は悲痛な声を出しました。立派な玉座から立ち上がった王様十世の正面に跪いているのは王様の長男、王子様です。
『しかし王、私はすでに真実愛する方を見つけたのです。この愛を殺せと仰るならば、私は己に嘘をついて生きることになります。そのような者に異世界の妻を愛せるはずもありますまい』
王子様は迷いなく言い切り、そうして自分の後ろで跪いたままの女性を優しく見やりました。
『しかし、いや、そうか。王妃よ、そなたはどう思うね?』
十世の隣の、体格に合わせて少し低い玉座に座る王妃は目を閉じたままでしたが、少しして瞼を引き上げました。
『王子の意見は正しいように思いますわ。愛に嘘はつけません。他の者を愛しながら囁く睦言ほど空々しいものはありませんし、それを感じ取れないほど鈍い女性は少ないでしょう』
王妃の意見を聞いた十世は、やはりそうかと溜息を吐きました。
『王としての資質は、そなたが一番優れていたのだが。仕方あるまい。それでは次兄に王を継いでもらおう』
そうして、心優しい長兄は臣下に下り、少しばかりずるいところのある次兄が次の王様になりました。十一世になった次兄は、しかし異世界の妻を丹念に愛し、ちょっとうざがられつつも生来のずるさを上手に発揮して生涯愛されました。
この時、十一世は国の法律に一つ条項を付け足しました――王は、子供をできるだけ多く作ること、と。それは、十世とその長子とのやりとりを踏まえたものでした。一人っ子の時、その王子が運命の人を見つけないとも限らないので。
◇◇◇
砂漠の国の王様二十三世は、頭を抱えていました。一番年かさの王子が異世界の妻を娶りたくないというのです。いえ、それ自体は王族に伝わる歴史書をめくればよくある話なのですが、この王子は何を思ったのかとりあえず呼んでみて、異世界の妻が好みじゃなかったら愛せないから他の者に譲りたい、と言い放ったのです。
『王子よ、そなた思い違いをしておる。【妻の鍵】を使った者の妻を呼び寄せるのだから、そなたが呼んだらその者がそなたの妻になるのだ』
それを聞いた王子は嫌そうな顔をしました。
『絶対に異世界の妻が私の理想を体現したこの世で一番の美女であるという保証がなければ、私は妻を呼びません』
言うほどの顔かよ……と二十三世は思いましたが、自分も別にそんなに美形ではないので聞かなかったことにして、二十三世は玉座から立ち上がりました。
『あいわかった。それでは次兄……はすでに妻がおるから三男……も婚約者がおるし四男……はこないだ付き合い始めた話を聞いたか……末の子に呼んでもらおう』
この頃になると、子供はたくさんいるのですがみんな早々に相手を見つけてしまい、跡を継げる王子は一人か二人かしかいないと言う状態が多くなっていました。
急遽玉座の間に呼ばれた末の王子はにこにこしながら二十三世を見上げました。
『わかりましたお父様! 僕、ちょっぴり早いけどお嫁さんをお呼びします』
末の王子はまだ六歳でした。まさか五人も王子がいて、最後の一人が継ぐことになるとは思ってなかった二十三世は急遽世継ぎ教育を開始する羽目になりました。末の王子は厳しい教育にずいぶん泣きべそをかくことになりましたが、六歳にして既婚者になりましたので同い年の妻によくよく慰められ、褒められ、上手に育てられて優しい王になりました。人によっては、王妃の尻に敷かれた王様に見えたかもしれません。のちの二十四世の御世は、長い歴史を振り返っても長いものになりました。
この時、二十四世は国の法律に二つ条項を付け足しました――王の子供のうち、異世界の妻を迎える者を王太子とする事。それから、王太子が決定するまで――すなわち誰かが異世界の妻を迎えるまで誰も妻帯してはならない、と。それは、二十四世が王位を継ぐことになった経緯を踏まえたものでした。
◇◇◇
神聖砂漠王国の国王三十七世は、自分の耳を疑いました。
『なんと、王太子よ、そなた今なんと申した』
王太子は跪いていましたが、その顔は三十七世にまっすぐ向けられていました。
『はい陛下、私は異世界の妻も愛しておりますが他にも愛する者がおりますので妻を複数迎えることといたします』
何言ってんだこいつ羨ましい、と三十七世は思いましたが、個人的な思いは置いておくことにしました。
『妻を幸せにするのが王の役目ぞ。そなたがそのように不誠実では異世界の妻が幸せになれぬ』
何しろ王太子は異世界の妻を娶っているから王太子なのです。もう決定してしまっているので、他の王子もみんな身を固めてしまっています。今更チェンジなんてできません。
『大丈夫です。妻も賛成してくれました。何しろ私も妻も彼女の事を気に入っている者ですから。勿論異世界の妻が王妃であることは変わりません。新しい妻はそうですね、立場上も差をつけるために側妃と称することにいたしましょう』
王太子の言い分を聞いて三十七世は頭が痛くなりました。
『せめて妃扱いはやめよ。前例を作るでない。妾と称すべきだ』
三十七世も、執務室付きの侍女が六名ほど事実上の愛人状態なのであまり強く言えません。勿論妻には内緒です。
『成る程、正しく妻は一人とするわけですね。それでは公妾としましょうか』
『まあ、それならよかろう』
こうして三十八世になった王太子は、史上初めて王妃公認のお妾さんを囲った王になりました。この代の王妃はとりわけ寛大で聖女のようだと称されましたが、寝室には常に三十八世と王妃が一緒に入り、公妾達が順番に呼ばれて一夜を過ごしている――と言うのは、上層部のさらに一握りだけが知る極秘情報でした。
三十八世が付け加えた法律は一つです。言わずもがな、公妾制度でした。この頃になると、王族の妻に関する法律は複雑になりつつありました。
◇◇◇
神聖砂漠王国の国王五十世は、悩んでおりました。
『いくらなんでも、あまりに不誠実であろう。そなたが聖女に注げる愛の量は限られておる』
今代の王太子を決定する会議で、唯一自分で立候補した王子の素行は勿論五十世の知るところでありました。確かに、王族の男子は王太子が決定するまで妻帯してはならないけれど、それにしたってこの王子には公妾が三十人もいるのです。一周するのに一ヶ月かかります。
『別に子供は必要ありません。私の子供はすでに公妾達がたくさん産んでくれています。あとは私が聖女に愛を捧げればよろしいのです』
王子は熱弁を振るいました。歴史書をたぐり、初代王陛下の神様とのやりとりを書き残した文書を調査したけれど、王子の条件は初代王陛下と初代王妃陛下の間の子――つまり、その後の王子達が異世界の聖女を迎えて幸せにすれば条件は満たされると。代々の王子と異世界の妻との間の子供であれとは書かれてないと。
『ほ、本当だ』
五十世はじめ、王族達は提出された資料を確認して驚きました。初代王と初代王妃の血さえ引いていればいいのです。ということは、王族を親として生まれればどの子でも良いということになるのです――それは、公妾達と、その子供たちの地位を著しく向上させる事実でした。
こうして五十一世になるべく王子は宣言通り異世界の聖女を迎え、立太子後も生涯聖女を抱くことなく、しかし聖女を愛し抜きました。王太子が聖女を迎えたのは二十三歳でしたが、聖女は呼び寄せられた時六十歳でした。
五十一世の治世は短くありませんでしたが、あまり長くもありませんでした。聖女は十分に長生きしましたが、それでも人間の限界を超えることはできませんでした。おおよそ四十年ほどです。
この代で付け加えられたのが、聖女との交情は必須ではない旨と王族の範囲の拡大です。父親が王族でありさえすれば、母は聖女でも公妾でも良くなりました。これ以降、王族の数は鰻登りに増加することになりました。
◇◇◇
神聖緑化砂漠王国の国王六十二世は焦っていました。
『このままでは国が終わってしまうではないか……』
六十二世の子供たち、王子は全部で二十八人いたがその誰もが異世界の聖女を呼びたがらなかっのです。
『私はもう公妾を愛しております』
『私もです』
口々に王子たちは自分の公妾を愛してやまない話を繰り出しました。完全に惚気話です。六十二世は正直どうしたらいいかわかりませんでした。王子たちは誰が異世界の聖女を娶るかで揉め始めました――それは有り体に言って押し付け合いでした。
結局、六十二世が没する一年前まで王太子は決まらず、最終的に聖女を引き受けることになった王子は、年々しおれる父親を見かねたというのが正直なところでした。勿論王子にも愛する公妾がおりましたので、聖女を愛せる自信は全くありませんでした。
六十三世になる王子は聖女を呼び出し、そして聖女を生涯たいそう可愛がりました。何しろ王子は五十五歳で聖女を呼び出し、呼び出された聖女は五歳でしたので、孫のような年の離れた聖女を愛することができました。
この代で追加された法律は、聖女とは必ずしも婚姻関係でなくて良いというものでした。
◇◇◇
神聖緑化砂漠天下独尊王国の国王七百七十七世の御代は長い長いものでした。聖女は王宮に設えられた神への祈りの間で時を過ごしているのだと言います。
とある男は度重なる徴税に苦しむ民に耐えかねて、闇夜に紛れて王宮へ侵入しました。
長過ぎる平和のせいで、王宮には警備も兵士もいませんでした。思っているよりずっと簡単に侵入できてしまい、男はむしろ罠を疑うことになりました。
「王族と王族に諛う貴族だけが幸せなこんな国、滅べばいいのに」
男がそらんじたのは、一緒に育った幼馴染の今際の際の呟きです。男もそう思っています。
この国で生産される全ては王族と貴族のものです。民は生きていくのがやっとです。けれど、国から逃げようにも、外国との境目に近づけば近づくほど大地は荒れ果て、砂嵐が吹き荒れ、とても生きて通り抜けられるような環境ではありませんでした。
男にとって世界は辛く悲しく空虚なものでした。家族に等しい仲間たちを失いながら生きてきました。もう知り合いは誰もいません。最後の幼馴染も昨日死にました。この国では民は弔うことさえ許されません。男はもう息をするのも辛いと思いました。だから、息が止まる前にせめて、この国で一番悪い奴を殺しに行こうと思いました。
「国を、幸せに、……」
男はひたひたと王宮を進みます。勿論、人に見つかっては目的が達成できませんので人気のない方へ進むことになりました。男も、自分が狙う人物は多分人に囲まれているだろうとは思いましたが、まずは王宮の構造をある程度把握することを優先させました。
「愛の、力で……」
男はもう過ぎ去って久しい、彼の母親が寝物語として語ってくれたこの国にまつわる御伽噺を思い返していました。昔々のこの国の最初の王様と聖女のお話です。御伽噺では、王様と聖女が愛し合って、神様が祝福をくださって国中が幸せになってめでたしめでたしになりました。
だから男は御伽噺がデタラメなことを知っています。だって国中が幸せになったのなら、どうして男達はこんなに苦しいのでしょう。嘘ばっかりです。
民の間では、王族よりもなによりも、聖女こそが怨恨の対象になりつつありました。聖女がいなければ王族は力を失い、聖女がいなければ貴族は無力に、聖女がいなければ自分たちが。
「なにが、聖女だよ……」
会ったことはありませんが、絶対に贅を凝らした衣装に身を包んだ高慢ちきなロクでもない女に違いないと男はずっと思っています。そうでなければいけません。つらつらと想像の中の聖女をひどい目に合わせながら王宮を進んでいた男は、人を避けるうちに薄暗く小汚い地下層に入り込んでしまいました。
流石にこんなところに聖女なんかいるはずないので、男は戻ろうと思いました。けれど、ふと少し先の角の向こうにちらついている灯りが気になりました。地下なのに、わざわざ灯りがついているのは不自然です。地上部に戻るのは、あの曲がった先を確認してからでも遅くないと男は思いました。
「明るい……」
暗闇を伝ってきた目には些か強過ぎる光が近づいてきます。通路の奥では不思議な質感の扉が光っていました。男は見たことがありませんが、その扉は磨りガラスが大きくはめ込まれていました。男は扉の軽さに驚きながら、そろりと扉を開けました。鍵もかかっていないその部屋には、一人の女性が座っておりました。
男は女性が騒ぐようであれば口封じをしなければならないので、錆びた包丁を懐から構えてじりじりと近づきました。しかし、女性が男の方を見もしないことに違和感を感じて立ち止まり、女性の顔を覗き込むようにしました。そしてハッと息を呑みました。
女性の目は半開きでした。どこにも焦点のあっていない目はぐるぐると揺れています。口も開いたままで、よだれが垂れていました。おそらくずっと垂れているのでしょう、赤子につけるようなよだれを受ける布が女性の首元に巻かれていました。
物凄く高価そうな衣装を身にまとい、煌びやかなお部屋にいるのに、女性の周りには誰もいませんでした。こんなに大事にされているのに、不自然でした。男は部屋を調べましたが、引き出しもクローゼットも空っぽでした。なんだか不気味です。
男がもう戻ろうかと迷った刹那、扉がノックされました。見つかってはいけません、男はとっさに空っぽのクローゼットに飛び込みました。大きなクローゼットは、痩せっぽちな男なら五人は入りそうでした。
「失礼します、聖女さま。お食事の時間ですからね」
幸い、入ってきた侍女は男の存在にはかけらも気づかないようでした。どこと無く面倒そうな雰囲気を漂わせた侍女は押してきたワゴンから皿と匙を取り上げました。
「はーい聖女さまー。口開けてくださいねー。よだれ掛けは、ま、いっか。汚れたってどうせわかんないですもんね。お着替えもお風呂もいりませんね」
クローゼットの隙間から覗いている目に気付かないまま、侍女は傍目にも雑な給仕を終えて、皿を片付けました。それから侍女はハンカチを口に当て、大きな瓶の蓋を開けます。広い部屋で離れた位置にいる男にもわかるほど、重く甘い香りが漂いました。物凄く嫌な感じのする香りに、男は思わず息を止めました。聖女も匂いに反応したのか、手首の先が揺れ始めました。侍女は瓶の中身を一すくいカップに移して、聖女と呼ばれた女性にそれを近づけました。
「ほーら聖女さま、お好きなシロップですよー。幸せになれるシロップですよー。ったく、これ飲んでぼんやりしてりゃいいってんだからいいご身分ですよねえ。ま、代われって言われたら断りますけどね、フフッ」
欲しがるように鼻先が蠢いた聖女にカップの中身を飲ませて、なんとドレスのまま聖女を寝台に寝かせた侍女は元通りワゴンを押して部屋を出て行きました。
「いいですねえ聖女さまは、いつだってお幸せな夢の中で」
吐き捨てられた独り言が、男の耳に届きました。
静寂の戻った部屋の中、男はクローゼットから抜け出しました。豪奢な寝台の天蓋は閉められないままです。よく見れば聖女は掛け布団もかけてもらえていませんでした。本当に寝かされただけで、それでもやっぱり目は半開きでした。
男は聖女を静かに見下ろしました。これからどうすればいいのか男ではわかりませんでした。殺そうと思った聖女は、男の思っていた姿とは全く違いました。だいたい、自我とか意思らしきものが全く見えないのです。ひたすらにぼうっとしています。男の脳裏に、先ほどの侍女が言っていた言葉たちがよみがえりました。
男には学がなく、難しいことはわかりません。嫌な匂いの瓶、おざなりな侍女、想像と違い、大事にされない聖女。ただ、聖女に包丁を突き立てるのは正しくないと思いました。男は聖女を見下ろしながらいつの間にか泣いていました。悲しくてたまりませんでした。
何が悲しいのかわかりませんが、男はひたすらに涙を流しました。手で拭うこともしなかったので、汚いボロ切れみたいな服の胸元がどんどん湿って行きます。それでも涙は止まりませんでした。
「神よ、俺は悲しいのです、なぜ悲しいのかわかりません、けれどこの世界はあまりにも悲しい」
男の慟哭が世界に放たれて溶けました。無学であるがゆえに男の悲しみは祈りに似て純粋であり、はるか昔と同じように神様の元へ届きました。神様は、いつかの地上の木偶のことを思い出して懐かしくなり、もう一度声をかけてみることにしました。
「人よ、お前の悲しみがあまりに透明なので、天の上の私のところに届いてきた。お前は何故それほどに悲しむのかね」
男は天の上から聞こえてきた声に、悲しみのままに答えました。
「どうしてかなんて、自分でもわからないのです。俺は大事な人たちをなくしながら生きてきた。仇のように憎んできた相手が、何もわからないことを知った。俺がどれほど憎んでいても、たとえ殺したところで、こいつは何もわからないのです」
「そうか、お前には何もなくなってしまったのか」
男が生きる支えにしてきたのは、憎むべき聖女でした。けれどももう男は聖女に憎しみをぶつけられなくなっていました。男の世界が辛いのは聖女のせいではなかったのです。
「神よ、神よ、何故この世界はこれほどまでに理不尽なのですか。異世界の聖女が幸せになればこの国は幸せになるのではなかったのですか。どうして聖女はこんなところに捨て置かれて、夢の中に押し込められているのですか」
哀れな男の問いに、神様は答えてやることにしました。
「世界はもともと理不尽なものだ。お前の国は確かに異世界の妻が幸せを感じる間国中幸せになるように祝福されている。妻が空虚な幸せを感じているから、お前の国も虚栄がはびこっている」
「空虚……虚栄……」
学がない男でしたが、神様の言葉は不思議と理解できました。聖女は幸せに生きていなければなりません。代々の王がそれを実現するため努力してきて、そしてそれはいつの間にか形骸化して、やがて王達は努力自体を放棄したのです。どんな聖女でも、夢を見せていれば、少なくとも表面上は豊かな国を維持することができるから。代を重ねるうちに、王族は傲慢になっていったのです。
「人よ、砂漠の民たるお前が幸せでないということが、異世界の妻が真実幸せでないという何よりの証明である。何も持たぬ哀れな男よ、お前に持ち物と役目をやろう」
神様は、この可哀想な男の前に小さな鍵を落としました。男はそれを無言で拾い上げました。
「その鍵は、異世界の妻を呼ぶ魔法である。いつだったか、この国の王に祝福とともに渡したものだ。お前はそれを持ち、長い時間をかけて人の世を巡るのだ。人よ、祝福の終わりを見届けよ」
男は神様の言葉を噛みしめるように沈黙しました。それから、男は無言で跪き、祈りました。男の祈りも透明で、すぐに届いた祈りに天の上の神様は一つ頷きました。
◇◇◇
男は神様に与えられた役目を果たすため、世界中を歩き回りました。男が国境に向かって進むと、嵐は収まり荒野には命が芽生えました。男が通り過ぎた後は、何もかも元通りになりました。男だけは何事もなく国境を超えました。
男は歩いて行けるすべての国を回りました。砂漠の国は、どことも一切交流がなかったことを知りました。厳しい暑さの国もありましたし、一年中吹雪いている国もありました。雨の多い国や、砂漠のある国も通りました。男は砂漠の国出身でしたが、砂漠というものを見たことがありませんでした。
色々な人に会いました。皆、今日を一生懸命生きている人たちでした。男は自分の空っぽな心に、すこしずつ何かが詰まっていくのを感じていました。それは、色とりどりにキラキラ光っているような、柔らかいような何かでした。
そうして男は長い時間をかけて、砂漠の国に戻ってきました。砂漠の国は、男の記憶と違って荒涼とした砂漠でした。男は王都があるはずの方角に向かって進みました。
王都が見えてきて、男は足を止めました。王宮は廃墟になっていました。広大な城下町は砂漠に飲み込まれ、石造りだった家すら跡形もなくなっていました。男はいつかと同じく、王宮に足を踏み入れました。
「鍵を持て!鍵を!鍵さえあればあ!」
人っ子一人いない王宮をひたすらまっすぐ進んで、広間のような場所に出た途端に叫び声が聞こえました。男は所々に建てられている巨大な柱に隠れながら、声がした方に近づきました。
「鍵がなければ聖女が呼べない!鍵はどこだあ!」
「鍵……鍵……」
幽鬼のように痩せ衰えた男達が、互いに互いを引っ張り合うようにして床に這いつくばっていました。立ち上がる体力がもうないのかもしれません。響きは違えど一様にがらがらの声が、呪いのように鍵を求めていました。きっと、彼らは死ぬまで鍵を求め続けるのだろうと思いました。
男には神様が何を思ってこの国に祝福を授けたのか、全然わかりません。ただ、おそらくこのような形での終わりを望んでおられたとは思えませんでした。長過ぎる時間の間に、何かが捻じ曲がって行ってしまったのかもしれません。
砂漠の国を出た男は、手の中の鍵を見つめました。この鍵とお役目を預かってから、男は歳をとらなくなりました。怪我をしてもすぐに治るようになりました。喉も乾かず、お腹も空かなくなりました。男は人ではなくなっていました。
「神よ、いただいたお役目は果たしました。鍵はお返しいたします。私には、もう必要ありません」
男は神に祈り、鍵を天高く放りました。鍵が落ちてくることはなく、男は笑顔になりました。これから男は心を持って、世界を旅することに決めています。何もないと思っていたのは、なくしたものばかり数えていたからでした。でも世界には誰のものでもない、素敵なものが数え切れない程あるのです。
「ああ、腹減ったなあ!」
とりあえず、最初に行くのは近くの酒屋か飯屋にしようと男は進み始めました――。